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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』5:青木修理の内応

5:青木修理の内応

原文

一 同年七月初に米沢へ我等使を上申候て、猪苗代の義相違仕迷惑に存候。会津に御敵は御座無く候間、大内備前を御退治成られ然るべき候。御尤に思召候はば、大内家中に一両人も御奉公仕候様に申し合わすべき由申上候処に、会津へ御敵はなく、御入馬候間、四本松へ御出馬と思召され候。御奉公の者候へば、猶以然るべき候間、早々こしらへ申すべき由御意に候間、我等家中本四本松より罷出候者、大内蔵人・石井源四郎を申付、かり松田の城主青木修理所へ申遣候へば、合点申候間、知行をのぞみに御判形申請越申候。備前田村境の城主よりは久敷人質取置申され候。今度は彌四本松の城主と人質とり申され候に付、青木修理も新八郎と申十六に成候弟に、此比の青木掃部、其比は五つに成子を指添、小浜へ人質相渡され申候。修理存候は、米沢へ御奉公申し候ば彼人質共相捨申すべき儀難儀に候間、証人替申すべきと存。備前家老の子中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内九郎吉三人へ状を越。唯今追鳥時分にて候間、罷越候へと申に付、何も若者共にて以後の分別もなく、八月五日の晩、苅松田へ罷越。六日の朝追鳥二十四五取料理仕。夜半時分迄大酒仕候。修理いずれも御酒過ぎ候間、過もなき様に刀脇指を渡され候へとて無理に取長持へ入置候。三人共に酒に酔伏候て夜を明候。修理は下戸、其上底意候間、酒にも酔わず。くっきゃうの者十人計具足をきせ、三人伏申候処へ押懸起候て、備前殿にうらみ候間、米沢へ御奉公申候。御存知の如く、弟新八郎子共二人小浜へ人質に置申候間、証人人替に申度候間、命の儀は気遣有間敷候由申理候。三人の者共、刀脇指は取られ、何共仕るべき様之無く候。ほだしを討たれ、かり松田に居申候う。其日小浜に向火の手を上事切仕候て我等所へ注進申候間、則米沢へ飛脚を以申上候。御出馬迄遅由御意成られ、小梁川ていはん・白石若狭・原田左馬助・浜田伊豆遣わされ候條、我も四人の衆同心にてかり松田近所舘野に在陣申させ、我等は立小山に在陣仕候。十二日政宗公福島へ御出馬成られ、青木修理に我等使を添福島へ参られ、御目見え仕候処一*1、今度の御奉公御大慶の由、御意成られ御腰物下され候。四本松を絵図に仕指上申すべき由に候間、絵書を遣わされ候間、大形仕差上げ申候へば、御覧成られ、かり松田近所より御働成られるべく候由、思し召され候処に田村より遠候。此度は清顕公より御同陣なられるべき由仰合わされ候間、小手森へ御働成られるべき由御意候て川俣へ御馬を移され、清顕公とわらい平と申所にて御対面成られ候。廿三日には大雨にて相延、廿四日に小手森へ御働候処に、会津仙道二本松を助勢小手森近所迄助来。小手森へは大内自身籠城中堅固に見え候。近々と御働候へども内より一人も出ず。城中多人数に見え候間、此方より取懸らるべき様もなく、打上られ候所に、後陣へ城中より仕懸候間、惣勢打ち返され、合戦御座候。二本松衆先手にて、会津勢も助合候。田村は東より押し寄せられ候処に、大山隔合戦に会い申さず候。然処に政宗公御旗本御不断鉄炮五百挺程召連られ、原の山添より押切候様に横合に御懸候間、城中より出候人数敗北候條、一やらいへ押入、五十余打取候。虎口へ入らず、南へ逃候者追懸候へども、二本松衆合戦候処にて長追然るべからず候由にて打上られ候。大内其夜は小浜へ帰申され候。味方も五里程引上御野陣成られ候。夜懸も之無く、廿五日に御働候へども、城中より一人も出でず、会津衆もなかくきと申処に備を立何事もなく打上らる。御野陣少御寄成られ候。左候へども田村衆と成合候事ならず候。廿六日、又御働候へども、内より出申さず候。小十郎鉄炮を御懸然るべき由申上候に付、七八百挺程内のやらいへ御懸成られ候へども、城中堅固に候間、打上られ、又御野陣少御寄候迄に候。我等申上候は、今日は南の竹屋敷へ陣の通路を切申すべく候間、惣体を相詰められ然るべき由申上候はば、左候はば助勢打下さまたげべく候。城中よりも出るべく候間、両口の合戦如何在るべき由御意に候。又申上候は、竹屋敷へ陣をうつし候はば、田村衆と成合申候間、城中より打出申候敵をば田村衆と我等にまかさるるべく候。助勢をば惣人数を以御合戦候はば、両口に成候とも御気遣在間敷候。地形難所候間、総勢も合戦容易はあらる間敷候。一昨日も城中へ押込れ候に、二本松衆其気遣か引上申さる由申候へば、原田休雪申され候はば、御戦大事に候間、日数を以後は左様に然るべき由申され候。半分我等に同意。半分休雪に同意候て其日落居申さず、打上られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、同天正13年7月はじめに、米沢へ私の使いを送り、猪苗代の人質の事について相違があり、大変困ると思ったのです。会津に敵はいらっしゃらないので、大内備前定綱を退治なされるのがよいと申し上げました。
もっとものことであると思われたのでしたら、大内家中に数人こちらに奉公するように約束を交わすべきであるということを申し上げたところ、会津は敵はおらず、城に入られるので、塩松へ出馬しようと思われたのです。
