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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』4-8:義胤、田村取損給之事

『政宗記』4-8:相馬義胤、田村を取り損ねなさったこと

原文

同五月、政宗は大森に義胤は月山に御坐す内、田村の家来義胤へ尚も心を合せけるに、夫に又三春の城に御坐ける政宗姑母儀は、義胤の伯母にて御坐しけるが、其頃政宗へ恨みを含み、相馬へ傾き、田村を義胤に取せ玉ふべきと、内通の折柄なり。かかりけるに、相馬の家老新館山城・中村助右衛門といふ両使を以て、同十一日三春へ義胤宣ひけるは、「近所の月山に在陣なること幸なれば、明日はそれへ参り御見参に入ん」と宣ふ。故に田村の下々申けるは、「兼ては伊達・相馬双方ともに入まじきと堅約の処、今又変じて両使入立、あまつさへ明日義胤御坐は、城を取べき術ならん」と唱ひける故、同十二日の寅刻に、山城・助右衛門町宿より三春の城に上り、義胤をはすを待けるとなり。爾る処に橋本刑部自害を覚悟にして、夜の内より城に上りければ、刑部方の者ども五人三人づつ、弓・鉄砲・鎧を持、要害へ入けるとかや。かかりけるに、月斎・梅雪・右衛門も上りけるを、刑部、梅雪の手を取て、「兼ての申し合せをひるがへし、今亦義胤を入参らせ給ふべきや」と申しければ、梅雪常は田村へ出給はば、取せ参らすべきと内談なれど、流石に大剛の刑部手を取て尋ねけるに、返事悪かりなば、即時に討るべしとや思ひけん、日来に違ひ「いや入参らせまじき」と云ふ。其言を取て、刑部我身も鎧も肩にかけ、鉄砲をうてと下知をなす。各物具して防ぎけるに、義胤已に坂中迄乗上給へば、馬の平首へ鉄砲中り、夫より取て返し東の搦手へ廻り給ふと雖ども、切所なるに、供の士卒は三十余騎袴掛にて何の役にも立ずして、空しく引返し給ふとき、鎧武者二百余騎に弓・鎗・鉄砲を差添、時分を謀りて跡より来れと残されけれども、先にて右の仕合なれば出合ざるなり。亦大越紀伊守心を合せ、手勢を六七百城林の深き谷へ、宵より忍ばせけれども、大将の不手際なる故、用立ずして月山へも帰り給はで、紀伊守途中へ出向ひ、立寄給へと申しけれども、大越へも寄給はず、直に相馬へ蓓蕾給ふ。爾るに山城・助右衛門、城内にてうたるべしやと思ひけん、か程に色立給ことに義胤出馬を御気遣ひとみへたり、さらば無益にせんとて出でけるを、何れも鑓をつつかけければ、刑部無用と下知をなし、山城・助右衛門に「要害の心懸けかくのごとくなれば、相構へて重ねても御心得の為、急ぎ御参り、義胤へ其旨申させ給へ」と言含め、押出て城は堅固に相抱ひけり。さる程に、山城・助右衛門、刑部一言を聞て心は急げども、周章騒ぎ若や押掛討んと思ひ、門の外迄は如何にも静々と出けるが、門番に山城申しけるは「加程なる用心に関抜計りは如何なり、疾々錠をおろせ」と云ければ、門番実もとや心得鎖を指。両人其音を聞て足並を払ひ逃降り、義胤へ追付相馬へ付奉ること。身を全ふして主君へ忠を、先達目のさやをはづしたる哀れ剛者共かなとて、時の人々風聞なり、角て其日に田村より右の品々、小浜へ告来る故に、白石若狭早馬にて其夜の亥の刻に、大森へ申しければ、政宗時刻を移さず、早蒐し給ふ。明十三日の辰の刻に、四本の松の宮森へ乗着給ひ、夫より伊達信夫の人数を以て、月山へ両日働き給へども、田村に人数入べきこと有んと宣ひ、成実をば田村の内白岩と云処へ遣はし玉ふ。去程に両日の働きも成実は出ざるなり。同十六日には、小手の森へ働き給ふに、其日は成実をも呼給ひ、月山より助けの押へに差置、惣手を取掛攻給へば、落城して烽火し給ふ。今度は撫切にはし給はで、取散しにと宣ひ、御身は宮森に帰り給ふ。明る十七日には、大倉と云処の城主彦七郎は、田村右衛門の弟なりしが、田村の内伊達へ心替の族ども、未手切のことは云に及ばず、内通迄にて色にもみへざる処に、彼の彦七郎は、義胤月山在陣の内、差現れ度々見廻りをなし義胤三春へ術して出馬のときにも、彦七郎先掛をして政宗へは敵をなす。是に依て、彦七郎城郭大倉へ押寄働き給ふに、要害に引込ける。から家どもを焼払ふといへども、一騎一人も出合ず、脇より助けの人数も来らず、爾る処に彦七郎最前より申合に候や、亦兄の右衛門拵らへけるか、いかようにも、田村より卜雪と云出家働場へ出向、月斎を頼み訴訟をなす。政宗承引にはおはせども、日も暮れければ、先宮森に引込給ふ。故に惣ての人数は、西と云ふ処に野陣をかけ、明る十八日には、田村の石沢に相馬衆籠りたると聞へ、彼地へ取掛給ふべしと馬を出されけるに、彦七郎罷出降参申ことをそかりければ、惣の人数は大倉への道に備を取、若や出ざるときは此要害を攻給はん迚、各心掛ければ即罷出降参致し、石沢への先手にと定りけり。石沢は小地なれども城よかりけるに、其へ相馬衆加はり多勢と聞へ、押寄攻給ふべきか、亦近陣にし給ふべきかと評定にて、其夜は白石若狭領分西と云処に、一宿有んと宣ひけれども、腰を掛給ふべき家もなければ、東の山に野陣をし給ふ。爾るに大雷出来して上下共難義に及。かかりける処月山にて、火の手みへたり、雷なれども物見を遣しみせ給へば、走り帰りて月山の敵一人も残らず、退散なりと申す。扨石沢はいかが有ぞ、と宣ければ、彼地は申すに及ばず、弾正親摂津守居城百目木迄も引除、田村の内相馬へ傾きける処、鋒先にて三ヶ所手に入、宮森へ帰り給ひ人馬の息を休め給へり、故に月斎・梅雪・右衛門・刑部。其外相馬へ傾きける者迄も、宮森へ参り石川弾正御退治故、田村も平安目出度由にて、祝儀の礼を申す。其内へ常盤・伊賀参けるを、右田村に於て寄合評定のとき、伊達を守るべきこと其身より申出て、何も同じける由聞及び給ふとて、金熨斗張りの刀を賜はるなり。政宗二十二歳のときなり。

