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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』5-3:須賀川衆先陣辞退事

『政宗記』5-3:須賀川衆が先陣を辞退したこと

原文

かかりける処に、其頃須賀川よりの物頭に、須田美濃・矢田野伊豆・矢部下野・保土原江南・浜尾善斎以上五人也。然るを義重今度の戦陣をば、須賀川衆にと宣ふ。五人の者ども、「成実陣場に普請もなければ、申し乞ても先陣の処なり。然るに二重三重の普請にて、要害の如く構へけるを仕掛けるべき術てもなし」と申す。重て義重「縦は普請ありとも、敵は無勢味方は多勢、争か利を失はん、心安かれ」と宣ふ。又五人衆「其義ならば、某ともは討死なりとも、利得給ふべきため、迅成二陣を定め給へ」と申す。「さらば会津衆を」と宣ふ。「さらんに取ては岩城衆を」と云ふ。其とき義重「今度岩城よりは、首尾合の加勢なるを望けるは誠難題也、疾々先陣を」と宣ふ。「何と仰に候とも、成間敷」と申す処へ、佐竹の家来川井甲斐と云ける者、同臣下東中務のもとへ行て、「今日の御合戦をば、相止られ候はんや、子細をいかにと申すに先成実陣場は要害の如く構へ、其へ亦窪田の方は水ひたし口にて要所なるに、先陣の合戦此方にて始まりなば、郡山と窪田の敵とも取出、押への人数へ取組べし、左も有ときは跡先より押包まれては大事なり、只郡山を近く取詰給はば、好かるべし」と申す。中務実にもとの承引にて、義重へ其旨申し其日の一戦相止、惣の鉄砲を集め、つるひを打せて引上給ふと、江南・善斎右の物語なり。されば十九・廿日は何事も無く、郡山より通路も自由也。扨廿一、二日は、敵郡山と窪田の間へ堀を堀、足軽に奉公計を指添、城内へ鉄砲を打入、通路も成兼けるに、亦廿三にも郡山と窪田の間へ、敵陣取出通路を切んがため、取手の城に普請をなす故に、政宗も窪田へ馬を出されけれども、無勢なれば流石に防も相叶はず、伊達上野足軽を少し遣し小競合有。此時に到て、旗本の大和田四郎右衛門出合、鑓疵太刀疵蒙高名しけれども、軍法を背て出ける故、曲事にも成んかと下々唱ければ、左はなくして、四郎右衛門手際を政宗直に見給ひ、名誉比類無とて其頸も見せ参せ手柄の高名なり。爾るに敵軍取手に人数を差置、郡山への通路不自由なるに、尚も通路を切るべしとて、同廿六日には亦惣軍を取掛け、右の取手の東に当て、取手の普請を打立、片平助右衛門を定番にして、其指添番に会津の家老を一人づつ、日替りに差添番手持なり。是に依て成実申けるは、「対陣の始は合戦御慎あれと、各申しけれども、今は早取手を両所に取立、通路も叶はず一合戦し給ひ然るべし、少々後れ給ふとも、対陣の効なり」と申しければ、休雪・肥前「若ければ覚悟の外なる思案なり、ケ程の御無勢にて合戦争か叶はず、返す返すも慎べき」と申しけれども、成実其年二十一歳の六月、若輩心の愚案にて対陣の効なるに、是非防戦と睨べけれども其時節なくして、未待暮し候事。

語句・地名など

曲事(くせごと):非法の処罰

現代語訳

そうしているところに、その頃須賀川の二階堂氏からの戦奉行は、須田美濃・矢田野伊豆・矢部下野・保土原江南・浜尾漸斎の以上五人だった。
佐竹義重は今回の先陣をこの須賀川衆にさせようと仰った。五人は「成実の陣場に工事もなかったら、こちらから乞うてでも先陣を仕ったところである。しかし、二重三重の工事を行い、まるで要害のように構えているものに仕掛けるべき手立てもない」と言った。
義重は加えて、「たとえ工事があったとはいえ、敵は少なく、味方は多い。どうして負けることがあろうか、安心せよ」と仰った。
また五人衆は「そのことならば、私どもは討ち死にするとしても、利をえるため、すぐに二陣を定めてください」と言った。
義重は「それでは会津衆を」と仰った。「そうであるならば岩城衆を」と五人は言った。
そのとき義重は「このたび岩城よりは始めから終わりまできちんとした加勢を望むのはとても難題である。急ぎ先陣を頼む」と仰った。
「何と仰せになられましても、なりません」といったところへ、佐竹の家臣川井甲斐という男、同じく家臣之下東中務のもとへ行き「今日の合戦をおやめになられませんでしょうか。どうしてかといいますと、まず成実の陣場は要害のように作られ、それへまた窪田の方は水浸しの入り口で、難しいところであるので、こちらが先陣にて戦をはじめたならば、郡山・窪田の敵も飛び出し、抑えの手勢へ攻めかかるでしょう。そうなったときは後ろから前から挟まれてはおおごとであります。ただ郡山を近くからお攻めになればいいのではないでしょうか」と行った。
下東中務のいうことはたしかであると引き受け、義重へそのことをいい、その日の一戦はやめになった。すべての鉄砲を集め、一斉に打ちかけてから引き上げなさったと、保土原江南・浜尾漸斎が語った話である。
すると、19日20日は何事も無く、郡山から通るのも自由であった。
一方で、21日22日は、敵は郡山と窪田の間へ堀を堀り、足軽に奉公人達を付き添わせ、城内へ鉄砲をうち入れ、道を通ることもできなくなっていたので、また23日に郡山と窪田の間へ、敵陣が通る通路を切ろうとして、砦の城に工事をするために、政宗も窪田へ出馬したのだが、小勢であったので、さすがに防御することも出来ず、伊達上野政景足軽を少し遣わして、小競り合いがあった。
このときになって、旗本の大和田四郎右衛門が出て、槍傷・太刀傷を甥ながらも、功名を上げたが、軍法を背いて出たため、処罰を受けるだろうかとみなささやいていたのだが、そうではなくて、四郎右衛門の手際を政宗は直に御覧になって、その名誉は比べる者がないとして、その首を見せに三条市、手柄の功名となった。
敵軍は砦に軍を差し置き、郡山へ道をとおるのが不自由になったので、なおも通路を切ろうと26日にはまた総軍にて取りかかり、右の砦の東を攻め、砦の工事を始め、片平助右衛門親綱を定番にし、その付き添いに会津の家老を一人頭図、日替わりに差し添え番をさせた。
このため、成実は「対陣のはじめは戦は慎みなされとみな言ったけれども、いまはすでに砦を両方つくり、道を通ることもできない。ひと合戦するべきである。少し遅れてしまうにしても、対陣の効果がある」と言ったところ、休雪斎・伊東肥前は「若いゆえの覚悟のない考えである。これほどの小勢で合戦することがどうして可能であるだろうか。くりかえすが、合戦は慎むべきである」と言ったけれども、成実はその年21歳の6月であり、若輩の愚かな提案で、対陣を成功させるには是非防戦をと見当をつけたのだけれども、そのときは時が合わず、いまだ待ち暮らしたのでございます。

感想

佐竹義重と須賀川衆とのやりとりが(本人達は必死なのでしょうが)少しコミカルに思えるシーンです。
最後、成実が自分の若かりしころの自分の考えを「若輩心」「愚案」と言っているのが、とても年をとってからの感慨らしいです。