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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』5-5:岩城より無事扱事

『政宗記』5-5:岩城による和睦が成ったこと

原文

去程に佐竹義重は、岩城常隆・政宗扨成実には伯母聟なり、故に会津義広は、義重の次男にて、常隆・政宗へも従弟なり。爾るに、天正十三年乙酉十一月十七日に、義重本宮へ働き給ふに、会津・岩城・石川・白川・須賀川六大将と共に、政宗へ敵対し給ふ。爾れども、今度の対陣へは常隆同陣ばし給はで、五百騎の加勢と雖も何方を取ても半ばにておはせば、流石笑止にや思はれけん、常隆中立と成て無事を扱ひ給へり。かくて義重は石川大和守昭光の姉聟なれば、石川は佐竹近所と云、今度も其方へ同陣たりと云とも、亦政宗へも成実抔へも伯父なりけるを、常隆幸にしたまひ、昭光へ内談有て、佐竹の陣へは岩城の家老白戸摂津守、伊達へは志賀閑長斎、両使を以て扱ひなり、閑長・摂津守、始は中途に徘徊双方より迎を呼には、采幣にて招ぎ送を召連通りけり。爾して後右の両使両陣へ申理り、矢鉄砲をば止められけれども取手の番は相互に右の分なり。爾るに常隆より自今以後御懇あれと、双方へ御異見に付、八月始に無事相済、双方より代官にて対面し給ふ。其とき大和守昭光も、伊達の陣場へおはして、政宗へ対面、並に兄の伊達上野守政景・成実を始め、何も親類ともに会給ふ。爰に佐竹の家中糠田彦三郎と云し人、成実所へ使を以て、政宗へ目見申度との望に付て、其旨申ければ会給ふべきと宣ふ。即ち参られ首尾能相済。彼彦三郎其砌は佐竹の内、糠田と云処の城主にて家の一門なり。かかりける処に、関ヶ原一乱の後、相国家康公御発向に依て石田三成一味の大名小名、或は死罪或は改易、様々浅深の折柄、義宣身代跡の四分一に成、秋田へ国替に逢給ふ。其節彦三郎も暇の衆にて佐竹に留、水戸中納言頼房公御家に有付、糠田久兵衛と改名して、昔と違今又如何にも小身なり、跡の首尾にて成実処へ未注進絶さるなり。さる程に、郡山は八月十六日に陣払と定め、双方共に平順す。政宗は田村の仕置し給はんとて、米沢へは帰り給はで、四本の松の宮森へ引込給ふ事。

語句・地名など

佐竹義重の夫人は伊達晴宗の息女、義重は岩城常隆の母の兄弟である。
石川昭光は晴宗の子息であり、晴宗息女を夫人とする義重は姉むこに当たる。

現代語訳

さて佐竹義重は、岩城常隆や政宗、成実からは伯母の婿にあたる。そのため会津の芦名義広は義重の次男であり、常隆・政宗にとっては従弟であった。
しかし、天正13年11月17日に、義重が本宮へ戦を仕掛けたときに、会津・岩城・石川・白川・須賀川の6人の大将とともに政宗と敵対なさった。
しかし今回の対陣には岩城常隆は戦いには加わらず、500騎の加勢をしたとはいえど、どちらにとっても中途半端では、さすがに大変だと思われたのだろうか、常隆は中立をなり、一応の無事を保たれた。
佐竹義重は石川昭光の姉の婿であり、石川は佐竹の近所であるということもあり、今回も佐竹の方へ加勢したとはいうが、また政宗や成実などにとっても伯父であるのを、常隆は幸いとして、昭光と内密の相談をして、佐竹の陣には岩城の家老白土摂津守隆通、伊達へは志賀甘釣斎という二人の使いを送って和睦の仲裁をしていた。
甘釣斎と摂津守は始めは間をうろうろし、双方より迎えを呼ぶときには、采配をつあって招き送った者を連れて通った。
そしてそののち、この二人の使いは、両方の陣に言い伝えて、矢や鉄砲は止められたけれども、砦の番は未だに臨戦態勢であった。
すると常隆より今後は仲良くお願いしますと双方へご意見をなされたため、8月始めに和議が無事行われ、双方から代官を遣わして対面なさった。
そのとき石川大和守昭光も伊達の陣へいらっしゃって、政宗へ対面し、また兄の伊達上野介政景や成実を始め、親類たちとお会いなさった。
このとき佐竹の家臣糠田彦三郎という者が成実のところへ使者を送り、政宗にお会いしたいと望んできたので、そのことを政宗に申し上げたところ、会いましょうと仰った。すぐに糠田は参上し、首尾能く面談をhたされた。この彦三郎はその頃佐竹のうちの糠田というところの城主で、佐竹家の一門であった。
その後関ヶ原の合戦のあと、徳川家康が東国に出発した後、石田三成に味方した大名も小名が或いは死罪、或いは改易にとさまざまに咎を受けていたときに、佐竹義宣は領地を四分の一に減らされ、秋田へ国替えにおなりになった。
そのとき彦三郎も解雇され、佐竹にとどまったのだが、水戸中納言である徳川頼房の家臣となり、糠田久兵衛と改名して、昔と違っていまはとても小身であったが、その後の詳細を成実のところへいまだに連絡を絶たしたことはない。
ということで、郡山は8月16日に陣を引き払うと決め、双方ともに矛を収めた。
政宗は田村の仕置をしようと、米沢へはお帰りにならず、塩松の宮森へひきこみなさったのである。

感想

稙宗・晴宗の政略結婚政策の所為で、ほぼ親戚の南奥羽の大名たち。それぞれが敵味方に戦っていたのですが、ここで石川昭光と岩城常隆が関わり、和睦の仲介にあたります。
陣場で兄である政景や従弟である成実らと昭光が会っているところはなんかほっこりします。いったんは敵対していた昭光がその後伊達に臣従するのもこういうところがあったからでしょうか。