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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』4-1:大内伊達へ望之事

『政宗記』4-1:大内定綱伊達への転身を望むこと

原文

天正十五丁亥の年、政宗二十一歳のとき、最上・大崎へは軍なれども、安積表は先何事なく静謐の分なり。かかりける処に、会津より大内備前、成実処へ申しけるは、「四本ノ松一宇打明ける事別に非ず、会津より警固の内三人の家老衆申しけるは、四本の松の抱何共成難く、其子細を申すに、政宗公近所の岩角を召廻り見玉ひけるは責め玉ふべきか、扨御近陣ならん、たとはば近陣なりとも、二本松への通路は叶わぬ処に、況や彼地落城ならば、小浜を引除けることは思ひもよらず、去程に只今見合除て能候、其義ならば会津の松本図書介跡絶て明地なり、折節彼地を才覚して家老分になさんという故に引除ければ、所領の事は申すに及ばず、当坐命つなぎの扶持にても玉賜らずして餓死に及ぶ、さればとよ会津の家老衆、某を除かせけること今思ひ当りて候に、政宗公岩角より押廻し、四本の松迄責給ひ、両城どもに落城ならば、某ことは云に及ばず、警固の者迄残なく滅亡なれば、各引除度は候へども、我等を捨置候ては、会津への不覚を気遣ひ、爰を以て某を諫め一同に立除ける故、申合せは相違とみへたり、何かと申すに運尽已に政宗公御心に背き奉り、此有様に罷成て候程に、此上御手前の御馳走にて、伊達へ蒐入少分の御心付をも下され、召使はれなば有がたく候べし、爾りと云ども深々御心に障り、一身までにて御承引如何と存じ、弟の片平助右衛門にも御忠節を申合せけり、是を以て御赦免下されける様に、偏に成実を頼む」と申す。是に仍て成実其品々を、片倉景綱を以て申ければ、「大内こと召出し玉ひ爾るべきや、其子細を如何に」と申すに、「清顕死去し給ふ以来、第一田村にしかとしたる主もなければ、田村の家区々なること其隠れなし、爾るに大内備前是を見合、四本の松は地下人迄も譜代所なれば、本意をふくみ仙道の大将を語り付、備前軍の発起と成て、二度御敵をなさんこと是一つ、次に助右衛門領地片平と申は、敵地の高玉阿久箇島の南にて、助右衛門忠を申す程ならば、彼の二カ所も持兼会津へ引除、即ち御手に入らん、爾らば則高倉・福原・郡山は、元来引続き御方なれば、其れへ亦片平ともに右の三ヶ所差添、押廻し御方ならば、軍もなしよからん、去程に備前をば召出し給ひ、恩をも下され如何有るべきぞ」と申しければ、政宗「大内こと一度敵となり、口惜けれども去々年、輝宗死去し給ふ折を見合せ、佐竹・会津・岩城、各一和して本宮までの働き無念なれば、此意趣に仙道への軍、再乱なくして叶はず、幸ひ助右衛門も忠節ならば、大内をも赦免あるべし」と宣ふ。故に備前方より使の者に、其旨申し含めて相返しけり。されば大内引除ける以来、四本の松をば白石若狭拝領なり。爾るに備前伊達へ降参なるを、若狭に成実語りければ、「惣じて四本の松は地下人迄も、大内譜代なるに、備前領地の住居若干気遣の処に、御家を望み一身の悦び斜めならず」と申す、成実も万へ引合、御耳には立ける迚御坐は終る。爾る処に其後会津より、大内申しけるは、「一義他言迷惑なり、其こと悉く洩聞へ今会津に於て、専ら申し触此体ならば、已に身命脱難き」と申す。成実申しけるは、「争か他言候べき、爾といへども御辺の跡小浜は、今白石若狭居城となるに、御辺伊達へ望のこと若狭に隠し候ては、疑心のことも如何と思ひ、其趣きを囁きけり、若しや彼者内通も有けるやらん」と申し遣はす。爾るに其後若狭、成実に申けるは、「大内某を頼み懇望申度とて、会津より内通ありと云、右より手の悪きことどもを申しはやすとは思ひけれども、先若狭内通の実正も知らざる処へ、聊爾を申し候ては如何あらん、第一は政宗会津へ心深く御坐に、其旨亦も通用なれば、大内は生害と成て、会津より伊達へ忠の絶べきことを思ひ合、彼者忠を継んがため是非なく堪忍」。成実若狭に申しけるは「何れにてあれ、大内降参に究まりければ、参るべし、惣じて手前の勝手よりは、伊達の為めを存ること第一の心得なり」とて、互に行別れけり。如何なれば此こと若狭手を悪くすといふに、大内備前名誉の者にて、四本の松の居城のときも、田村は近所なれども清顕への楯をつき、佐竹・会津の加勢をも請ずして、数年自分に軍を取て合戦にも度々勝利を得、比類なきこと政宗も知し召処に、備前伊達への降参ならば、本領と云ひ若や四本の松を返し給はらん、左もなきためには中々若狭仕南にて降参させなば、よも四本の松をば返し給ふまじ、爾らざれば会津にて生害をなさせんとの思案にて、右に申す品々なり。斯様なりしことども故、伊達への降参も其年中は相延、大内も会津を気遣して同極月暇を乞ひ、片平へこそ引込けり。

