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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』3-10:永江月鑑死附弾正誓紙

『政宗記』3-10:長江晴清の死と弾正が誓紙を提出したこと

原文

去ば月鑑は、相馬義胤の子舅なり、故に大崎下新田の合戦にも、月鑑人数は玉なしの鉄砲を打。此のこと政宗聞給ひ、居城の深谷は大崎境、況や義胤縁者といひ、亦も逆心危しとて、先秋保摂津守といひけん者に預けられ、後には死罪に行ひ給ふ。爾して後弾正親氏家参河も弾正と不和になり、名生の城に居ながら、彼城を懐て義隆へ忠をなす。故に政宗弾正に疑心をし給ふ、御十分の至りなり。然りと云へども、一旦の忠を争ひ不忠有べしとて、数通の起請を差上ければ聞分給ふ。是に仍て岩手山へ横目を申請、小成田惣右衛門を遣はし給へば、程なく弾正病死に付て、存生の如く万づ仕置を惣右衛門申付、岩出山をば抱ひ給はり、小成田惣右衛門を近頃は山岡志摩とぞ呼れける。

語句・地名など

現代語訳

長江晴清*1こと月鑑斎は相馬義胤の小舅である。そのため、大崎下新田での合戦でも、月鑑斎の手勢は玉のない鉄砲を打った。このことを政宗がお聞きになり、月鑑斎の居城の深谷は大崎との境にありましてや義胤の縁者であるため、また反逆するのではないかと、まず秋保摂津守という者に預けられ、のちには死罪にされた。
この後、氏家弾正の父親である氏家参河も弾正と仲が悪くなり、名生城に居ながら、この城を手に入れて義隆へ寝返った。このため政宗は氏家弾正を疑うようになり、それはとても強くなった。
しかし、一度の裏切りをきつく注意したなら、再びの裏切りがあるであろうと数通の上申をしたところ、納得なさった。
このため、岩出山へ目付のものを送ることを願い申し上げ、小成田惣右衛門をおつかわしになったところ、ほどなく氏家弾正が病死し、生前のようにいろいろの取りしきりを惣右衛門に申しつけ、岩出山を領土になさった。
小成田惣右衛門は最近は山岡志摩と呼ばれている。

*1:勝景とも