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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』5-2:陣場定事

『政宗記』5-2:陣場定めの事

原文

然して後、原田左馬介「今度の御陣場は、何方ならん」と申す。浜田伊豆「保沢の沼を御後に、西の原に好かるべし」と申す。伊東肥前「大軍と小勢とは、軍の作法御坐、無勢にて場好に御陣場に然るべからず、悪所を前に当て、若合戦に利を失はれん時、除口の能所を御見当なく、自然に大勢を以て取廻働くとき、如何あらん、去程に福原を御後に、窪田を前に当給はば、掛引とも好かるべし」と申す。小十郎「肥前申所尤なり」とぞ同じける。重て伊豆「敵山王山へ打上働とき、御無勢を見切らるべく事気遣なり」と云。又肥前「見切られける事苦しからず、御合戦成らるる能地形肝要なり、夫をいかにと申すに、福原の前は縦ば利を失い給ふとも、福原へ引込所近かりければ、窪田を前に御当能候半」と申す。故に福原の前陣場にこそは究まりけれ。然して後肥前「今後の御対陣は、郡山を助け給はん御助なれば、御無勢にて合戦望むべからず」、「然と雖も助のため対陣を張、警固の者を始め城内一宇越度を取せ候ては、対陣の甲斐なく、生ては更詮なき処、只今郡山の手詰次第に、有無の防戦を遂、負ては討死諸とも、若勝程ならば城中の御方を、窪田へ引取ん」と宣ふ、何れも是を承り感涙を催し、「有りと雖も御一言かな、末には善悪に隋ひ、有無の御合戦尤也、若何事なきときは吉事也」と申す。されば伊東肥前日来名誉の者にて、原田休雪と両人に兼て、惣軍の団扇を預け給ふ。かくて其場におひて要害へは、飯坂右近と大峰式部、福原へは瀨上中務、高倉へは大条尾張を遣し給ひ、右三ヶ所の要害ともを受取、入替たる本の城主同人数と共に、此方へ使わすべしと宣ふ。陣中へも明日より対陣と触、其夜は先本宮へ引込給ふ。同六月十六日の卯刻に打出、福原の前に陣を備へ、夫々の陣場刻をし給ふ。其上宣ひけるは、「定て敵山王山へ働くべし、其子細をいかにと云へば、窪田の方は、植田水ひたしろにて働きがたし、其頃は原続場好なれば、合戦あるとも彼筋ならむ、成実には其所を陣場に」と宣ふ。畏て即ち出、彼場を見ければ、実に合戦場と覚しき処は爰なるべきと見届、人数の繰出能様にと支配ければ、左はなくして郡山と窪田の間へ働き出、夫より取て返し、山王山より段々に押来り、備をとり一戦を持掛けれども、無勢なるに合戦大事と、始より功者の者ども評定なれば、成実陣より一騎一人も出ず。其日は何事なくして引上玉ふ。爾るに成実陣場の前少分なる用水堀の有けるを、当に取其日は陣屋をも掛けずして芝にて、五尺余りの土手を二重築上、惣の廻りへ堀一重堀ければ、日も早暮かかりける程に打上、十八日にも普請に取付ければ、敵軍働出たり。是に依て成実は土手の内に備ひ、扨水田の前は田村孫七郎・同名月斎・片倉小十郎陣を取、惣の御方も成実後へ備けるに、敵一戦を持掛、会津の尾熊因幡と云けん者、三百余人相具し、一陣に進んで山根に用水堀の有けるを埋させ道に拵ひけるを、成実手より鉄砲七八挺遣はし、敵此方へ来らば構はずして帰れと申付、二三度打せければ、尾熊が腕へ当て普請も相止、夫より敵陣惣の鉄砲集め、つるべを打せて引上けり。されば其頃須賀川は会津一味の処なれば、須賀川よりの物頭に、保土原江南、浜尾善斎と云、此両人会津に加る。爾るに其後政宗須賀川を取詰給ふ、少し前に右の江南・善斎忠を先達此方へ来り、彼仁物語を後聞ば、「六月十七日にも働くべきに極りけれども、引続三日働給へば、人馬も労倦一日休しめ給ふ。十八日には、有無の防戦と働き給ふに、合戦場と覚しき処に、堀を堀土手を築、要害の如く構へければ、先づ道を拵、戦然るべしとて会津の尾熊因幡を普請の為に出されければ腕を打れて引上たり」と物語にて候事。

