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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』5-1:安積郡山対陣事

『政宗記』5-1:安積郡山での対陣のこと

原文

去程に天正十六年戊子の六月、政宗二十二歳の年、四本松の宮森におはしければ、佐竹義重本宮にて、無手際なる遺恨解さずして、二度乱を起し、御子義宣、二男会津の義広、此三大将へ石川大和守昭光・白河義近・須賀川各同陣、扨岩城より今度同陣にはなけれども五百騎の加勢にて、安積表へ出陣たり。政宗是を聞給ひ、其義ならば高倉か扨は本宮への働きならん、さらばとて同十一日に、宮森を打立、二本松の杉田へ馬を移され、本宮への働ならば助の指引候べしとて、杉田には御坐ませども、一円無勢なり。其子細を申すに、其頃最上・大崎・相馬敵々なれば、彼境は云に及ばず、助かけの人数迄も一騎一人も窕ざれば也。かかりける処に、敵の勢は佐竹・会津・岩城・石川・白川・須賀川迄を取合、堅く八千余騎有るべしと申す。敵初日は阿久土と云処へ打て出、其より郡山へ働き給ふ。伊達の面々扨は本宮迄には有まじきとて、惣の味方は高倉にさしおき、政宗は同十二・十三両日ともに窪田の山王山に打上、敵の軍配見給ひけるに、佐竹・会津の野陣、郡山近所へ働き給ふ。是に依て伊達より郡山への警固として、武者三十余騎に鉄砲二百差添、物頭には大町宮内・中村主馬・塩森六郎左衛門・小島右衛門を遣し給ふ。太宰金七物頭にはなれども、申し乞てぞ籠りける。敵近々と押寄けれども、其頃迄は通路も自由なれば、郡山の城主太郎右衛門、此方へ来て「郡山は近陣ならん、未取詰めたる事はなけれども、若左有ときんば、重て申し上ん」とて罷り帰る。然るに敵又翌日も働き、西の台へ築山を二つ築き要害の如くかまへ、小旗を立、町を見おろし鉄砲を打ける程に、此方にても近陣ならんと見届ければ、案の如く郡山より近陣なりと申来る。同十四日にも、山王山へ打上、敵陣を見給ひ、各召寄安積山にて談合し玉ふ。評定衆は、桑折点了・小梁川泥蟠・原田休雪・白石若狭・浜田伊豆・原田左馬介・富塚近江・遠藤文七郎・片倉小十郎・伊東肥前・成実ともに、以上十一人なり、点了・泥蟠は本家にしたがひ大身なれども、其比世外にて籏本にさしおき、不断相伴衆となり、軍の評定衆也。浜田伊豆・原田左馬介・富塚近江・遠藤文七郎、此四人は家の家老也。文七郎は輝宗へ二世の供を勤ける遠藤山城家督なりしが、其身賢きに依て其年十七歳なれども評定衆に召加へ給ふ。政宗宣ふ、「郡山は近陣なれば、必落城疑い無く、助けのために対陣を張ん、各如何思ひけるぞ」と宣ふ。桑折点了「仰の旨はさる事なれども、敵は多勢、味方は方々へ手をふさがれ、漸六百騎には過候まじ、然に何とて御対陣相叶はず、多勢を以御陣場へ手分を致し、一戦を仕掛けなば利を失はれん事実正也、左も有ときは対陣のしるしは全くなし」と申す。何れも点了思案十分也とて、其日は善悪の分ちもなく、又十五日も山王山へ乗上給ふに、其日は日の丸の小旗を先に押立、敵陣を見給ひ、重ての評定に「今日も山へ上り、敵も小旗を見知たるに、対陣を張らずして、郡山空しく落城ならば、伊達十七代の家を、予が弱生故に跡十六代へ瑕をつけん事、恥の上の辱也、縦は戦の実否を以て、滅亡なるは浮世に珍しからぬ事なれば、是非対陣に」と宣ふ。十五日に態と敵地へ小旗をみせ、評定者どもへ其義を云ひ立給ひ、疑無く対陣を張んがためとぞ聞へける、然して小梁川泥蟠申しけるは、「相馬義胤田村へ心深ふして、田村衆を大方引付給ふに、それへ又北の方迄相馬御一味なれども、橋本刑部已に自害を存詰、義胤を城の坂中より押返し取損じ給へばこそ、田村は只今迄安穏也、況や田村の内相馬へ傾き、未手を仕兼けざる歴々の城持どもを、御後に差置たまひ御対陣は、御思案の外にも尚あまりあり、然と雖も、勝利を得らるる御見当も御坐さば、是非なき事」と申す。政宗「申所は理りなれども、郡山・窪田・福原・高倉、引続御方なれば、たとひ田村の内にて手切をせんと思ふとも、阿武隈川を隔ては、よも成りがたき事也、去程に郡山・窪田・福原・高倉、彼四ヶ所より、人質どもをば取置けれども、今又対陣にきはめなは、郡山をば此方より遣しける警固の者にてかため、残る三ヶ所をば、代官を以て持替、三ヶ所の城主扨勢ともに手前へ召加うべく、本宮・二本松は成実領分なれば、是又心安、若我軍陣破れなば、本宮迄は田舎道三十里なれば、引除けるとも争急事は候うべく、彼と云ひ是と云ひ、有無に対陣」と宣ふ。此仰を承り、然るべしと申す衆もあり、いやいや御大事と申者も多かりけれども、第一に名に瑕を付んより、滅亡は覚悟也と宣ふ程に、何も是非を申兼、対陣にぞきはまりける。惣じて、仙道七郡に、七屋形と申して、其頃七大将おはします、彼大将は一度は政宗取向はんと、おもはれけるにや、当七種に祈願所竜宝寺に於て、懷の発句に、
 七草を一葉によせてつむ野かな
是は七大将に差給ふかと今思ひ当り候事。

