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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』6-9:会津家老忠節事

『政宗記』6-9:蘆名の家老たちの寝返りのこと

原文

かかりける処に、三橋在馬の中、会津の家老富田美作、平田不休・同名周防・彼三人、「今度御忠節の其賞に、某とも前々持来ける本領は申すに及ばず、三人へ備付の与力の身代相立てられ下さらはんや」と申す。是大分の訴訟なれども、須賀川には義重未出陣、常隆も小森に御坐て田村へ日々の働なれば、先会津を一日も早く究んがため、右の望を承引したまふ。是に仍て三人又申けるは、「会津へ働き給はば、火の手を上て三人の備ひ御人数へ数へ加はり、忠節せん」と申す。此故に会津への働き無勢にては、如何とや思はれけん、名取の人数を呼給ふべしと宣ふ。然る処に、義広会津を持兼、天正十七年己丑六月十日の戌の刻に、在城を打あけ、他国の白川へ蓓んで、浪人となり給ふ。義広本は佐竹より白川の家を、継給ふべきに定りけれども、会津の盛隆、大波三左衛門と云御物上に図らず惨殺され、跡絶ければ、会津の家を継で盛隆の跡目となる。其故に今度白川へ除給ふにも、其昔盛隆を須賀川より引越、猶子となし家を継せ給ふ。父分なる盛氏の取立給ふ、仙道永沼の城主新国上総、其頃迄は会津方にて、義広心安く白川へも引退給へり。故に政宗二十三の六月十一日に、会津の城へ所入し給ふ。然りと云ども、義重・常隆未田村へ働き給へば、白石若狭と伊達成実をば、会津より直に田村へ遣し給ひ、三春に在陣なれども、日々の働と聞へ、重て又会津新参の平田周防に、原田左馬介を差添遣し給ふ。去程に、田村の要害に伊達の人数満々ければ、凡そは浮武者も五六百騎もあらんずらん、敵陣深く働くならば、一合戦参るべしと御方の各申けれども、左はなくして、田村の内下枝と云処へ、常隆働引上給ふを、彼地の者ども、田村右衛門を大将分にして、岩城の人数へ襲、方々の山道を押切、評議なしに取合ければ、岩城の殿思いの外敗北して五十余人討て取、物別れなり。三春へは遠路なれば、俄の助も相叶はず、警固迄にて少討取候由、田村の各物語候事。

語句・地名など

名取(なとり):宮城県名取郡
戌の刻:午後八時
猶子(ゆうし):養子。
下枝:田村郡中田村下枝
御物上(おものあがり・ごもつあがり):昔貴人の持ち物として愛されたもの、一時は寵愛を受けたもののなれの果て。/小姓から取り立てられた者
浮武者:一定の部署につかないで機を見て味方に加勢したり敵を攻撃したりする者。浮備えの武者。

現代語訳

政宗が三橋に在陣しているときに、会津の家老富田美作・平田不休(左京亮)・平田周防の三人が、「今回の寝返りの褒美に、私たちが前々から持っている本領はもちろん、三人へ付いている与力の身代も立ててくださいませんでしょうか」と言った。これはかなり強気の交渉で合ったのだが、未だ須賀川に佐竹義重、小森に岩城常隆がいて、田村へ連日の戦闘をしかけていたので、まず会津を先に落とすために、この望みを受け入れなさった。このときにこの三人がまた言ったことには、「会津へ戦闘を仕掛けるのであれば、火の手を上げて、三人の手勢が伊達勢の軍勢へ加わり、裏切りを致しましょう」と言った。このため、会津への働きが手勢が少なくてはいけないとおもわれたのだろうか、名取郡の手勢を呼ぶようにと仰られた。
そうこうしているところに、蘆名義広は会津を保ちかねて、天正17年6月10日の戌の刻に黒川城を開城し、他国の白河へと逃げだし、浪人とおなりになった。蘆名義広はもともと佐竹から白河の家を継ぐように決まっていたのだが、会津の蘆名盛隆が大場三左衛門という小姓上がりの寵臣に不意に惨殺され、跡継ぎがいなくなったので、会津蘆名の家を継いで盛隆の跡継ぎとなった。そのために今回白河へ退くのも、その昔盛隆を須賀川より呼び寄せ養子となして家を継がせなさった。父親分である盛氏が取り立てた、仙道長沼の城主新国上総貞道が、その頃までは会津方であったため、蘆名義広は心安く白河へ退きなされた。
そのため政宗が23歳の年の6月11日に、会津黒川の城にお入りになった。しかし、佐竹義重・岩城常隆はまだ田村へ侵攻をしていたので、白石若狭宗実と伊達成実を会津から直接田村へおつかわしになり、三春に在陣していたのだが、連日の戦闘の話をきき、重ねて会津から新参となった平田周防に、原田左馬助宗時を添えておつかわしになった。すると、田村の要害に伊達の手勢でいっぱいになったので、おそらく機を見て加勢しようとした者が5,600騎もいたのでございましょう。敵陣深く戦闘し、一合戦するべきであるとおのおの言っていたけれども、そうはならず、田村の内下枝というところに岩城常隆が働き引き上げなさったところ、下枝の者たちが田村右衛門清康を大将にして、岩城の勢へ襲いかかり、あちこちの山道を押しきり、評議なしに取り付いたので、岩城政隆は想定外に敗北して50人余りが討たれ、戦は終わった。三春へは遠かったため、急ぎの助勢もすることができず、警固だけにして少しだけ討ち取ったと田村の家臣たちが語っていたことである。

感想

蘆名の家老たちに対する内応工作と田村侵攻への対処が書かれています。
今回初めて知ったのですが、「御物上」という言葉があることに衝撃を受けました。
蘆名盛隆は元寵臣の大庭に討たれました。その後佐竹の義広が養子に入ったので、親佐竹派と親伊達派に別れていたことがわかりますね。