語句・地名など

つるべを打たせる:並列した打手が順次に間断なく連発すること

現代語訳

そしてその後、原田左馬助宗時「今回の陣場はどこになるでしょうか」と言った。浜田伊豆景隆は「保沢の沼を後ろに、西の原にするのがよいでしょう」と言った。
伊東肥前重信は「大軍と少数の手勢とは戦の作法というものがございます。無勢にて良い場所に陣を張ってはいけません。悪所を前にし、もし合戦が不利になったとき、退却口のよいところをめあてがなく、敵が大軍で押し寄せてきたとき、如何するでしょうか。なので福原を後ろに、窪田を前にされたなら、かけひきするにもよいでしょう」と言った。
片倉小十郎景綱は「肥前のいうところはもっともである」として同意した。
浜田伊豆景隆は加えて「敵が山王山へ上り働くとき、こちらが小勢であることを気取られないよう気を付けないといけない」と言った。
また伊東肥前重信は「小勢であることを気取られるのは大して大変なことではありません。合戦になさるところが良き地形であることが大事です。何故かというと、福原の前にいるならば、たとえ勝利を得られなかったとしても、福原へ退却し、場所が近いのだから、窪田を前にするのがよいことだと思います」と言った。
そのため福原の前に陣場をひくことが決まった。
そしてそのあと伊東肥前は今回の対陣は郡山を助けるための援軍であれば、小勢での合戦をシテはいけません」と言った。
政宗は「そうだとしても、助けるために対陣を張り、警固の者を始め、城の内の者たちがすべて落ちるとするならば、対陣する意味がない、そうなっては更に仕方のないところである。いま郡山の状況次第で、勝敗を決する防戦を遂げ、負けて討ち死にするとしても、もし勝ったとしても、城の味方を窪田へ引き取るようにせよ」と仰った。
みなこれをお聞きし、感動の涙をもよおし、「なんという御言葉であろうか、結果はどうあろうとも、一か八かの合戦のことはもっともである。もし何事もなかったとしたら良いことである」と言った。
すると伊東肥前は普段から非常にすぐれた将であるので、政宗は原田休雪斎と伊東肥前に、総軍の指揮をお任せになった。
そしてその場に於いて、城へは飯坂右近宗康と大峰式部信祐、福原へは瀨上中務景康、高倉へは大条尾張宗直をお遣わしになり、前述の三ヶ所の城を受け取り、入れ替わった元の城主を手勢とともにこちらへ遣わしなさいと仰った。陣中にも明日から対陣であると知らせ、その夜はとりあえず本宮へ退却なさった。
同じく6月16日の卯の刻に出発し、福原の前に軍をしき、それぞれの陣場割をなさった。
そのうえ、仰ったのは「必ず敵は山王山へ戦闘を仕掛けるであろう。それは何故かというと、窪田の方は田んぼの水が一面に白くなっており、動くことが難しい。その頃は草原が続き、場が良いので、合戦があるならばその方面になるだろう。成実はそこを陣場にしなさい」と仰った。謹んで承り、すぐに出発し、その場所を見れば、本当に合戦場となるだろう場所はここだろうと見届け、手勢がうまくくりだせるようにとしたのだが、そうではなく、敵は郡山と窪田の間へ攻めて来て、それからとって返して、山王山から徐々に押してきた。備えをして一戦を持ちかけてきたけれども、こちらは無勢であるので、はじめから合戦が大事と戦に優れた者たちで評定して決めたので、成実の陣からは一騎ひとりも出なかった。その日は政宗は何事もなくお引き上げなさった。
成実の陣場の前に、小さな用水堀があった。ちょうど良くその日は陣屋もつくらずに芝になっていたので、五尺ほどの土手を二重に築き上げ、陣所周りに堀をひとつ堀ったところ、たちまち日は暮れかかるころになったときに終わり、18日も工事をしていたところ、敵軍が攻めてきた。このため成実は土手の中に備え、一方で水田の前は田村孫七郎宗顕・田村月斎顕頼・片倉小十郎景綱が陣を敷き、味方の総軍も成実の後ろへ備えているところに、敵は一戦を持ちかけてきた。
会津の尾熊因幡といった者が300人あまりを引き連れ、一陣に進んで山のふもとに用水堀が有るのを埋めさせ、道にしていたところに、成実の方から鉄砲隊を7,8挺遣わし、敵がこちらに来たらかまわずに帰れと言いつけて、2,3度打たせたところ、尾熊の腕へ当たり、工事も泊まった。そこから敵は総軍の鉄砲をあつめ、矢継ぎ早に打たせて引き上げた。
その頃須賀川は会津に味方していたが、須賀川からの戦奉行に、保土原江南行隆・浜尾漸斎という二人が会津に加わっていた。しかし、このあと政宗は須賀川をお取りになるのだが、その少し前に、保土原江南・漸斎がこちらへ内通を申し出て、これらの話を聞いたところ、「6月17日にも動くように決まっているけれども、引き続き3日も戦闘をすれば、人も馬も疲れ、1日お休めになるだろう。18日には仕方なくの防戦と働くだろうが、合戦場と思うところに堀を堀、土手を築き、要害のように構えるならば、まず道を作り、戦に向かうべしと会津の尾熊因幡を工事のために出されたところ、腕を打たれ引き上げた」と語ったのである。

感想

引き続き郡山合戦にての陣場定めの会議の内容が知るされています。さまざまところから情報を集め、いろんな地形を見て陣場を定めていることがわかります。
堀を掘ったり、土手を築いたり、道を作ったり。そういったことを指揮することも戦国武将の仕事の一つであることがわかります。