語句・地名など

杉田:二本松市杉田
世外:隠居

現代語訳

天正16年6月、政宗が22歳の年、塩松の宮森ににいらっしゃったのだが、佐竹義重本宮に於いて、良くない恨みを未だ持ち続けており、二度戦を起こし、子の義宣、次男で会津の芦名義広の三人の大将に加え、石川大和守昭光・白河義親・須賀川の二階堂氏のそれぞれが一つになり、また岩城から今回同陣にはならなかったけれども、500騎の援軍を送ってきた。それらが一緒に安積方面へ出陣した。
政宗はこれをお聞きになり、それならば
高倉か本宮への動きであるだろう、ならばと同じく6月11日に宮森を出発し、二本松の杉田へ移動なさり、本宮への働きがあれば、援軍のさしひきをしようとして、杉田にはいらっしゃったのだが、まったく軍勢が居なかった。
その事情を言うと、そのころ最上・大崎・相馬が敵であったので、それぞれの境目はもちろんのこと、援軍も一騎一人の余裕もなかったのである。
そうしている内に、敵の軍勢は佐竹・会津・岩城・石川・白河・須賀川までを合わせ、8000騎余りはたしかにいるだろうと言う。
敵は初日は阿久土というところへ出て、そこから郡山へ出撃した。伊達の面々はさては本宮まではこないであろうとすべての味方は高倉にさしおき、政宗は12日・13日両日ともに窪田の山王山に上り、敵の軍の差配を御覧になると、佐竹・会津の野陣は、郡山の近くへ出撃した。このため、伊達から郡山への警固として、武者30騎余り、鉄砲200を添えて、戦奉行として、大町宮内・中村主馬宗経・塩森六郎左衛門・小島右衛門をお遣わしになった。太宰金七も戦奉行になったが、乞うて籠城した。敵は近く押し寄せてきたけれども、そのころまでは通路も自由に行ききできたので、郡山の城主郡山太郎右衛門頼祐はこちらへやってきて、「郡山は近くに陣をおいての戦になるでしょう。まだ取りかかろうとする様子はないけれども、もしそのときには再び知らせを送ります」と言って帰った。
そこで敵はまた翌日も動き、西の台へ築山をふたつ築き、要害のようにそなえ、小旗を縦、町を見下ろし鉄砲を打ちかけてきたので、こちらにも近く攻めてくるであろうと見届け、思った通り、郡山から近くに陣をしいたと連絡が来た。
14日にも、政宗は山王山に上り、敵陣を御覧になり、それぞれをお呼びになって、安積山で評定を行った。集められた評定衆は桑折点了斎宗長・小梁川泥蟠斎盛宗・原田休雪斎・白石若狭宗実・浜田伊豆景隆・原田左馬助宗時・富塚近江宗綱・遠藤文七郎宗信・片倉小十郎景綱・伊東肥前重信・成実で、以上11人であった。桑折点了斎・小梁川泥蟠斎は本家に従う大身であったけれども、そのころ隠居したため旗本にされ、不断相伴衆となっていくさの評定衆になっていた。
浜田伊豆景隆・原田左馬助宗時・富塚近江宗綱・遠藤文七郎宗信の四人は家の家老であった。文七郎宗信は輝宗に殉死した遠藤山城基信の跡継ぎであったが、とても賢かったので、その年17歳であったが、評定衆に加えられていた。
政宗は「郡山は近くに陣をしかれたので、必ず落城するのは間違いない。そのために対陣を張ろう。それぞれどう思っているか」と仰った。
