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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』18:人取橋合戦

18:人取橋合戦

原文

一 霜月十日比、佐竹義重公・会津義広公・岩城常隆公・石川昭光公・白河義近公仰せ合わされ、湏加川へ御出馬成られ、安積表伊達奉公の城々御責成られ、中村と申城責落せられ候。右之通小浜へ申来るに付、政宗公岩津野へ御出馬なられ、高倉へは富塚近江・桑折摂津守・伊藤肥前に御旗本鉄炮三百挺添籠置かれ候。本宮城へは瀨上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衞籠置かれ候。玉ノ井の城へは白石若狭籠置かれ候。我等は二本松敵城に候。八丁目抱の為渋川と申城に差置かれ候処に、小浜在陣衆何も無人数に候間、早々参るべく候由御状下され候條、渋川に人数過半残候て四本松へ廻り小浜へ参候へば、早御出馬にて小浜にも御人数差置かれず候間、我等人数をのこし申べき由仰置かれ候に付、青木備前内馬場日向、馬上卅騎程残岩津野へ参御目見え仕候へば、前沢兵部も身を持替会津へ奉公仕候間、明日は高倉が本宮へ働きなされるべく候間、罷通べき由御意候條、糠沢と申所処にその夜は在陣申候。彼兵部は本二本松衆に候間、義継生害の砌より伊達へ参候。又佐竹殿御出陣に付佐竹へ参候。同十六日前田沢南の原に敵野陣を懸候。定て高倉へ働に在るべきの由申来候に付、政宗公も岩津野より本宮へ御移なられ候。其比は只今の町場はたにて一人も居なく少川流候処。遠やらいにて内町計人居候。高倉への働き成るべき由申に付、本宮の人数は観音堂へ打上、見合次第に高倉へ助合べく候。大田の原に備を立候。我等も高倉へ助合べきと高倉海道山の下に備を立候。敵五十騎余にて三筋に押通候間、高倉に籠候衆本宮は御不人数候間、人数を是より出し抱とめ見申度と申候。成間敷と申され候衆も候処に、富塚近江・伊藤肥前、縦押込まれ候とも本宮へ通候敵の人数留り申すべく候者吉からぬ由申され、人数を出し押込候間、小口へ追入られ二三十人打取られ候。敵勢多候故前田沢へ押候人数は観音堂より出候衆と戦、荒井を押候人数は我等と合戦仕候。下部山内記我等備の向に少髙山之候へ乗上見候へば、白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐三人の指物見え候て、馬上六七十騎、足軽百五十計にて本宮之方より高倉の方へ参候。其跡に大人数参候。敵とは存ぜず候へども敵と味方とのさかいの様に見え、其間一町余隔申間不審に存候へば、其間にて鉄炮一つうち申候。扨は敵に候と存乗通山の上より敵是迄参候。小旗をさせと呼候間、いずれも小旗をさし相待候処へ、若狭、壱岐・伊豆、我等マトイを逃通御旗本へ参られ候。観音堂より出入人数太田の原へ備候処に、敵大軍故こたへ候事成らず。観音堂を追下られ、御旗本迄逃懸り候。茂庭左月始百余人打死仕候。左月験は取られず、伊達元安、同美濃守、同上野、同彦九郎、原田左馬助、片倉小十郎防戦候間大敗軍は之無く候。我等備は味方一人も崩れず、左は大門にて七町余敵の後に成候。下部山内記我等に馬を乗懸馬上より我等小旗を抜、観音堂の衆崩れ押切られ候間、早々除候へと申候て小旗を中間に渡候。我等十八歳にて何の見当も之無き候へども、罷除候ても討たれるべく候。爰にて討じにと存候て備を崩さぬ処に、敵勢、若狭、壱岐、伊豆を追立山の下迄参候間、我等人数を懸候間敵相除候処に伊庭遠江七十三に成大功之者真先に乗入敵二人に物付仕、一人家中に頭をとらせ、山の南以下五町計橋瓜迄追付候処に、敵橋にて返し又味方やまへ追上られ候。羽田右馬助敵味方の境を乗分、馬を立廻し立廻し静に上させ候処に、鑓持壹人進出右馬助をつばづし前へ走懸候を、右馬助一太刀に切落、右馬助も家中一人討取られ引除候。鉄炮大将萱場源兵衛、牛坂左近、敵の真中へ乗入馬上二騎物付仕候へども具足の上にて通らず、敵除口に成又橋本迄追下候。北新助馬をたて候処へ歩行の者走り出、新助馬をつつき候間、新助も引除候故味方除口に成候処に、伊庭遠江後殿を致取て返し返し味方に遠ざかり候。老後にて目見え申さず候とて申を其日は着申さず候。敵乗懸あたまを二太刀切られ、叶わず候て引除候間、味方又本所へ押付られ候。然処に観音堂も物別仕候間、此間の敵も引上候。我等も押添はず、人数を打廻し物別仕候。観音堂は誰々如何様に仕候も存ぜぬ候。遠江は罷帰相果申候。不思議の仕合にて一芝も取られず、観音堂同前に物別仕候。合戦の様子細々に書かず候。粗書記候。其後観音堂へ敵備を上、高倉海道川切に備を直し候間、一戦之有るべきかと存候処に、政宗公御備五六町程隔り候故か、何事無打上られ候。此方の人数も少に候故押添ず候。彼下部山内記は本輝宗公御近御奉公申候。相馬御弓矢の砌は鉄炮大将仰付られ覚を仕候。其比御勘当にて我等を頼備に居申候。其日も味方後候時は馬を乗廻し味方を助最前に敵の中へ乗入、両度物付を仕比類無きかせぎ仕候。

