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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』3-9:最上より大崎へ使者の事

『政宗記』3-9:最上から大崎へ使わされた使者のこと

原文

最上義顕より野辺沢能登と云臣下を、大崎の蟻ヶ袋へつかはし給ひ、月鑑に対面して何と語りけるやらん、月鑑をば本の深谷へ相帰し、安芸一人能登同心して、小野田の城代玄蕃・九郎左衛門と云両人に渡しける。其夜に又能登、安芸宿へ来て「御辺を是へ相具しけること別に非ず佐竹・会津・岩城方々へ、義顕申組て已に伊達へ軍をせんと云謀あり、故に相馬義胤も一同有べき為に、芋窪又右衛門と云ける者出羽へ遣はし、其上言合せ玉ふ、只御辺も一門中へ内通して、伊達への謀叛ならば御身の上、悪かるべきや」と云。安芸「主君への奉公のために、二つなき命を擲ち、籠城の軍兵ども出しける其功をば、いかで二度取返し候べき、疾々首を刎らるべし」と申す。「あはれ武士には比類無き一言かな」と能登褒美の由なり。さる程に、安芸此趣を政宗に告げ参らせんとて、斎藤孫右衛門と云ふ者を米沢へ忍びの使を差上、右の子細を申けり。斯て義顕は政宗母儀方の伯父にておはせども、輝宗代には度々軍なりしが、政宗へは和睦を入、近頃は懇にておはす。爾りといへども我家の大身を多く滅し、或は御子両人迄死罪に行ひ、以の外なる悪大将なり。されば政宗四本ノ松・二本松を取給ふに仍て、佐竹・会津・相馬・岩城・白川・須賀川、各伊達へ敵対し給ふ故に、義顕近所と云ひ互に時を見合せ、右の大将へ一和ありて、伊達へ戦、在城の米沢を日来のぞみ給ふ処に、況や今度大崎にて伊達の勢とも利なくして、人質の泉田安芸を、義隆より最上へ遣はし給へば、尚も政宗へ手切の為に、米沢と最上の境に、鮎貝藤太郎と云し者居たりけるを、義顕語らひ、天正十六年三月十三日に右の藤太郎伊達へ向て手切をなす。政宗時刻を移さず退治せんと宣ふ。家老の面々「義顕手の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略嫌疑無く、一左右を聞玉ひ爾るべし」と申す。「各申処は理りなれども、打延けること如何」の由にて、已に馬を出さるべきに相済けり。爾る処に鮎貝、最上より加勢を頻りに望と云へども、如何ありけるやらん一騎一人も助け来らず、剰へ政宗出馬のこと藤太郎聞及び、則最上へ引除けり。是に付て米沢中弥静謐にて候事。

語句・地名など

深谷:宮城県桃生郡河南町・矢本町地方
我が家:自分の家/自分の家庭(我=話者でなく、我=話題の人)

現代語訳

最上義光より野辺沢能登という家臣を大崎の蟻ヶ袋へお使わしになり、月鑑斎に対面して何とかたったのであろうか、月鑑斎をもとの深谷へ帰し、安芸一人を能登が連れて出、小野田の城代玄蕃・九郎左衛門という二人の人に渡した。
その夜に野辺沢能登は安芸の泊まっているところに来て、「あなたをここへ連れてきたのはほかでもなく、佐竹・会津・岩城それぞれへ、義光が言い合わせ、すでに伊達へ戦をしようというはかりごとがある。そのため相馬義胤も一緒に加わって貰うために、芋窪又右衛門という者を出羽へ使わし、そのうえ約束なさっている。あなたも一門の中で内通し、伊達の謀叛があるならば、あなたの身の上も悪くなるであろう」と言った。
安芸は「主君への奉公のために、二つと無い命をなげうち、籠城している兵たちを出したその功しを、どうして二度と取り返すことができるだろうか、さっさと首をはねられるがいい」と言った。
これを聞いて「なんと、武士には比べる者のない立派なひと言である」と能登はたいそう褒めた。
安芸はこのやりとりを政宗に告げようとし、斎藤孫右衛門という者を米沢へ隠密に使いをおくり、以上の詳細を申し上げた。
義光は政宗の母の伯父でらっしゃるけれども、輝宗の代にはたびたび戦をしてらっしゃったが、政宗へは和睦を申し入れ、近頃は仲良くしていらっしゃった。そうであるとはいえ、自分の家の位の高い家臣を多く滅ぼし、あるいは自身の子ども二人も死罪にするなど、酷い悪大将である。政宗が塩松・二本松をお取りなさったとき、佐竹・会津・相馬・岩城・白川・須賀川の諸大将が伊達に敵対したときに、義光は近所であったため互いに時を合わせ、これらの大将たちと内約をし、伊達へ戦をした。伊達の城である米沢城を日頃から望んでいたところに、さらに今度大崎での戦において、伊達の軍と協調する利がなくなり、人質の泉田安芸を、大崎義隆から最上へお渡しなさった。さらにまた政宗へとの合戦開始の為に、米沢と最上の境界にいた鮎貝藤太郎という者と、義光は申し合わせて、天正16年3月13日にこの鮎貝藤太郎は伊達に対して手切れをした。
政宗はすぐに退治しようと仰った。家老の皆様は「義光は悪辣な大将なので、隣国へどんな武略計略をしても疑い無く、第一報をお聞きなさるのがよいでしょう」と言った。「おのおの言うところは理があるが、延期してはどうか」と言ったため、馬を出すことに決まった。
そうこうしているうちに、鮎貝は最上より加勢をもらえるようしきりに希望したのだが、どうだったのだろうか、一騎ひとりも助けが来ず、その上政宗が進軍を開始したことを鮎貝藤太郎は聞き、すぐに最上へと退却した。このため米沢領内はとても静かで平穏であったのである。