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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』7-12:須田訴人事

『政宗記』7-12:須田伯耆の訴え

原文

かかりけるに、氏郷大崎へ働き出名生の城を攻落し、松森へ引上給へば、政宗家に須田伯耆と云いける者、何と気遣ひけるやらん、蒲生四郎兵衛と云氏郷家老者を頼み、「今度一揆へ政宗も内通して、已に氏郷を討果さんと云謀有」とて、松森へ駈入隠れ居りけり。氏郷是を聞給ひ、「名生の城を取ける事幸ひ也」とて普請をなし、彼要害へ引込給ふ。政宗其内証をばしり給はで、宮沢と云処へ働き、其より氏郷へ飛脚を遣し給へば、疑心をなして内へも入れず、忽に中途より押返しけり。斯て宮沢をば近陣にし給ひけれども、右にも申す伊勢守父子佐沼へ籠城なるを、一揆の勢とも取巻ければ、彼城に飯米以下も有間敷に、急ぎ籠城を引出さんと思はれけん、近陣の宮沢なれば、急には落ちがたき故先彼地へ無事を入、城主葛岡太郎左衛門を召出し、其より佐沼へと宣ひければ、一揆の者共是を聞て、一人残らず退散也。爾と云ども佐沼へ尚も打出、伊勢守父子引出し、名生城へ遺し給ふ。然る処に、一揆の徒党へ政宗も一味也と、伊勢守聞給ひ、氏郷同意に籠城し給ふ。されば大崎の内高清水の城主不月は右より伊達へ申寄居城引退。政宗は高清水の城へ引込、先人馬の息を休め給ふ。然りと云ども、彼要害敵中にて、方々一揆の要害多かりければ、寒気の時分逗留有て、働き給ふも如何あらん、折節又須田が虚言誤りなき通り、中途迄上り給ひ、弾正少弼へ仰せ分られ、然るべしと答申す。実もいざさらばとて、高清水を打立給へば、古川・道々両城の一揆原出向ひ、一戦を持ちかけけれども、構はずして通り給ひ、其夜は遠藤出羽居城に一宿有て、翌日黒川へかかり、段々して信夫の福島へ着給ふ。扨二本松へは浜田伊豆・原田左馬介両使を以て弾正少弼へ誤りなき通り、彼両使を差置聞給はば、氏郷へも明白なる事どもを宣ひ預れとて、御身は先信夫の飯坂へ移し、逗留し給ふ。扨弾正へ伊豆・左馬介訴へけるは、「政宗氏郷へ如何なる意趣にて、一揆の徒党へ与し候べき、縦ば与して打果すと云ども、天下を敵となし奉り、我身をいづくに納むべきと申されけれども、須田が虚言を実にし給ひ、未御疑心晴給はず、名生へ引込御座」と申しければ、其数条に仍てこそ弾正少弼より、氏郷へ飛脚を遣し給ふに、黒川より人数を以て上下を送る。而して後弾正少弼両使へ宣ひけるは、「兎角名生より氏郷を御引出候はでは、仰せ分られども如何と思ひ、名生へ其旨申ければ、さらば人質なくては出間敷と申られけり、人質にて引出され然るべし」と宣ふ、是に仍て、政宗親類彦九郎盛重を人質に、扨成実には「名生の近所を働き、氏郷出られけるやうに」と宣ひけれども、成実は其頃二本松より取移し、郎等ども方々へ散ける故に、国分・黒川両所の人数を差副給ひ、伊達上野守政景を始め、惣じて中奥の人数を以黒川迄相詰、極月二十日に大崎へ打出働きければ、弾正少弼より、伊達彦九郎に浅野六右衛門を差添、名生へ遣し給へば、氏郷「伊達成実か、扨は同苗政景を越給はでは、出間敷」とて押返し給ふ。是に付て働の者ども、又黒川へ取て返し、其旨飯坂へ申しければ政宗、成実に「名生へ出よ」と宣ふ。成実其頃極月二十九日迄働き、四竈に在陣なりしが、天正十九年辛卯の正月元日に、四竈より直に浅野六右衛門・伊達盛重とともに名生へ参り氏郷へ御目に掛、同二日名生を打立、黒川に一宿有て、三日には岩沼、四日には刈田の宮に、一日逗留し給ひ、宮よりその日に二本松まで通り給ふ。而るに、信夫の大森にて氏郷成実宿へ御坐て、鎧一両・脇差一腰給はり、是より罷り帰れと宣ふ。二本松まで御供せんと申しけれども、頻りに留給へば、其義に任せ其より飯坂へ参り、其旨政宗へ申しければ、一日相過二本松へ出馬有て、弾正少弼へ見廻給へば、悦び給ふ事斜ならず。「色々人の申成にて、思ひの外なる御苦労、中々笑止也」と云ひ、御馳走尋常ならず。政宗も「春中に又大崎へ働き給ふべし」と仰せ合され、其日の暮に二本松を打立、飯坂へ返り給ひ、同九日には米沢へ引込給ふ。されば、須田伯耆元来を申すに、大沼大膳と云者の家中也、而る所軍の砌、古主主膳に逆心して、伊達へ直奉公とは成けれども、其節伯耆親をば道旬とて、父子ともに政宗前へも、漸正月一ぺん目見通りの者也、故に軍のときも与力付きの備へに入る。然る処に、輝宗死去し給ふ刻、米沢より百里隔ち、信夫のうち菜剪場と云在所にて、右の道旬追腹也、政宗も其首尾覚へ給はず、不審には思はれけれども、流石供腹と申ければ、死骸を夏猟へ呼、輝宗同意に弔ひ然ふ。然れども、世間にては道旬追腹不審也と唱へけり。斯て政宗遠藤山城・内馬場右衛門子に、加増を賜はる。此時伯耆にも給はりければ、両人同意に給はらずと申しける由、山城子文七郎は家の家老、右衛門も一通りの者なりしに、其衆と同意に成らずとて、驚怖を銜むは勿体なし述懐哉、其心故にこそ、今度偽事を企、氏郷へ訴人して忠なれば政宗をば切腹させ天下より其身は所領を取ぞと心得、一皮計りの思案にて、右の通りとみへたり。伯耆弟を成実一年召使ふ。其首尾故に成実処へ、伯耆も出入候へけるに、惣じて卒爾者なりしが、其如く也と申しける。
寛永十三年丙子六月吉日        伊達安房成実