桑折点了斎は「仰ることはそのとおりですが、敵は多く、味方は四方への手をふさがれ、ようやく600騎に届かないといったところです。なので、陣地戦はどうにかしてでも避け、多勢で攻めてきて、一戦を仕掛けられたら、敗北することは明らかであります。そうなるときは対陣する利点はまったくありません」と言った。他の者たちいずれも、桑折点了斎の考えがもっともであるとして、その日は白黒が付けられず解散した。
また15日も政宗は山王山にお上りになり、その日は日の丸の小旗をおしたて、敵陣を御覧になり、再びの評定になったとき、「今日も山へ上り、敵も小旗を見知っているというのに、対陣をせずして郡山城が空しく落城するのであれば、伊達17代の家を、私が弱いがゆえに先の16代の当主達に疵をつけることは、恥よりさらに辱めである。戦の勝敗で滅亡するのは今の予に珍しい事ではないので、是非とも対陣しよう」と仰った。
15日にわざと敵地へ小旗を見せ、評定衆の者たちにそのことを仰ったのは、間違いなく対陣をするためであるだろうと思われた。
しかし小梁川泥蟠斎は「相馬義胤田村へ心を深くして、田村衆を大部分ひきつけており、それに加え北の方までもが相馬の味方であるが、橋本刑部はすでに自害を思い詰め、義胤を城の坂途中から押し返し、義胤が田村を取り損ねなさったことこそ、田村がいままで安穏だったのであります。まして、田村のうち相馬に味方し、まだ動こうとしない歴々の城主たちを、後ろにおいて対陣なさるのは、考え違いにもほどがあります。しかし、勝利を得られる見当がついておられるのであれば仕方のない事ですが」と言った。
政宗は「いうところはその通りだが、郡山・窪田・福原・高倉、は引き続き城主が味方であり、たとえ田村の領内で背く者があったとしても、阿武隈川を隔てては、すぐに影響があるわけではない。なので、郡山・窪田・福原・高倉の四ヶ所から、人質を取とっているが、いままた対陣するのであれば、郡山をこちらから使わす警固の者で守らせ、残る三ヶ所を代官を使って持ち替え、三ヶ所の城主は手勢と共に呼び加えるのがいいだろう。本宮・二本松は成実が守護しているので、これは安心である。もし我が軍が敗れたとしても、本宮までは田舎道30里の道のりであるから、退いたとしても、急に敗北するおkとはない。かれこれ言わずに、対陣する」と仰った。
このお話を聞いて、そうだと言う者もおり、いやいや大事であると言う者も多かったのだが、何よりも家名に瑕をつけるのならば、滅亡は覚悟していると仰ったので、だれもそれに是非をいいかねて、対陣することにきまった。
一般に、「仙道7郡に7屋形」と言って、その頃7人の大将がいらっしゃった。これらの大将は一度は政宗に敵対したものだとおもわれたのか、当家の七種連歌のときに、祈願所の竜宝寺にて、ふとした発句で、
七種を一葉によせてつむ野かな
とある。これは7人の大将のことをさしておられたのかと、いま思い当たったのでございます。

感想

郡山合戦の話に入ります。
11人の評定衆との会議のなかで、反対されながらも家名に瑕を付けてはいけないと滅亡覚悟で戦に望もうとする政宗の強い意志が見えるようです。
最後で出てくる連歌が有名な天正18年の正月の連歌会で発句された「七種を一葉によせてつむ根芹」の原型かと思われるものですが、その七種の比喩について「いま思い当たった」と言っている成実がちょっとおもしろいですね。