語句・地名など

注)政宗夫人の生母(田村清顕夫人)は相馬顕胤の息女で、相馬義胤の叔母にあたる。政宗の祖父晴宗の妹は田村隆顕(政宗の岳父清顕の父)の夫人であり、さらにその妹は相馬義胤の夫人である
石沢:福島県田村郡船引町石沢
周章(しゅうしょう):慌てふためくこと・狼狽え騒ぐこと

現代語訳

同じく天正16年5月、政宗は大森に、義胤は月山にいらっしゃるあいだ、田村の家来は義胤へなおも心を合わせていたのだが、それにまた三春の城にいらっしゃる政宗の姑である北の方は、相馬義胤の伯母であるのだが、その頃政宗へ恨みを抱き、相馬へ味方し、田村を義胤に取らせるべきだと内通をしていらした時期であった。
このときに、相馬の家老新館山城・中村助右衛門という二人の使いを通じて、5月11日三春へ義胤が「幸い近くの月山に在陣しているので、明日は三春へ参り、お見舞いに参ります」と仰った。そのため田村の家来たちは「今までは伊達と相馬双方共に三春へ介入してはいけないという堅い約束のところ、今それが変わって、二つの使いが入り、それどころか明日義胤がいらっしゃるのは、城を取ろうとするやり方であろう」とくちぐちに言った。そのために、同12日の寅の刻、山城・助右衛門が泊まっていたところから三春の城に上がり、義胤がいらっしゃるのを待っていた。
そのときに橋本刑部顕徳自害を覚悟して、夜のうちから城に上がっており、刑部の配下の者たち、五人三人ずつ、弓・鉄砲・鎧を持ち、城へ入ったとかいうことである。
そして月斎顕頼・梅雪斎顕基・右衛門清康も城に上がってきたとき、刑部は梅雪の手を取って「以前よりの取り決めを飜し、いま義胤を城に入らせ申し上げるのべきだろうか」と言ったところ、梅節は不断は田村へ出たのであれば、義胤に取らせるべきと内密に話していたのだが、さすがにとてもたくましい刑部が手を持って尋ねたので、上手く答えることが出来ず、すぐに討たれるのかもしれないとでも思ったのだろうか、日頃の考えと変えて、「いや、お入りにならせるべきではない」と言った。
その言葉を聞いて、刑部自身も鎧を肩にかけ、鉄砲を打てと命じた。
おのおの武装して防御していたところ、義胤はすでに坂の途中まで乗り上げなさっていたのだが、馬の平首(たてがみにつづく両側の部分)へ鉄砲が当たったので、それから引き返し、東の搦め手へお回りなさったが、難所であったので、供をしていた兵士は30騎余り袴姿で、何の役にも立たず、空しく引き返しなさるとき、鎧武者200騎余りに、弓・槍・鉄砲隊を付け、時を見計らって、後から来いと残されていたのだが、先に前述したような有様だったので、出ることが出来なかった。
また大越紀伊守心を合わせ、手勢を6,700城の林の深い谷へ、夜から忍ばせていたのだが、大将の手腕が良くなかったため、役に立たず、義胤は月山へも帰らずにいたので、紀伊守は途中へ向かい、義胤に立ち寄りなさいませと言ったのだが、義胤は大越へも立ち寄ることなく、直接相馬へ退いたのである。
しかし新館山城・中村助右衛門は、城内にて討たれるだろうと思ったのだろうか、このように同様なさっていることに義胤の出馬を気遣いだと思った。
ならば無益にしないようにと出ていって、みな槍をつつかせたところ、刑部は無用と命令をし、山城・助右衛門に「城の心がけはこのような様子であるので、心構えをして繰り返しても覚悟があるので、急いで伺い、義胤へその事をお伝えしろ」といいふくめ、押出して、城は堅く守った。
そして、山城と助右衛門は刑部の一言を聞いて、心は急いだが、慌てふためいて叫び、もしや押しかけ討たれるのであろうかと思い、門の外まではいかにも静かな様子で出ていったが、門番に山城が「このような用心に関抜けばかりは手薄であるのはどうだろうか。急いで錠をおろせ」と言ったところ、確かにと門番は思い、鎖を指した。