地名・語句など

名生(みょう):古川市大崎名生
宮沢(みやざわ):古川市宮沢
道々(とど):遠田郡田尻町のうち百々
飯坂(いいざか):福島市飯坂町
中奥:宮城県中南部地方
四竈:宮城県加美郡色麻村四竈
宮:刈田郡蔵王町宮
夏猟(なつかり):山形県東置賜郡高畠町夏刈
驚怖:この場合は不満の意味
述懐(じっかい):愚痴を言い立てること
一皮:浅はかな
卒爾者(そつじもの):粗忽者/思慮の浅い者

現代語訳

さて、氏郷は大崎へ出陣し、名生城を攻め落とし、松森へ引き上げなさったところ、伊達家に須田伯耆という者がいたのだが、なんと考えたのか、蒲生四郎兵衛郷安という氏郷の家老を頼り、「今回の一揆へ政宗も内通しており、既に氏郷を討ち果たそうという謀り事がある」と言って、松森城へかけいり、隠れて居た。氏郷これをお聞きになって、「名生城を取ったことは幸いであった」と言って工事を行い、この要害へ籠城した。政宗はこの内情を知らずに、宮沢というところへ攻め入り、そこから氏郷へ飛脚を使わしたのだが、氏郷は疑って中にも入れず、すぐに途中から引き返した。
そのため宮沢近くに陣をお引きなさったけれども、前述した木村親子が佐沼に籠城しているのを、一揆の勢が取り巻いていたのだが、彼の城には兵糧米なども無かったため、急いで籠城を止めさせようと思われたのか、近陣の宮沢はすぐには落ちにくい場所なので、まず彼の地へ無事を居れ、城主葛岡太郎左衛門を呼び出して、それより佐沼へと仰ったところ、一揆の者たちはこれを聞いて一人残らず逃げた。
そしてまた佐沼へ出陣し、木村親子を救出し、名生城へ遣わされた。そのときに、一揆に政宗が加担していると木村吉清は聞き、氏郷同様に籠城なさった。大崎領の中の高清水城城主、高清水隆景布月斎は以前より伊達へ内応し、居城から退いた。政宗は高清水城へ入り、まず人と馬をお休めになった。
しかし、この要害は敵の中にあり、あちこちに一揆側の要害が多いので、寒い間逗留なさり、出陣されたのもどうだったのだろうか、ちょうどまた須田の虚言が間違いない通りと、中途までお上りになり、浅野長政へ仰られ、その通りであると答えなさった。
高清水を出立したところ、古川・百々両城の一揆勢が出てきて一戦をもちかけたのだが、構わずにお通りになり、その夜は遠藤出羽高康居城の松山城にて一晩お休みになり、翌日黒川へ出て、しばらくして信夫の福島へお着きになった。さて二本松へは浜田伊豆景隆・原田左馬助宗時の二人を使いとして浅野長政へ間違いないようこの二人の使いを差し置き、事情をお聞きになると、氏郷にも政宗の潔白なる事を言ってくるようにと、ご自分はまず信夫の飯坂へお移りになり、逗留なさった。
さて浅野長政へ浜田景隆・原田宗時が訴えたのは、「政宗が氏郷へどのような恨みを以て一揆へ味方することがあるでしょうか、もし一揆に参加し討ち果たしたとしても、天下を敵として、この身をどこに納めればいいというのかと仰いますが、須田の虚言をまにうけて、未だ疑いの心が晴れず、名生へ引き込んでいらっしゃる」と申し上げると、そのことにより浅野長政から氏郷へ飛脚を使わしたところ、黒川から手勢をだして、行き帰りの彼等を送った。
その後浅野長政が浜田・原田両使いに仰ったのは、「とにかく名生から氏郷を引き出さずには、おっしゃられることもどうすべきかと思い、その旨を名生に言ったところ、『では人質なしでは出ることはない』と言われた。人質にて引き出されませ」と仰った。
このため、政宗は親類の彦九郎盛重を人質にし、さて成実には「名生の近所を攻め、氏郷が出られるように」と仰ったが、成実はその頃二本松より移り、郎等どもはあちこちへ散っていたため、国分・黒川の手勢を差し添えなさり、伊達上野政景をはじめ、中通りの手勢を黒川まで詰めさせ、12月20日に大崎へ出立し、出陣した。
浅野長政から、伊達彦九郎盛重と浅野六右衛門政勝を付き添わせ、名生へ遣わしたところ、氏郷は「伊達成実か、さては伊達政景を越さないのであれば、でない」と言って押し返された。
