[sd-script]

伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』5-7:三春番代附浪人払

『政宗記』5-7:三春の城代をさだめたことと浪人払いについて

原文

同八月十九日、田村月斎・同名梅雪・従弟右衛門・橋本刑部、宮森へ来て、「今度相馬義胤三春を取るべく、兵乱も北の方本城におはして、内通の故也、去程に北の方を隠居なさせ参らせ、政宗公の御子御誕生まで、城代を差置給ひ爾るべく」と申す此義政宗承引し給ひ、「清顕弟田村善九郎殿息子孫七郎を、番代には如何有べきぞ」と宣ふ。田村の四人衆「御家より遣し給はで、清顕親類なれば甥と申し、孫七郎外他事なし」と申す故に、彼仁城代に極り給ふ。然して「北の方の隠居所は何方ならん」と尋ね給ふ。「常の平屋は如何なれば、右衛門居城の舟引に然るべきか」と申す。さればとて其旨宣ひければ、右衛門畏てそ候ける。かくて四人衆、北の方の御隠居、並孫九郎御番代、彼両様御使者を以て、田村の家へ宣下されける様にと申合、右の四人は罷帰る。其跡より守屋守栢・白石若狭・片倉景綱、三人を三春へ遣し、田村四人の家老を以て、仰の旨を申し帰りければ、又四人衆申しけるは「迚も孫七郎に御一字を下され如何有るべき」と申す。是に付て伊達の宗を遣し給ひ、宗顕と名乗給ふ。爾して後北の方も舟引へ移し給ふ。宗顕も三春の城へ直り給へば、政宗も米沢へ帰陣と思はれけるに、田村四人の内、月斎・刑部両人にて、景綱に語りけるは、「今度義胤田村を取んと企て給ふも、田村に居ける浪人ども、相馬へ心合せそれより以来、譜代の者まで傾きけり、一年会津に於て牢人払をなし給へば、分領悉く安穏の御代となる、去程に田村に於ける牢人ども、何も相馬譜代なれば浪人払を成られなば、末々迄も静ならん」と申す。政宗是を聞き給ひ、原田休雪・片倉景綱、両使にて浪人払と四人の家老へ宣ふ。本来浪人衆梅雪・右衛門に申合、相馬へ相引ければ、今後も梅雪・右衛門を引連新参譜代ともに三十八人、梅雪家督田村右馬頭居城小野と云在所へ立除、其外申合の古参衆も多かりけれども、如何有けるやらん、未引除かずなり。政宗もケ様ならば先差置連々仕置給ふべしをと、思はれけれども甲斐ぞなき。爾るに、月斎・刑部は其品々を存知、前にて浪人払いと有無ならば、梅雪・右衛門も立除程に、其ときは両人して田村を支配、宗顕をも心安ふ守立けるとの思案にて、景綱には右の子細を語りけり。是に依て、政宗帰陣を延慮し給ふ。田村仕置のため、宮森より三春へ馬を移され、三十余日の在馬なり。かかりけるに、梅雪父子・右衛門大越紀伊守、彼四人又相馬を背て岩城へ手寄。其頃常隆政宗へ和睦なれば、家の若松紀伊守と云使者を、三春へ遣し宣ひけるは、「四人の者ども田村を背て、立除る事手前に於ても口惜き次第也、然りと雖も彼後者共清顕親類なれば、万を差捨御捨免ならば、前の如く御奉公を申付、我子迄も本望ならん」と宣ふ。伊達の家老共此儀即時に、政宗へ申され間敷と評定にて紀伊守をば伊達元安宿所へ引入、御口上を承るに、「政宗ためを思召詳審なる仰共感入たる事也、田村に居ける浪人衆相馬一味の事、歴然なれば已に殺害にと、思はれけれども、数年田村の軍に清顕へ奉公の其賞に、身命をば恙なく追放の所に、其に又梅雪・右衛門も加り、徒党を構へ何れも相具し小野へ立除ければ、政宗深く腹立の旨也、御使者にては御坐せども、則申聞し事家来の者ども気遣也とて、御辺御心得にて永く御訴訟有るべき」由、挨拶して紀伊守をば相返しけり。然して田村の仕置し給ひけるに、門沢と粟手と云二ヶ所は、小野と大越の境にて、田村の領内なれども、一度は政宗へ敵をなす。是に仍て彼地へ、田村衆を警固に遺すべきと宣ふ、万づ事終て後十月始めに、先帰陣有て安積表は無事の以来は、何事もなく、相過候事。

