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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』5-6:最上より泉田安芸返し給事

『政宗記』5-6:最上から泉田安芸重光をお返しになられたこと

原文

去ば右にも申す、安積の軍前に最上義顕、両国境鮎貝藤太郎を語らひ、米沢へ手切なれば、今最上との戦なり。爾るに、義重・義広伊達へ再乱して、仙道へ発向し給ふ故に、政宗最上をば差捨、安積表へ打出対陣を張給ふ。さる程に、義顕時を見合さまに米沢を望み給ふべき事、下々気遣の処に、伊達の鉾には叶ふまじとや思はれけん、政宗御母儀は義顕妹にて、輝宗死去し給ふ以来、是を東の方と号す、案に違ひ義顕東の方へ計略を廻らし、天正十六年政宗安積の留主に、出羽境の中山と云処へ、東の方乗物を出され、和睦を扱ひ無事となる。是依て去ぬる天正十五年如月半伊達勢大崎新沼に於て、籠城仕ける諸軍出城のため、敵地へ人質に渡り、其後最上へ引取給る泉田安芸を伊達へ返し給ふ。是に依て安芸郡山の対陣場へ参りけるを、政宗召出し給ひ、奉公に対し久しき苦労笑止の由宣ひ、刀脇差其上加増を賜はる。安芸内外旁忝とて悦事斜めならず。

語句・地名など

中山:山形県東置賜郡赤湯町中山
大崎合戦は天正十六年二月

現代語訳

すると前述した、安積の戦の前に最上義光は伊達と最上の境目の鮎貝藤太郎宗信と言い合わせ、米沢と関係を断ったので、最上との戦となった。
しかし佐竹義重・芦名義広が伊達へ再び戦を起こし、仙道方面へ出発なさったため、政宗は最上の問題はさしおいて、安積方面へ向かい対陣をお張りになられた。すると義光は時を見合わせて米沢をお望みなさるだろうことを家臣たちは心配していたところに、伊達の武勇には叶わないだろうとお思いになったのだろうか、政宗の母は義光の妹であり、輝宗がお亡くなりになって以来、東の方と呼ばれていた。
考えに背き、義光は東の方に計略をめぐらせ、天正16年政宗が安積のに留め置かれたときに、出羽との境の中山というところへ、義姫は駕籠をお出しになり、和睦を仲介し、無事停戦となった。
これにより天正15年如月の半ばに伊達勢が大崎新沼において籠城していた諸軍を城から出させるために敵地へ人質となって渡り、その後最上へ引き取られた泉田安芸重光を伊達へお返しになった。
これによって泉田重光は郡山の対陣場へ参上したのを、政宗はお呼びになって、永きに亘る苦労は大変であっただろうと仰り、刀脇指を与えられ、その上加増を賜った。
泉田安芸重光は大変忝いと大変喜んだ。

感想

政宗を苦しめていた最上との戦の和睦の仲介を義姫がした話です。中山峠に居座ったやつです。
何故なのかわかりませんが、成実は義光を非常に嫌っており、ここでも東の方義姫をそそのかしたかのように書いています。他の記事でもよく義光を悪く書いています。何があったんでしょうね?(笑)