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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』4-3:成実領地草調儀之事

『政宗記』4-3:成実領地での草調儀のこと

原文

されば奥州の軍言ばに、草調儀或は草を入る、或は草に臥、亦草を起す、扨草を捜すと云ふ有。先草調儀とは、我領より他領へ忍びに勢を遣はすこと、是草調儀といへり。扨其勢の多少に依て一の草・ニの草・三の草とて、人数次第に引分に段々跡に扣へ、一の草には歩立計りを二三丁も先へ遣はし、敵居城の近所迄夜の内より忍ばせけるを草を入ると名付。其より能場所を見合隠居、草に臥と云ふ。爾して後夜明けなば内より往来に出ける者を一人成りとも、たとえば幾人にても敵地より出かかりけるを、一の草にて討て取ること、是草を起といへり。正に敵地の者ども其ときに到りて知合、各武具立一の草を討て取んとす、扨草の者ども足並にて逃散けるを、我増次第に追かけければ、二三の草起し合、糴合*1と成て、討つ討れつ互に勝負を決す、亦我領へ草の入たるを知合ければ、内の人数を二手にも三手にも合、其勢を脇より遣はし、二三の草扣たる跡を押切、扨其兵儀を仕合、此方に残りたる人数を以て一の草より捜し、草の者ども起立、逃散扣たる二三の御方へ加はりけれども、跡先より押包攻ける程に、何かは可好草の勢とも後を取り、却て討るることもあり。たとはば昼にてもあれ、山際などの場所好ければ、草を入ることの右の如く、爾りと雖ども昼なれば、草とは云はず昼這と云り。去程に同年*2の三月十三日に、成実領地玉ノ井へ敵地の高玉より、山際に付て西原と云処、玉ノ井四五里隔ちけるに、彼西原へ草入、玉ノ井よりの往来を討て取んと待掛けるを、玉ノ井の者ども知合、其草を兵儀なしに遠く追過ければ、高玉の者ども其を見請、重ねては押切を置討取んと、玉ノ井より高玉への山道に、矢沢と云ふ処へ同月二十二日の夜、亦草を入んと評定す。爾処に大内兄弟、右にも申す伊達へ忠節に極まり内通なれども、其砌は未だ向方の御方へ手切をせざるに、今亦高玉へ加らざれば、伊達へ一味と現はれ、会津へ聞へんこと流石大事に思ひ、是非なくして助右衛門領地片平と阿久ケ島の人数も高玉へこそ加はりけれ。同二十三日に今夜玉ノ井へ草入けると敵地の内より成実領知本宮へ告ける程に、二十三日の朝、本宮・玉ノ井二ケ所の者にて、成実も自身出て捜しければ、一人残らず偽りなりとて引込ければ、其日昼這に、玉ノ井の近所へ二三十人出来り、御方の者ども出合取結ばんとしけれども、引上げるを追掛、台輪田と云処へ追詰競合となる、かかりけるに、御方追過けるを見合、討取べき工みにて、右の矢沢に小山のありける其陰に三百余人隠し置き押切に擬作*3競合始まる処より、引掛べしと思ひ、そろそろと除口になるを、玉ノ井の者ども跡の草を評議なしに追過たる故、引掛けるとは夢にも思はず、敵の足跡悪くなると心得競ひかかりければ、敵尚も崩れかかりて足並を出しけるに、押切の敵も是を待兼早く出ける程に、押切られはせざれども御方崩れかかり、川迄押付られ、三四人討けるに、川にて立合守返ければ、敵の大将高玉太郎右衛門、味方の境を乗分、小川を隔て横向に乗通りけるを、成実歩立志賀山*4三郎、川柳へ鉄炮を掛持かけけるが、寸斗切て*5放ちければ、名誉上手では有、一つの玉は太郎右衛門腰に当る。今一つ馬の挼合*6に中つて乗たりける馬を屏風返しに打返され、敵除口にて足跡悪く成けるを、太田主膳といふ大剛の武者、殿をして引上げる故、未だ崩れざる処に、主膳小坂に乗上けるを、亦山三郎上矢に打って放ちければ、鞍の跡輪を打かき二つ丸にて豨処*7へ打出され、主膳うつむきに成て、自身に差たりける小旗を抜、痛手を負て候。我等爰を引除なば、必崩れ候べし、汝主膳に成かはり、殿をして引取べしとて、其差物を弟の采女に差せ、其場を引除相果けるは、哀れ剛の兵なる哉と、時の人々感じけり。惣じて此の草は、主膳・太郎右衛門発起を以て、入れたる草なり。爾かるに両人ともに、右の如き仕合なれば、惣じての人数も崩れける故、追討に頸五十三討て取けり、雪頽をつきたる競合なれば、多勢も打取べけれども、山隘の悪所にて散々に逃げる程に纔の体なり、敵其夜は宿所へも帰らざる者多かりけりと後に聞へ候事。爾して頸ども鼻をそぎ米沢へ差上見せ奉り候事。

