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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』6-4:阿久ケ島出城附高玉落城

『政宗記』6-4:阿久ケ島出城と高玉の落城

原文

同四月、片平助右衛門申合の手切に付て、政宗米沢より出られけるに、信夫の大森へ田舎道八十里なれども未痛給ひて、山中なれば乗物も相叶はず、日懸には成兼、二十二日には板屋と云処に一宿し給ひ、二十三日に大森の城へ着給ふ。是に依て同二十七日に、助右衛門を大森へ、成実召連目見へ相済故に、勢の参るを待給ひ五月三日に仙道の本宮迄馬を出され、四日には阿久ケ島へ働き要害を乗廻しみ給ひ、外構より取んとて攻給へば、町構より二三の曲輪破れにければ、先人数を引上休め給ふ。かかりけるに、城主阿久ケ島治部、成実処へ使者を遣はし訴訟致し、身命助り出城仕度と申す。其旨申ければ承引し給ひ、成実郎従遠藤駿河を、城内へ人質に遣す。爾る処に、内より出城の為とて、惣軍を相除られ下され候へと申すに付て、東の原へ除られ、成実計敵除口の近所に備へ、若や横合の為にとて、方々横目を十余人廻し給へり。去程に、治部は会津の猪苗代へぞ引除ける。爰に荒井杢之允と云誉の者あり、彼者高玉太郎左衛門妹聟にて、常は高玉にいたりけるが、阿久ケ島へ働給ふと聞て、朝には通路も自由なれは、助の為とて阿久ケ島へぞ籠りける。惣じて高玉太郎左衛門・阿久ケ島治部、元来二本松へ一味なる故、二本松は出城なれども、彼二ケ所は未会津へは内通して政宗へは敵となる。故に杢之允も二本松譜代にて、太郎左衛門に兄弟なり。されば此四巻目に記しける、石川弥兵衛名誉の者にて、杢之允と古傍輩也。爾るに、二本松出城の砌、弥兵衛をば成実召抱。扨杢之允は太郎左衛門に手寄て、高玉に居たりけるが、阿久ケ島出越に依て、杢之允高玉へかへりけるを、古の首尾なりとて、弥兵衛出向ひ中途迄送りければ、杢之允語りけるは、「我等は命を二つ持なり、其子細を申すに、今日の命は治部に出しけれども、其身弱生なれば、力及ばず、我身も生てかへる、明日は定て高玉を攻給はん、其時今一つの命をば兄の太郎衛門に出すべき、左も有ときは命二つ非ずや、如何様にも手並の程をば、旁へも明日みせん」とて行分れける由、かかりけるに、政宗其夜は東の原に野陣をし給ひ、五月五日に高玉へ働き給ふ。扨成実をば其日の先陣にと宣ひけれども、先に乗掛北南へ乗廻し軍配を見給ひ、「片平は忠節、阿久ケ島も出城、北の敵地は是迄なれば迚、此城を平攻にして隙を明くるべし」と宣ふ。是に依て、成実は北の方に備ふ。惣軍は南より東へ取廻してぞ陣を取。西の方は山続なれば態と明て攻給ふ。かくて城主太郎左衛門、其跡玉の井への草のとき、成実郎等志賀散三郎に、鉄砲にて腰を打折れ不行歩なれども、二三の曲輪の弱き処へ乗掛下知をなす。二三の曲輪破れにければ、本城へ引て入、子共両人女房ともに害し、夫より表へ飛で出門を開き、手槍を取て二三度ついては出けれども、御方本丸へ取付ければ、家内に引込亦働出、暫は戦と雖ども叶はず白砂にての討死なり。かかりける処に荒井杢之允、三の丸の成実攻口よりつひて出るを、羽田右馬介槍を合せけるに、杢之允は高所より右馬介頬当の鼻を突欠、身へは当たらず、耳の脇へを突出。右馬介は杢之允左の脇を突けれども、鎧の札よかりければ、身へは通らず槍を突折る。然と雖も味方大勢取込ける故、杢之允内へ引込、三の丸の役所へかへつて討死なるは、宵に弥兵衛との詞を違わず、哀れ剛の兵かなとて、人々惜む事尋常ならず。西の方へ明給へども、敵一人も落ちずして皆討死なり。五月五日の卯の刻に取付、辰の刻には高玉落城撫切にと宣ふ。又哀れなりし事どもにや。太郎左衛門妻子を害するとき、生年三歳の娘を乳母、我にたべともらひければ、女なるに助けてみよとて、乳母に出す。是を取背負出ければ、御方乱妨をせんとて引連けるを、本陣の小人ども、彼娘をうばひ取て斬けれども閙敷折柄なれば浅手なりしを、乳母の上にころびかかり下へ敷、惣軍引上ける後、起てみれば手も浅し。扨此娘は高倉近江亦姪なれば、高倉へ田舎道十里なるを、乳母抱て参り助け給へと申す。流石に近江も気遣して、片倉景綱に其旨申しけるは、「一度斬給ふ者を、又とは有るまじき事也、幼少と云女と申、若御穿鑿にも候はば、御前をば某相心得べし」との所耳にて助るなり。彼娘後聞ば、成人して蒲生氏郷の家臣蒲生源左衛門二男同盟源兵衛妻女になり、子女両人出ける由承て候。爾して政宗五日の夜は本宮迄引込給ひ、六日には大森へかへり給ふ事。