語句・地名など

下部山内記→下郡山内記

現代語訳

一、霜月(11月)10日ごろ、佐竹義重公・会津義広公・岩城常隆公・石川昭光公・石河義近公申し合わせて須賀川へ出陣され、安積方面の伊達に味方している城々をお攻めになり、中村という城を攻め落とされた。この話が小浜に伝わったので、政宗公は岩角に出陣なされ、高倉へは富塚近江・桑折摂津守・伊藤肥前に旗本鉄砲衆を300挺を付けて籠城させなさった。
本宮城へは瀨上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛を籠もらせなさった。玉ノ井の城へは白石若狭を籠もらせなさった。私は二本松が敵の城であるので、八丁目の支城である渋川という城にさしおかれたところ、小浜に在陣している衆が人が少ないため、早く来るようにと書状を下されたので、渋川に手勢の半分を残し、塩松へまわり、小浜へ参ったところ、すぐに出馬することになった。小浜に手勢を置くことができなかったので、私の手勢を残すようにといわれたので、青木備前・内馬場日向と、騎兵を30騎程のこして岩角へ参上し、御目見得したところ、前沢兵部も心替えし、会津へ寝返ったので、明日は高倉か本宮へ攻めかかるだろうから、成実は先へ通れということを仰ったので、糠沢というところにその日は在陣した。
この前沢兵部は元々二本松の畠山義継に使えていた者だが、義継が死んだころから伊達へ来ていたのだが、また佐竹義重が出陣したと聞いて、佐竹へ寝返ったのである。
11月16日敵は前田沢の南の原に野陣を構えた。きっと高倉へ戦をしかけるであろうということが伝わったので、政宗も岩角から本宮へお移りになった。この頃は現在町になっているところは畑であり、一人もいなかったところに、小川が流れていたところであった。遠矢来の内にだけ町があり、人がいた。
高倉への戦闘があるであろうということだったので、本宮の手勢は観音堂へのぼらせ、様子次第では高倉へ援軍に行くようにと、大田原に備えを立てた。私も高倉へ援軍に向かうように、高倉街道の山の下に備えを立てた。
50騎余りの敵が三筋に分かれて押し通ろうとしたので、高倉に籠もった衆は本宮は人がいないため、手勢をこちらから出し、食い止めたいとした。いや無理だと行った衆も居たのだが、富塚近江・伊東肥前はたとえ押し込まれたとしても、本宮へ行く敵の軍勢を留めたいと言ったのを、良くないといって、手勢を出し、押し込めていたので、虎口へ押し入られ、2,30人打ち取られました。
敵は多かったので、前田沢へきた軍勢は観音堂から出陣した衆と戦い、荒井を攻めた軍勢は私と合戦となった。
下郡山内記という者が、私の備えの向かいにある小さな山のところへ乗り上げ、軍を見たところ、白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐の三人の旗指物が見えて、馬上6,70騎、足軽150ばかりとなって、本宮の方から高倉の方へと来た。その後ろに大軍勢が来た。
内記は敵とは思わなかったが、敵と味方との境のように見え、その間は一町あまり空いているのを不審に思ったので、その間に鉄砲をひとつ打った。さては敵であるのかと思い、山の上から「敵はここまできているぞ。小旗をさせ」と呼んだので、みな小旗をさして、待っていた。そこへ若狭・壱岐・伊豆は私の備えを逃げとおり、政宗の側へ参上した。
観音堂より出てきた軍勢は太田原で備えていたところに、敵は大軍であったので、堪えることができなかった。