語句・地名など

仕南(しなん):指南/手引きをすること
片平:郡山市片平

現代語訳

天正15年、政宗が21歳のとき、最上・大崎とは軍をしていたけれども、安積方面は何事も無く、平穏であった。
そうしているうちに、会津から大内備前定綱が、成実のところへこのように言ってきた。
「塩松家中を開けることは、ほかでもない。会津より警固のために送られたうちの、三人の家老が言うのは、塩松を支配するのは、とても難しい。その理由を言うと、政宗が近くの岩角をお回りになさっているのは、攻めるためであろうか。そのうちに出兵されるであろう。たとえ近くに陣をひかれることになっても、二本松を通ることは叶わぬのに、いうまでもなく、その城が落城するならば、小浜から退却することは思いもよらず、なので今は見合わせて、取って捨てるのがよいであろう。そのようであるなら、会津の松本図書介のあとつぎが絶えて、空いている。ちょうど、この土地をすばやく手にいれ、家老にしてやろうといわれたために退却したのに、所領のことはいうに及ばず、命脈をつなぐ給米すらも与えられず、餓死しそうである。そういえば、会津の家老衆は私を除け者にしていたことを、今思い当たります。政宗公が岩角から出陣し、塩松までお攻めになり、二つの城ともに落城させるというならば、私のことは言うまでもなく、警固の衆たちまで残りなく滅亡になるならば、それぞれは退却したいと思っても、私たちを捨て去るのであれば、会津への印象が悪くなるのを心配し、このことを以て私を諫め、いっせいに立ち退くため、取り決めは違うものになるでしょう。どうしてかといいますと、運はつきはて、すでに政宗公に対して背き申しあげ、いまこのようになってしまいましたが、このうえ、私の領地を手土産に、伊達家へかけいり、ほんの少しの気遣いをくださり、家臣として使ってくださるのであれば、大変ありがたいと思います。
しかし、私はとてもお心を害し、一人だけではお引き受けされないであろうと思い、弟の片平助右衛門親綱にも内応を約束しております。これをもって、私のことを、お許しくださいますように、ひたすら成実にお願いしたい」
このため、成実はその詳細を片倉景綱を通してもうしあげ、「大内のことは家臣にするべきである。その理由を申し上げる」と言った。
「田村清顕がお亡くなりになって以来、そもそも田村にしっかりとした主がいないため、田村の家はばらばらになってしまっていることはよく知られております。そのため大内定綱はこれを見て、塩松は地域の民までも代々仕えている者であるので、かねてからの希望を含め、仙道の大将に話を付け、定綱の戦の始まりとなった。二度まで敵となりました。まずこれがひとつ。
次に片平助右衛門親綱の領地、片平というところは、敵地である高玉安子ヶ島の南であって、助右衛門親綱がこちらに寝返るのであれば、この二ヶ所も持ちこたえることが出来ず、会津へ退却し、すぐに手にお入れなさることができましょう。そうすれば、すぐ高倉・福原・郡山はもともと昔からの味方でありますから、そこへまた片平とその三ヶ所を加えて、まわり味方とするならば、戦もなく、よいことではないでしょうか。