このため、出陣していた者たちを黒川へ引き返し、その旨を飯坂にいる政宗に言ったところ、政宗は成実に「名生へ行け」と仰った。成実はその頃12月29日まで四竈に在陣していたのだが、天正19年の1月1日に、四竈から直接浅野六右衛門・伊達盛重と共に名生へ行き、氏郷へ目通りし、1月2日に名生を出発して、黒川に一泊し、3日には岩沼、4日には刈田の宮に逗留し、宮からその日のうちに二本松までお通りになった。
そのとき、信夫の大森にて、氏郷は成実の宿所へいらっしゃり、鎧一両・脇差一腰戴き、これよりお帰りなさいと仰った。二本松まで御供すると言ったのだけれども、しきりにお止めになったので、その通りに飯坂へ行った。その旨を政宗へ申し上げたところ、一日すぎて、二本松へお出になり、浅野長政へ面会なさったところ、そのお喜びは尋常ではなかった。「いろいろ人のいうことで、予想外のご苦労は、かえって大変です」といい、非常に走り回って下さった。政宗も「春中頃にまた大崎へ出兵致します」と相談なさり、その日の日暮れに二本松を出発し、飯坂へお帰りになり、同9日には米沢へお戻りになった。
さて須田伯耆、もともと大沼大膳という者の家臣であった。しかし戦の時に、この元の主主膳に逆らって、伊達家へ奉公することになった。そのとき伯耆の親は道旬という名で、父子ともに政宗に対しても一年に正月一度のお目通りをする程度の者であり、そのため戦の時も与力付きの備えに入る程度の者だった。
輝宗がお亡くなりになったときに、米沢から百里離れた、信夫の菜剪場という在所で前述の道旬は追い腹をした。政宗もそのことを覚えて居らず、不思議には思われたのだが、さすが追い腹と言われたので死骸を夏刈へ呼び、輝宗と同じように弔いなさった。しかし、周りでは道旬の追い腹は怪しいと言われていた。そして政宗は遠藤山城基信・内馬場右衛門の子に加増なさった。このとき伯耆も賜ったのだが、二人と同じようにはもらえなかった理由は、基信の子は家の家老であり、右衛門も一通りの者であるが、これらの者たちと同じにはならないと言われ、不満を抱き勿体ないと愚痴を言っていたのだろうか。
その心ゆえにこそ、この嘘の訴えを企み、氏郷へ訴えて、仕えることになれば、政宗を切腹させ、天下から自分は所領をいただけると思い、浅はかな考えでこのように企んだと思われる。伯耆の弟は一年成実に仕えていた。そのため成実のところへ伯耆も出入りしていたのだが、どちらにしても考えの足りない者であったので、そうなったのだと言う。

寛永13年6月吉日           伊達安房成実

感想

さて名生城を落とした氏郷が突然引きこもり、蒲生家の家老郷安を頼って現れた須田伯耆という男が政宗を窮地に陥れます。
それは輝宗の死後追い腹を切ったものの、厚遇されなかった須田道旬の子伯耆が、政宗は一揆に与しているのだと告げたのです。
疑心暗鬼に陥った氏郷は木村親子とともに名生城に籠城したのですが、浅野長政の仲介により、人質を渡すことで開城に応じます。
政宗が叔父である国分盛重を渡したところ、突っ返され、成実か政景を要求されたので、政宗は四竈にいた成実を呼び戻し、盛重・六右衛門政勝と成実三人で名生に行かせ、三人はちょうど天正19年元旦に名生城に入り、翌日から氏郷は移動を開始。二本松まで供する筈だった成実は大森で解放され、鎧と脇差をもらいます。
その後飯坂にいた政宗も二本松に移動し、長政と面会後、再び米沢へ帰ることに。
この須田伯耆、殉死したときに充分な褒美をもらえなかったので逆恨みでは?という評価を伊達家側からは受けていますが、ちょっと可哀想ですよね…成実情報によると兄弟ともに粗忽者とか言われて…。
この一揆の疑いの顛末は皆様の御存知の通り、政宗は許されるのですが、葛西大崎をたまわる代わりに、伊達・信夫などの本領を奪われます。秀吉的には、やっぱり政宗は一揆に与していたという判断だったのでしょうかね。