観音堂を攻められ、旗本まで逃げそうになっていた。茂庭左月を始め100人以上が討ち死にした。左月の首は取られることなかった。伊達(亘理)元安・亘理美濃守・留守政景・原田左馬助・片倉小十郎らが防戦したため、大敗にはならなかった。私の備えは一人も崩れず、左は大門で7町あまり敵の後ろになっていた。下郡山内記は私に馬を乗り掛け、馬上から私の小旗を抜き取り、「観音堂の衆は崩れ押しきられていすので、すぐに退却しなさい」と言って、小旗を中間に渡した。
私は18歳で、何の見込みもなかったのだけれども、もし退却したところで、討たれるであろう。ここで討ち死にすると思い、備えを崩さずにいたところ、敵勢は若狭・壱岐・伊豆を追い立てて、山の下まで来たので、私は手勢を仕掛たので、敵は退却したところに、伊庭野遠江という73歳になる素晴らしい功績を持った者が、真っ先に乗りかかり、二人の敵に取り付き、一人を家中の者に首をとらせ、山の南を5町ほど橋爪まで追い回したところ、敵は橋から押し返し、また味方は山から押し上げられた。
羽田右馬助は敵と味方の境を乗り分け、馬を何度もたちまわしてくずれないようにと乗り回していたところに、槍持がひとり進み出て、右馬助に取りかかろうと前へ走ってきたのを、右馬助は一刀両断し、右馬助も家来を一人打ち取られ、退いた。
鉄砲大将の萱場源兵衛と牛坂左近は敵の真ん中へ乗り入れ、騎兵二人へ取りかかったのだが、具足の上であったので通らず、敵の退却口になる橋本まで追いかけ退かせた。北新助は馬をかけさせたところへ足軽が走り出て新助の馬をつついたため、新助も退いた。味方の退却口となっているところに、伊庭野遠江は殿をして取って返しとって返ししているうちに、味方から遠ざかってしまった。老いていたため、目が見えないからと言って、その日は甲冑を着けずにいた。敵がのりかけ、頭をふた太刀きられ、退却したので、味方はまた元のところへ戻ってきた。
そうこうしているうちに観音堂の戦も物別れになったので、このあたりの敵も引き上げた。私も追い掛けることなく、手勢をうちまわして物別れとなった。
観音堂はだれがどうなったかもわからなかった。伊庭野遠江は陣に帰って死んだ。
合戦の様子は詳しくは書きません。ざっと記しました。
その後敵は観音堂へ備えを押し上げ、高倉街道の川が切れているところに備えを移したので、また一戦あるだろうかと思っていたところに、政宗の陣からは5,6町ほど隔たっていたためか、何事も無く終わった。こちらの手勢も少なくなっていたので、攻めることはしなかった。
この下郡山内記はもともと輝宗公の近くにお仕えしていた者で、相馬との戦のころには鉄砲大将を務めていたと覚えている。このころ政宗から勘当されていたところ、私の備えにいたのです。
その日も味方が遅れたときは馬を乗り回し、味方を助け、真っ先に敵陣へ乗りかけ、二度も首をとらせ、比べるもののない働きを致しました。

感想

後に人取橋合戦と言われるようになる、本宮合戦の様子の記述です。伊達軍が大変苦労している有様が書かれています。
成実軍も苦戦し、伊庭野遠江の死に様など、おもしろい記述が続いていますが、いきなり「合戦の様子細々に書かず候。粗書記候。」となっているところに驚きます。
いや、そこかけよ!(笑)てなりますよね。
木村宇右衛門覚書では、この戦で政宗が馬ごと川に落ち、打ちかけられ困っていたところ、成実が現れて馬を助け出し、政宗を助けたことが書いてありますが、それがこの詳しくかかなかった部分なのか、それとも政宗が語ったこのエピソード自体が作り話なのか、わかりませんが、成実の記録には全く残っていません。
せっかく書いているんだから詳しく書いてよ!と思いますが(笑)。