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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』6-8:田村警固事

『政宗記』6-8:田村領の警固のこと

原文

されば右にも申す、同年五月より、義重須賀川へ打出かふか、政宗三橋在馬の内、義重、常隆へ云合せ、南筋より働き給ふと聞へ、伊達より田村へ加勢として、大町参河・中島右衛門・宮内因幡を遣し給へり。義重田村の大平と云処を攻落し、常隆も同領門沢を攻取り給へり。さる程に、因幡と参河は漸引除恙もなし。右衛門は二の丸の役所を離れず、岩城衆を三人討取討死なり。右衛門名誉の者なりしが、可惜兵かなと時の人々惜みけり。然して後、右の両大将田村へ尚も働き給ふと聞へ、重て伊達の家老浜田伊豆・富塚近江・遠藤文七郎彼三人へ伊達・信夫・刈田・柴田の勢を差添、遣し給ふと云ども、今度会津との戦に付、伊達の旗本無人数なれば、浜田伊豆をば阿久ケ島より呼越給ふに、猪苗代へ参合、摺上の合戦にも用立ける事。

語句・地名など

大町参河:『治家記録』によると大町は相馬駒ヶ嶺に在陣したとし、田村派遣を誤りとする。
大平(おおだいら):郡山市大平
中島右衛門:『治家記録』は中島宗意の戦死を否定しているが、『世臣家譜』などによると戦死は事実である。

現代語訳

先の章でも述べたとおり、天正18年5月より佐竹義重が須賀川へ打出ようとしてか、政宗が三橋にいる間に、佐竹義重は岩城常隆へ申し合わせて、南方から戦闘を仕掛けようとしているとお聞きになり、政宗は伊達から田村へ加勢として大町参河・中島右衛門宗意・宮内因幡常清をおつかわしになった。佐竹義重は田村領の大平というところを攻め落とし、岩城常隆は同じく領内の門沢を攻め取りなさった。其のため宮内因幡と大町参河は徐々に退き、無事であった。中島右衛門は二ノ丸の担当を任されたところを離れず、岩城衆を三人討ち取り、自らは討ち死にした。
中島右衛門は名誉の者となったが、なんと惜しいつわものであろうかとそのときの人々は惜しんだ。
その後、佐竹・岩城の両大将はなおも田村へ戦を仕掛けているときき、かさねて伊達の家老浜田伊豆景隆・富塚近江宗綱・遠藤文七郎宗信の三人に伊達・信夫・刈田・柴田の軍勢を添え、おつかわしになったのだが、今回の会津蘆名との戦のため伊達の旗本がいなくなったため、浜田伊豆を阿久ケ島(安子ヶ島)よりお呼びになったが、浜田は猪苗代へ来て、摺上原での合戦にも役立てたのである。

感想

摺上原の合戦の裏で、動いていた佐竹・岩城の田村進行について書かれています。
政宗は家老を派遣し、守護を任せています。