内応する者がいるのならば、よりいっそうそうであるべきなので、早く内応の策略をするべきであることをお思いなので、私の家臣のなかで、元塩松の出身の大内蔵人・石井源四郎を申し付けて、刈松田の城青木修理のところへ使いを送ったところ、承知するとのことだったので、望む知行について書状を送っていただきたいと言ってきました。
大内備前定綱は田村との境の城主からは長年人質をとっていました。今回はさらに塩松の城主と人質を取っているため、青木修理も新八郎という16になる弟と、今は青木掃部と名乗っている、その頃は5歳になる子を一緒にして小浜の大内定綱のところへ人質を渡していたのです。
修理は、米沢の政宗へ奉公をするのであれば、人質たちは見捨てなければならないことは困ると思っていたので、証人の取り替えをしようと思った。
大内定綱の家老の子に中沢九郎四郎・大河内九郎吉という三人に書状を送った。今は追鳥狩にちょうどいい時期であるので、お越しくださいと書状に書いたところ、いずれも若者であるので、たいした分別もなく、8月5日の夜、苅松田へやってきた。6日の朝、追鳥狩をし、24,5を取り、料理をした。夜中まで大酒を飲んだ。修理は「みな酒を飲み酔っ払っているので、間違いがないように刀と脇指をお渡しくださいと言って無理に取り上げ、長持ちへ入れました。三人ともに酒に酔い、突っ伏して夜を明かしました。修理は下戸でえあり、その上策略があったので、酒には酔わなかった。屈強の者10人程に具足を着せて、3人が伏せているところへ押しかけ、起きたところに、「備前に恨みがあるので、米沢へ奉公することにします。御存知のように、弟新八郎と子2人を小浜に人質としておいておりますので、人質の取り替えをしたく思います。なので命のことは心配しなくてもよい」ということをいった。3人の者たちは刀・脇指は取られ、兄もすることができない様子であった。枷をつけられ、刈松田に移された。
その日、小浜に向かって火の手を上げ、手切れをしたので、私のところへ連絡してきたので、すぐに米沢の政宗の所へ飛脚を送り、申し上げた。政宗が出馬するまで待つのは遅いと思われ、小梁川泥蟠斎・白石若狭・原田左馬助・浜田伊豆を使わされたので、私も四人と一緒に刈松田の近く舘野*2に在陣させ、私は立子山に在陣しました。
12日政宗公は福島へ出馬なされ、青木修理に私の使いを付き添わせて福島へ来させ、御目見得されたのである。今回の内応を大変お喜びになり、刀をお与えになった。
塩松の絵図を作るようにと仰せになったので、絵図を遣わしたところ、だいたいのところを送りもうしあげ、御覧になり、刈松田の近所から動くべきとお思いになっているところに、田村からは遠かったのです。
今回は清顕公から同陣なされるようにと言い合わせておられたので、小手森へ仕掛けるべきであるとお思いに成り、川俣へ動かれ、清顕公と蕨ケ平というところでご対面なされました。
23日は大雨であったので延期になり、24日に小手森へ戦闘を仕掛けられたところ、会津の・仙道・二本松の援軍が小手森の近所まで来ていた。
小手森には大内定綱地震が籠城しており、堅く守っているように見えた。近くに軍を動かしてみたけれども中からだれも出てこなかった。城には多く人がいるようであったので、こちらから取りかかる方法もなく、切り上げなさったところに、うしろの陣に城から仕掛けてきたので、総軍を持って打ち返し、合戦となったのでございます。
二本松衆が先陣で、会津勢も助けに来ました。田村は東から押しよされているところに、大きな山を隔て、合戦に合わなかったのです。
そこへ政宗の旗本の鉄砲衆を500挺を引き連れ、原の山添いから押しきられたところに、横からお攻めになったので、城から出てきた手勢は敗北し、いちの矢来まで押し寄せ、50余りを討ち取った。城の虎口へ入らず、南へ逃げた者を追い掛けたのだが、二本松衆との合戦があったので、深追いはするべきではないという理由で、打ち切られた。
大内定綱はその夜小浜へ帰ったのです。味方も五里ほど引き上げ、野陣を引かれたのです。夜懸もなく、25日に戦闘をしかけたけれども、城中から一人も出てこず、会津からの軍勢も、中久喜というところに備えをしき、何事もせず打ち上げなさった。野陣を少し寄せられたのだが、田村の衆と合流することができなかった。
26日また戦闘を仕掛けたけれども、中からは出てこなかったのです。片倉景綱が鉄砲をしかけては如何でしょうかと申し上げたので、7,800挺程、内側の砦に向かって打ちかけたのだが、城は堅く守られたため、切り上げ、また野陣を少し寄せられただけに終わった。
私が、今日は南の竹屋敷へ陣の通路を切るようにしたらよいのではないかと思うので、総勢を詰められてはどうかと申し上げたら、そうしたら、敵の援軍が下がってきて、妨げとなるであろう、城からも軍勢がでてくるだろうから、両方面と戦をするのはどうだろうかと仰った。
また私が申し上げたのは、「竹屋敷へ陣を移したら、田村衆と合流出来るので、城中から出てきた敵を、田村衆と私にお任せ下さるといい。援軍を総軍を以て合戦なされば、たとえ両方面の戦となっても、ご心配はない。地形が難しいので、総軍も合戦は簡単ではないでしょう。一昨日も城の中に押し込んだときに、二本松衆は引き上げるでしょう」という事を言ったところ、原田休雪斎が「戦は大事にございますが、日数をかけたほうがよいでしょう」と申し上げた。半分は私に同意し、半分は休雪斎に同意したので、その日は落とさず、切り上げたのです。

*1:二か

*2:『政宗記』では「飯野」