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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

忠宗の心配-成実晩年の容態について-

義山公治家記録の成実の隠居・死の記事を読んでいて、そういえば亘理伊達家史料集に忠宗からの優しい手紙がいくつかあったな、と思いだし、改めてきちんと訳しながら読んでみました。
これがとっても優しい文言にあふれてて素晴らしいのです。
時系列を追って見ますと…。
(注:原文は漢文候文です。読み下し文はぼんやりとやっていますので古文文法の間違い有るかと。あと意味とれてないところ強引に読んでますので間違ってたらすみません)

1644正保1年:77

4/26:成実の体調について、奉行たちの間で通達あり。『治家記録』

茂庭周防、古内主膳より、石母田大膳、中嶋監物、片倉小十郎、津田近江、奥山大学方へ遣わす御用の書状あり。其略に云く、安房守殿御病体紙面の通り具に披露す。熊田次兵衛一昨日上着し、様子具に聞かせらる。快庵玄休松庵よりの書状返答すべしと云えども、次兵衛様子申上げらるに付て、其儀に及ばず

茂庭周防・古内主膳から、重臣達へ使わした書状があり、その中で成実の病気についての記述があり、こまかく知らせたとあります。熊田次兵衛という家臣がおととい江戸に着き、成実の様子をいちいち報告し、その報告を以て医師たちからの報告に代えたと。

1645正保2年:78

正保2年6月21日 忠宗→成実書状(亘理伊達家史料112)

飛脚を以て申し候。御煩の由、千万御心元なく候、時分柄一入養生御油断有間敷候。此中の長雨に、爰元も諸人煩申候。吉事追って申し承るべく候。

遠路の義に候へば、一入心もとなく候、養生専一に存じ候、以上。

【現代語訳】
飛脚を利用して申し上げます。ご病気のこと大変不安であることでしょう。この季節のことですから、よりいっそう養生に注意を怠ることないようお願いします。このあたりの長雨に、私の所にいる者たちもみな病気になっております。よいことは追って申し上げます。

遠くへ行く用事のことですが遠く離れているので*1、余計に心配です。養生だけに専念して他のことは考えないようにしてくださるようお願いします。以上。

正保2年8月15日 忠宗→宗実書状(亘理伊達家史料109)

忠宗から弟で、成実の養子である宗実への書状です。

安房守殿病気大形快気得られ候様に存知候処に、以ての外腫気指候由、扨扨笑止千万存じ候、老体と申し、ひとしお心もと無く候、其の為使者を進じ候。御養生の段、申すまでもなく候。快庵の薬相当申さざれ候はば、玄休に成れども、又作に成れども、御替候ひて然るべく候。快庵薬相当に候はば、申すまでもなく候、吉事追々申し述べるべく候。

替義候はば、草々に述べるべく候。吉事追って申し述べるべく候、以上。

【現代語訳】
安房守どのの病気がだいたい治ってきたようであると聞いていたところに、ひどく腫れ気が進んでこられたということで、なんとお気の毒なことであろうと思っています。
老体ということで、よりいっそう心配です。そのため使者を送りました。養生のことはいうまでもありません。快庵の薬が合わないなら、玄休の薬であっても、又作の薬であっても、お替えになって然るべきです。快庵の薬が合えば、いうまでもありません。よいことはおいおい申し述べることにします。

交換することになるのならば、簡略にお伝えします。良いことも追って申し述べます。以上。

正保2年8月24日 忠宗→成実書状(亘理伊達家史料96)

使者祝着申し候。先日扶庵*2に物語申し候き、常々、養生の御心懸油断無く成られ、何とぞ長命に御座候様に朝暮存候間、必ず左様に御心得有るべく候。諸事談合申すべく人も別に之無く候間、我々ためを思し召し候はば、如何様にも不断養生の御心懸候て、永年奉公も成られ給はるべく候、か様の義次而無く候へば、申されず候。尚、面に万万承るべく候、

返す返す、爰元へ節々御詰候事も、入らぬ義に候。心次第何とぞ緩々御休息候様にと存じ候。用所も候はば、即ち申し進ずべく候。必ず諸事御機遣なく、御養生有るべく候。隙入り早々申し候、以上。

【現代語訳】
使者をお送りくださいましてありがとうございます。先日扶庵に話伝えた通り、つねづね養生の心懸けを怠ることなく、どうか長生きして下さるようにと、いつも思っておりますので、必ずそのように思っていてください。いろいろなことを相談するべき人もいないので、私たちのためを思ってくださるのであれば、なんとしてでも常に養生する心懸けをなさって、永年の奉公をしてくださるようお願い致します。
このようなことはついでのようなことではないので、いわないでください。また、会って、いろいろのことお話ししたいと思います。

何度もいいますが、私の所へ時節ごとに出仕してくださることも不要です。思いどおりに、どうかゆっくりとお休みになってくださるようにと思っています。なにか用事がありましたら、すぐに申し上げます。必ず何ごとにもお気遣いなく、養生してくださるようお願いします。暇ができればすぐにご連絡します。以上。

1646正保3年:79

2/9:隠居願いをついに承諾、家督相続の許可。『治家記録』

二月九日丙戌。伊達安房殿成実隠居、治部殿宗実へ家督相続仰せらる。安房殿より度び隠居の願申し上げらるに就て、病気の障にもなるべき歟と思し召さる。存分次第隠居せらるべきの旨、今日津田近江頼康、古内主膳重広を以て仰し渡さる

正保3年になってから、ついに隠居が認められ、宗実へ家督が相続されます。「度び」とあるので、何度も隠居願いを出して、そのたびに断られてたんでしょうね…。

6/4:辰の刻、亘理に於いて死去。

辰の刻は午前8時頃。3日後、江戸に逝去の知らせが届きます。

経過

  • 正保1年の時点で既に体調が悪かった(しかし10月には嗣君*3光宗関係の行事には出席しているので快復した?)。
  • 正保2年の夏(6月)に体調を崩す(雨が続いている時期)。「諸人煩」というのは、深刻に思わせないための忠宗の思いやりかな?とも。
  • 正保2年の8月に治ったという報を聞いていたが、また腫気が進行していることがわかり、養子宗実と医師についての相談。
  • どうやら8月24日書状のまえに隠居を申し出たが、断られたらしい。正保3年2月の引退までに「たびたび」隠居願いをだしていた様子。

感想

こんな感じの文章なので、忠宗はかなり優しい人というイメージを勝手に持ってます。
一門衆が定期的に仙台に参府していたこともわかります。
あと、参勤交代の前の、首途(かどで)の宴が、政宗時代には茂庭邸で行われていたのが、忠宗時代になって伊達安房(成実)邸になっています。まあ実際の実務は宗実も手伝っていたと思われますが、成実のことを一家の大老として非常に尊重していたことがわかります。
成実の死因はよくわかりませんが、腫れ気・臃(はれもの)ができていたようです。体調が悪くなってからも時間が数年経っているようですし、政宗と同様に、どこかのガンで、それが広まって徐々に悪くなっていったのでしょうかね?

*1:【3/31追記】こういう意味では?とハルさんからアドバイスいただきました

*2:史料集では「扶庵」になってますが、これ上記の記事にでてきた「快庵」のことじゃないかな…?と思います

*3:当時の跡継ぎ