語句・地名など

押切:文意不明
上矢:箙の征矢にさし添える二筋の矢/この場合の文意不明
跡輪:鞍の後部の高いところ
雪頽:なたれ・なだる/くずれおちるの意味か

現代語訳

さて、陸奥国のいくさ言葉に、「草調儀」あるいは「草を入れる」、あるいは「草に臥せる」、また「草を起こす」、一方で「草を捜す」という言葉がある。
まず草調儀とは、こちらの領土から他領へ密かに手勢を遣わすことを、草調儀と言った。
その人数の多少によって、一の草・二の草・三の草と言って、人数に従って分かれ、徐々にあとに控え、一の草には歩きで進むものばかりを2、3町も先へ遣わし、敵の居城の近くまで、夜のうちから忍ばせたものを、草を入ると名付けた。
それよりよい場所を見合わせ隠れることを草に臥せるという。
そしてのち、夜が明けたら、内から外に出る者を、一人であっても、たとえ数人であっても、敵地から出てきた者を一の草にて討ってとることを、草を起こすと言う。
まさに敵地の者たちがそのときになって知り、それぞれ武具を着け、一の草を討って取ろうとし、草の者たち足を揃えて逃げるのを、我先にと追い掛けたら、二・三の草が起き、競り合いと成って、討ちつ討たれつお互いに勝負を決する。また自分の領土へ草が入ったのを知れば、うちの手勢を二手にも三手にも合わせ、その手勢を脇から遣はし、二・三の草が控えている後ろを押し切り、さてその兵のことをあわせ、こちらに残っている手勢で一の草から探し、草の者どもを起こし、逃れ控えている二・三の味方へ加わったのだが、前後から押し包み攻めるときに、どちらかは好くなるであろう草の勢たちが後ろをとり、かえって討たれることもある。
たとえば、昼にでもある。山際などの場所がよければ、前述した草を入れることもある。しかし、昼の場合は草とはいわず昼這と言う。
さて天正16年3月13日に、成実の領地である玉ノ井に、敵地の高玉より、山際に西原というところが玉ノ井から4,5里離れているところにあった。この西原へ草を入れ、玉ノ井から来る者を討って取ろうと待っていたのを、玉ノ井の者たちは知っていて、その草を戦闘なしに遠く追い過ぎたとき、高玉の者たちはこれを見て、加えて押しきりを行い、討ち取ろうと、玉ノ井から高玉への山道に、矢沢というところへ、3月22日の夜、また草を入れようと相談した。
そのときに大内兄弟が前述したように伊達へ内応することが決まり、内通したのだが、そのころはまだ相手方の味方へ関係を断つことをしていなかった。今また高玉の方へ加わらないならば、伊達の味方しているように見え、会津へもそれが知られてしまうだろうということをさすがに大変なことだと思い、仕方ないので片平親綱の領地片平と安子ヶ島の手勢も高玉の軍に加わったのである。
3月23日に、今夜玉ノ井へ草が入ったと敵地の中から成実の領地である本宮へ知らせてきたので、23日の朝、本宮・玉ノ井二ヶ所の者であったので、成実も自ら出て探したところ、一人残らず間違いであったと戻った。その日、玉ノ井の近くへ昼這が2,30人出てきて、味方の者が出てきてとりかかろうとしたけれども、引き上げるのを追い掛け、台輪田というところへ追いつめ、競り合いとなった。すると、味方が追い、過ぎるのを見て、討ち取る作戦で、先ほどの矢沢に小山がある陰に、300人余り隠しおいて、押し切りに見せかけて、競り合い始まるところから引きかけようと思い、そろそろと退こうとしているのを、玉ノ井の者たち、後ろの草を相談なしに追いかけ、過ぎていたため、引っ張りかえられると夢にも思わず、敵の足下が悪くなると思い、攻めかかったところ、敵は尚も崩れかかり、足並みをだしたところ、押切の敵もこれを待ちかねて早く出たので、押しきられはしなかったが、味方も崩れかかり、川まで押しつけられ、3,4人討たれたところ、川にて立ち合いになり、盛りかえした。すると、敵の大将高玉太郎右衛門が味方の境を乗り分け、小川を隔てて横向きに馬に乗って走ったのを、成実の徒立である志賀散三郎、川の柳へ鉄砲を持かけ待ち構えていたのが、ばんと鉄砲を発射したところ、大変素晴らしい上手い者であったので、弾丸ひとつが太郎右衛門の腰にあたった。もうひとつの弾丸は馬の挼合(ねりあい)に当たって、乗っていた馬が屏風が倒れるようにうち返され、敵の退き口で足下が悪くなっていたところを、太田主膳という強いことで名の知れた武者がしんがりをつとめ引き上げたので、まだ崩れていないときに、主膳は小坂に乗り上げたのを、また散三郎第二の追撃をしたところ、鞍の後輪(鞍の後部の高い部分)を打ちかき、二つになっていのこへ放り出され、主膳はうつむきになって、自分が指していた小旗を抜き、痛手を負ったのです。
私はここを退いたならば、必ず崩れてしまうでしょう。この主膳になりかわり、しんがりをつとめて引き留めるとその指物を弟の采女に差させ、その場を退き死んだ。このことは、なんと強いつわものであるかとその頃の人々は感動した。
この草はすべて主膳・太郎右衛門が起こし、いれた草であった。しかし二人とも前述したような有様であったので、すべての手勢もくずれたので、追い討ち、53の首を討ち取った。
雪崩をついたようになった競り合いになったので、多く討ち取られたはずであるが、山間の難しいところでちりぢりになって逃げたので、討ち取れたのはわずかであった。敵はその夜宿所へも帰らなかった者が多かったと後になってお聞きしました。そして首の鼻をそぎ、米沢の政宗のところへ差し上げ、御覧にいれました。

感想

草といえば一般的には忍びのことをいうと思いますが、奥州ことばでは前述のように言ったという話。
地方地方での違いなどが知られて興味深いところです。
ここもそうですが、成実は敵味方問わず戦で人がどう戦ったかをよく書いています。勇ましく散れば、誰かがそれを語ってくれるというのが、この時期の常識だったのでしょう。あまり有名でもない人の死に様でも、成実がいちいち書き記しているのを見ても、「記す」ことの意味を考えさせられます。

*1:せりあい

*2:天正16年

*3:アテガヒ

*4:

*5:「ずんときって」鉄砲を発射するさまか

*6:ねりあい/意味不明

*7:いのこ