語句・地名など

両国:国人領主または大名の領地をいう。この場合は芦名領中をさす。
門沢:福島県田村郡船引町門沢
粟手:同郡大越町粟出

現代語訳

同じく天正16年8月19日、田村月斎顕頼・田村梅雪斎顕基・従弟田村右衛門清康・橋本刑部顕徳、宮森へ来て「このたび、相馬義胤が三春を取ろうとして起こした兵乱のときも、北の方は本城にいらっしゃったが、内通しておられた。そのため北の方を隠居させ、政宗公の子が生まれるまで、城代を差し置いていただくのがよいと思います」と言った。
このことを政宗は引き受けなさって、「清顕の弟、田村善九郎の息子孫七郎を番台にするのはどうだろうか」と仰った。田村の四人衆は「伊達家よりお遣わしになるのではなく、清顕の親類からというのであれば、甥でもあるし、孫七郎の他に相応しい者はいない」と言ったので、孫七郎が城代に決まった。
そして政宗は「北の方の隠居所は何処になる?」とお聞きになった。四人は「普段お住まいの平屋はどうだろうと思うので、右衛門の居城の船引に差し置くのがよいだろうか」と言った。
そうなればとそのことを仰ったところ、右衛門清康は畏まりて承った。
そして四人衆は北の方の隠居・孫七郎城代への就任の話のふたつのことを、使者を遣わして田村の家へご命令くださいと言い合わせて、この四人は帰った。
その後から、守屋守栢意成・白石若狭宗実・片倉小十郎景綱の三人を三春へ遣し、田村四人の家老の名の下に仰ったことを伝え、帰ったところ、また四人衆が言ってきたのは「孫七郎に政宗の一字をいただけないでしょうか」ということだった。
このため政宗の「宗」の字を贈りなさり、宗顕と御名乗りになった。そしてのち、北の方も船引へお移りになった。
宗顕を三春の城に戻ったので、政宗も米沢へ帰ろうと思われていたところに、田村の家老四人衆のうち、月斎と刑部が二人で小十郎景綱に語ったところによると「今回相馬義胤が田村を取ろうと企てなさったのも、田村に居る浪人たちが相馬へ心をあわせてから、譜代の者までなびくようになり、もし一年会津において浪人ばらいをされたとしたら、芦名の領内はことごとく平和となるだろう。なので田村に居る浪人たちはいずれも相馬に代々仕えていた者たちなので、浪人払いをされたならば、さきざきまで平穏であるでしょう」ということだった。
政宗はこれをお聞きになり、原田休雪斎・片倉景綱の二人の使いを送り、浪人払いをせよと四人の家老に仰った。本来浪人衆は、梅雪斎・右衛門と言い合わせ、相馬へ退いたところ、そのあとも梅雪斎・右衛門を引き連れ、新参・譜代共に38人、梅雪斎の跡継ぎ田村右馬頭清通の居城、小野という領地へたちのき、その外言い合わせた古参衆も多かったのであるが、なにがあったのだろうか、いまだ退かずにいた。
政宗もこのようならばとまず差し置いたものたちを仕置しようと思われていたのに、その甲斐もなかった。
月斎・刑部はその詳細を知っており、前に浪人払いとなるならば、梅雪斎・右衛門も退出するだあろうから、そのときは二人で田村を支配し、宗顕を安心して盛り立てることができると考えており、この詳細を景綱に語った。
このため政宗は米沢への帰陣を取りやめることになさった。田村仕置のため、宮森から三春へ移動され、30日余りご滞在なさった。すると梅雪斎親子・右衛門・大越紀伊守、この四人は相馬に背いて岩城を頼った。そのころ岩城常隆は政宗と和睦していたので、岩城家の若松紀伊守という使者を三春へお遣わしになり、「四人の者たち田村へ反逆し、退出したことは、私にとっても口惜しいことであります。しかしそうはいってもこの後者は田村清顕の親類であるので、すべてをさしおいてお許し下さるのであれば、まえのように御奉公を約束し、子の代までも本望であります」と仰った。
伊達の家老達はこのことをすぐに政宗にいうべきではないと話し合い、若松紀伊守を伊達元安斎元宗の宿所へ引き入れ、口上を聞き「政宗のためを思い、詳しいおっしゃりようはよくわかる。田村にいた浪人衆は相馬の味方であり、歴然であるので、すでに殺されているだろうと思われているけれども、ここ数年の田村のいくさに清顕へ奉公した褒美に、命をとらずに追放しているというのに、また梅雪斎・右衛門までもが加わり、徒党を構え、みな連れだって小野へ退いたので、政宗は強く腹を立てている。使者であるとはいえ、それを御理解して訴えなされ」るよう挨拶して紀伊守を返した。
そして田村の仕置をなさるに、門沢と粟手という二ヶ所は小野と大越の境にあって、田村の領内だけれども、一度は政宗の敵となった。このため、政宗はこの地へ田村衆を警固に遺すべきだとおっしゃった。
すべて事が終わった後、10月はじめに、とりあえず帰陣なさり、安積方面はそれ以後なにごともなくすぎたのでございます。

感想

相馬と伊達に揺れる田村家中の仕置についての記事です。政宗の子が生まれたらそれを跡継ぎにすることを約束し、それまでの間孫七郎宗顕が城代を務めるということになり、相馬派の退却が始まりました。