二人はその音を聞いて足並みを払い逃げ飛び降り、義胤へ追い付いて、相馬へ付いて奉公することになった。身を全うして主君へ忠節を、先を行く人をよく見る哀れなつわものたちであるなあと時の人々は言い合った。
そしてその日に田村より前述したことの詳細の知らせが小浜に来たため、白石若狭宗実は早馬を使ってその夜の亥の刻に、大森へお伝えした。
政宗はすぐに早駈けなさった。明くる13日の辰の刻に、塩松の宮森へ乗り着きなさり、そこから伊達郡・信夫郡の軍を引き連れ、月山へ数日戦闘をしかけたが、田村に手勢を入れるべきであるとも仰り、成実を田村の領内白岩と言うところへお遣わしになった。そのため、数日の戦にも成実は出なかったのである。
同16日には小手森を攻めかかられたのであるが、その日は成実をもお呼びなさり、月山よりの援軍の抑えに於かれ、全軍をかけて城攻めに取りかかり、攻められたところ、落城し、烽火をお上げになった。
今回は撫で切りにはなさらず、取り散らしにせよと仰り、御自身は宮森にお帰りになられた。
明くる17日には、大倉というところの城主彦七郎は、田村右衛門の弟であったが、田村のなかの伊達へ心変わりした一族の者たちも、いまだ手切れのことはもちろん、内通までするなどとは表には見せずに居たところに、この彦七郎は義胤が月山に在陣していたとき、現れ、たびたび見廻りをし、義胤が三春を攻めようとして出陣したときも、彦七郎は先陣して政宗へ敵対した。
このため彦七郎の城大倉へと押し寄せ攻めなさったところ、城の中に引きこもった。空き家を焼き払ったというのに、一騎・一人も出てこず、脇から援軍も来なかった。そのとき彦七郎は一番前から言うことには、「また兄の右衛門が謀ったのか、どのようにでもせよ」と言った。田村より卜雪という僧侶が戦場に出向き、月斎を頼って訴えた。
政宗は受け入れたわけではなかったが、日も暮れたので、とりあえず宮森に引き上げなさった。
そのためすべての軍兵は西というところに野陣をしき、明くる18日には、田村の石沢に相馬衆が籠もっていると知らせがきたので、かの土地へ行こうと馬を出されたところ、彦七郎が出てきて降参したのが遅かったので、すべての勢は大倉への道に備えを取り、もし出ないときはこの城をお攻めになるだろうと、おのおの思っていたところ、すぐに出てきて降参したので、石沢への先鋒に決まった。
石沢はそれほど大したところではなかったのだが、城が良いので、それへ相馬衆が加わり、多くの兵が集まっているということで、城に攻めかかるべきか、近くに陣をしくかと話し合いになった。その夜は白石若狭の領内、西と言うところに一泊しようと仰ったのだが、落ち着くような家もなかったので、東の山に野陣をなさった。
すると大きな雷が鳴り出して、みな大変な事になった。
そのとき月山にて火の手が上がったのが見えた。雷ではあったが、物見を送り、見てこさせたところ、走って帰り、月山の敵は一人も残らず、逃げたと言った。
さて石沢はどうなったかと仰った。彼の地は言うに及ばず、弾正の親摂津守居城百目木までも退却し、田村の中で相馬へ味方しているところ、政宗の武勇によって、三ヶ所の城を手にいれ、宮森へお帰りなさり、人と馬を休めなさった。
そのため、月斎・梅雪・右衛門・刑部、そのほか相馬へ味方していた者までも、宮森へ参上して、石川弾正を退治したため
田村も平安でめでたいとのことで、祝いの言葉を述べた。
そのうちに常盤・伊賀が来たところ、田村に於いての会議の時に、伊達への忠節を守るべきことをその身から申し出、いつでもそうしていたことを政宗がお聞きになり、金熨斗張りの刀を賜ったのである。
政宗22歳のときである。

感想

相馬義胤が田村に対し攻めようとしたところ、政宗がどう対応したかが書かれています。
伊達派と相馬派に分かれる田村家臣団。
伊達派の刑部と、相馬方の梅雪の緊張感あるやりとりなどがおもしろいところです。