なので、大内定綱を家臣にして、領地もくだされるのはどうでしょうか」と申し上げたところ、政宗は「大内は一度敵となった。くやしいことだけれど、一昨年、輝宗がお亡くなりになったときを見て、佐竹・会津・岩城、それぞれが一緒になって、本宮での戦は口惜しいものであったので、このため、仙道へのいくさは再乱が起きるであろう。幸い、助右衛門親綱も願えるのであれば、大内も赦してやるべきであろう」と仰った。
そのため、大内定綱のところからの使いの者に、そのことを言い含めてお返しになった。ところで、大内定綱が去って以来、塩松は白石若狭宗実の所領であった。そのため、定綱が伊達に降参することになったのを、成実が宗実に語ったところ、「塩松は地方の民までもすべて大内に代々仕えているものたちであるため、定綱の領地の住まいは少し心配であったので、伊達家に服属することになったことに、とても悦んでいます」と言った。
成実もいろいろのところへ対面させ、政宗の耳に入ったため、そのときの話は終わった。
そうこうしていると、そのあと会津から定綱が「このことを他の人にいうのは大変不快であります。そのことはすべてもれきこえて、いま会津ではそのことでもちきりでございます。このままでは、もう命すら危うい状態です」と言った。
成実は「どうして他の人に話たりするでしょうか。そうであっても、あなたの後、小浜は今白石若狭宗実の居城となっているから、あなたが伊達へ移ることをのぞむことを宗実に黙っていては疑われることもどうかと思ったので、その詳細をささやいたのである。もしかしたら内通者がいるのかもしれない」と言い使わした。
そしてその後宗実が成実に言ったのは「大内定綱が私を頼ってお願いしたいと会津より内通すると言い、それからよくないことを言いふらすとは思うけれど、まず宗実が内通の本当のところを知らないというのにいいかげんなことをなさるのはどうであろう。第一政宗は会津へとても心配していらしゃるのだから、そおことが知られたならば、定綱は殺され、会津から伊達へ内応することはできないということを思い、あの者の忠節をつなごうとして、仕方なくこらえています」
成実は宗実に「どちらにしても、定綱は降参することに決まったので、こちらにくるでしょう。すべて自分の勝手なことをするよりは伊達のためを思うことが一番の覚悟であります」と言い、お互いに行き別れた。
どうしてこのことが宗実の失敗というのは、大内定綱は大変誉の高い人であり、塩松に居た頃も、近くの田村に対しても、清顕へたてつき、佐竹・会津の加勢もたのまずして、数年独立して戦をおこない、合戦にもたびたび勝利をすること、比べる者がないことは政宗も御存知であるから、定綱が伊達へ降参するのであれば、本領として塩松をもお返しになるかもしれない。そうなるのを防ぐために、中途半端に宗実の手引きで降参させたならば、まさか塩松をお返しにすることはないだろう。そうでなければ、会津にて殺されるであろうと心配してこのような次第になった。
このような状態であるため、伊達への内応もその年内は延期になり、大内定綱も会津のことを心配して、12月、暇を頼み、片平へ引き込んだのである。

感想

会津から伊達への内応が疑われた定綱が、助けてくれといったエピソードが書かれています。
おもしろいのが、成実が白石宗実に詳細を言ったところ、それがもれ、定綱から文句を言われ、そのことで宗実に対して苦言を呈しているところです。
実際のところ、どっちが悪いのか、どこからもれたのかはわかりませんが、お互いの面子を争っているところが興味深いです。