語句・地名など

阿久ケ島=安子ヶ島(あこがしま)
板屋(いたや):米沢市板谷
卯の刻:午前六時
辰の刻:午前八時
たべ:たまえ
所耳(うけかひ):承諾すること

現代語訳

天正17年4月、片平助右衛門親綱の約束していた手切に合わせて、政宗は米沢から出馬なさったのだが、信夫の大森へは田舎道80里の距離であるけれども、いまだ足の骨折の痛みがあって、山の中なので乗物に乗ることも叶わず、一日でいくことはできず、22日には板屋というところで一泊し、23日に大森の城にお着きになった。
このため4月27日に、成実が助右衛門親綱を大森へ連れてきて、内応のことが終了したため、各将の到着をお待ちになり、5月3日に仙道の本宮まで出馬し、4日には阿久ケ島へ出陣し、要害の周りを乗り回して御覧になり、外構えから攻めようとしてお攻めになると、町構えの府おから2,3の曲輪が破れたため、まず手勢を引き上げさせ、お休みになった。
このときに阿久ケ島城阿久ケ島治部は成実のところへ使者を使わし、訴えを起こし、命と引き替えに城を出て明け渡したいという。その旨を政宗に言ったところ、政宗が納得したので、成実の家臣のうち遠藤駿河を城の中へ人質として遣わす。
そうしているところに、中から出城のためとして、全ての軍を退去させよと言ったところ、東の原へ退去し、成実の手勢ばかりが敵の退去口の近くに備え、もしや側面から逃げる者が居ないかどうか監視するためにそれぞれ見張りを十数人おつけになった。そのため阿久ケ島治部は会津の猪苗代へ引き上げた。
この中に荒井杢之允という軍功多き者がいた。かれは高玉太郎左衛門の妹聟で、普段は高玉に居たものだったのだが、阿久ケ島が攻められると聞いて、朝であれば通路も自由であるので、援軍として阿久ケ島に籠もっていた。
そもそも高玉太郎左衛門・阿久ケ島治部、もともと二本松と同盟していたため、二本松は陥落したけれども、この二カ所はまだ会津へ味方しており、政宗に対しては敵対していた。そのため荒井杢之允も二本松に代々仕えており、太郎左衛門と兄弟であった。さてこの四巻目に記した、石川弥兵衛も誉の者が杢之允の古い同僚であった。二本松あけわたしのとき、この弥兵衛を成実は召し抱えた。しかし杢之允は太郎左衛門をたよって高玉にいたのだが、阿久ケ島開城にあわせて、杢之允が高玉に帰ったことを、昔のよしみであると弥兵衛が出向き、途中まで送ったところ、杢之允は弥兵衛にこう語った。
「私は命を二つ持っている。それはどうしてかというと、今日の命は治部に捧げたけれども、その身は弱く、力及ばず、私は行きて帰った。明日は必ず高玉をお攻めになるだろう。そのときもう一つの命は兄の太郎左衛門のために使おうと思っている。その時は命はもう二つはありません。どのようにでも我々の技量を皆様方に明日おみせしよう」杢之允はこのように語り、二人はわかれた。
政宗はその夜東の原に野陣をなされ、5月5日に高玉へ出馬なされた。さて成実にその日の先陣にと仰ったのだけれども、まず馬に乗り、北南の方を乗り回したあと、軍の配分を御覧になり、「片平親綱は内応、阿久ケ島も開城、北の敵地はこれまでであるので、この城を一気に攻め上げ、隙を明けよう」と仰った。
このため成実は北の方に陣を惹いた。惣軍は南から東へうつり、陣をしいた。西の方は山津月なので、わざとあけてお攻めになった。
