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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『正宗公軍記』1-1:正宗公十八の御年、御家督御継ぎなされ候事

『正宗公軍記』1-1:政宗公が18歳の時、家督を継がれたこと

原文

伊達大守輝宗公御代は、佐竹・会津・岩城・石川、何れも御一門中間にて御入魂に候。右の御大名衆、数年、田村へ御弓矢なされ、田村清顕公御手詰に罷成候。正宗公の御舅に御坐候へども、輝宗公御代故、是非に及ばず、御坐なされ候。然るに、正宗公十八の御年、天正十二年甲申十月、家督御継ぎなされ候。是に依って、方々より御祝儀の御使者参り候。塩の松の主大内備前も、伺候致候。正宗公御意には、大内事、代代伊達を頼み入り候由、聞召し及ばれ候処、近年は左様にも之無く條、此儘米沢へ相詰め申すべき由、仰出され候。大内申上候は、忝き御意に候。拙者親の時代より、御奉公仕り候へども、近年伊達御洞御弓矢に付きて、田村を頼み入れ候処に、少しの儀を以て、清顕公御意に係り、其後、会津・佐竹を頼み入れ、御介抱を以て身上相続ぎ候。尤も只今より米沢に相詰め、御奉公仕るべく候間、屋敷を申請け、妻子引越し申すべき由申し上げ、其年、米沢にて越年仕り候。

語句・地名など

現代語訳

お亡くなりになった伊達輝宗公の代は、佐竹・会津・岩城・石川、いずれもご一門であるお仲間であり、仲良く在らせられた。これらの大名衆がここ数年田村へ敵対なされ、田村清顕公は八方塞がりになられた。政宗公の舅であられたのだが、まだ輝宗公の代であったので、仕方なくその状態であった。
そうしているところ、政宗公が18になった天正12年10月、家督を相続なされた。このため、いろいろなところから祝いの使者がやってきた。塩松の領主大内備前定綱も同様にやってきた。
政宗公のお考えでは大内のことがあった。大内は代々伊達に頼って来たことをお聞きになったのだが、最近はそうでもないので、このまま米沢に出仕してはどうかとお話になった。大内は「かたじけなきお心にございます。私の親の時代から、奉公させていただいておりますけれど、最近の伊達の洞内の戦いのため、田村に頼るようになっていたところ、少々理由がありまして、清顕公の気に障り、その後会津・佐竹を頼るようになり、お助けいただいて、代をつないでおります」と申し上げた。「今から米沢にとどまり、奉公したく思います」ということで、屋敷をもらい、妻子を引っ越しさせたいと思うことを申し上げ、その年は米沢にて年を越した。

感想

これは軍記類纂に載っている『政宗公御軍記』の冒頭部分です。
読んでわかるとおり、文章的には伊達日記・成実記系統ではあるのですが、かなまじり文・章題つきというのが、やや政宗記に寄った内容になっています。石川弾正退治のあたりで途中で終わるんですが。
勝手な推測ですが、成実記を元にした政宗記のプロトタイプなんでは?と思っております。
政宗の家督相続後、大内定綱の米沢訪問が書かれています。