こうして城主高玉太郎左衛門、その前に、玉野井への草調議のとき、成実の家臣志賀山三郎の鉄砲で腰を撃たれ、歩くことが出来ずにいたが、2,3話の曲輪の弱いところへ乗りだし、命令を下した。2,3の曲輪が破れたところ、本丸へ引き上げ、子どもふたり、妻子と一緒に殺し、それから表へとんででて、門を開き、手槍を取って、2,3度責め帰したけれども、伊達の味方勢が本丸へ到着したので、家内に引き込み、また飛び出し、しばらくして戦といえども叶わず、白い砂の上での討ち死にであった。
そうこうしているうちに荒井杢之允は三の丸の成実が攻めていた入り口から出てくるのを、羽田右馬介が槍を合わせ戦ったところ、杢之允は高いところから右馬介の頬当ての鼻の部分をつつき身体へは当たらず、耳の脇へ飛び出た。右馬介は杢之允の左の脇をついたのだが、鎧の札がよかったため、身体へは届かず、槍を突き折った。
しかし伊達の味方勢が多く居たため、杢之允は城の内部へ戻り、三の丸の役所にもどって討ち死にした。そのさまは夜に弥兵衛と交わした言葉も合わせて、なんと哀れな剛のつわものだろうかと人々が惜しむことは尋常ではなかった。
西の方の入り口を開けておいたが、敵はひとりも脱出しようとせず、みな討ち死にした。5月5日の卯の刻に戦闘開始し、辰の刻には高玉を落城させ撫で切りにせよと仰る。
またなんと可哀想なことであろう。太郎左衛門が妻子を殺そうとするとき、3歳の娘を乳母が、「私にくださいませ」ともらったところ「女であるので助けてみよ」と言って乳母に渡した。乳母はこの子を背負い脱出したところ、味方が乱取りをしようとして引き連れていたら、本陣の身分低いものたちがこの娘を奪い取って、切ったのだけれども、騒がしいときだったので、浅手だったのを(とどめがさされていなかったのを)乳母が上に転びかかり、下へ敷いて隠した。総軍が引き挙げた後、起きてみると浅手であり、この娘は高倉近江義行の姪の子どもであったので、高倉城まで田舎道十里ほどの道を乳母はこの子を抱えて走り、助けてくれと申し上げた。さすがに近江もかくまって何があるかを心配して、片倉景綱にその旨をつげて相談すると、景綱は「一度斬った者をまた斬るというのはあり得ないことである。幼少であり、女児であると申し、もし政宗に細かく聞かれることがあれば、御前でのことは私がうまく取りはからう」との承諾をもらい、助かった。
あとで聞いたことだが、この娘は大きくなって蒲生氏郷の家臣蒲生源左衛門郷成の次男蒲生源兵衛郷舎の妻女となり、子どもが二人できたということを聞いた。
そして政宗は五日の夜は本宮まで退却し、六日に大森へ帰った。

感想

政宗の骨折のせいで長引いていた片平親綱の内応がやっとおわりました。親綱、ほっとしただろうなあ(笑)と思います。そして安子ヶ島・高玉城の攻略戦をえがいています。
特に内応を進めたが拒絶して見事に討ち死にした荒井杢之允への賛辞(みんなが…と言っているけれども、書き記す成実の杢之允へのリスペクトが見えます)。杢之允と羽田右馬介の戦いっぷりが格好いいです。
そして後半は前にも記事あげましたが、小十郎が子どもを助けた話です。
この時期でも小十郎は政宗を「若」呼びしてんだなあ…とにやにやしてみたり。

参考過去エントリ

以前に書きました、高玉合戦での小十郎の子ども救出についてのエントリはこちら。
http://sd-script.hateblo.jp/entry/2013/09/05/195158sd-script.hateblo.jp