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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』19:合戦の褒賞

19:合戦の褒賞

原文

一 十七日晩は政宗公も岩津野へ引上られ候。夜半比山路淡路御つかひとして御自筆の御書下され候。今日敵の後にて合戦仕敗北仕らず候事聞召され、伝へたることもなく不思議の様子是非に及ばず候。一身の働にて大勢のものども相助候。定て家中手負死人数多之有るべき由。明日は本宮へ近陣の由きこしめされ候間、大儀ながら本宮へ入申さるべく候。誰も余人これなく候間仰付られ候。伊達上野をも相添らる、の由御文言に候。淡路申され候は、今日身方にはなれ申候衆二人敵に紛居候処に明日は本宮を近陣成られ、二本松籠城の衆を引除かれるべき由承候。日くれ候て敵陣を逃去参候而申上候付仰付られ候。本宮は籠城成されるべく候間、其支度申すべき由申され候へども、俄事にて心懸も罷ならず。十八日未明に本宮へ入候処に働参らず候。物見せ遣候かと承候へば、夜の内より付置申候由申され候。火手見え候間陣移かと存候へば、物見早馬にて参候。佐竹、会津、岩城衆引除かれ候。結句前田沢も引除候由申候間、前田沢へ人をつかはし見せ候へば、一人も残らず引上候に付、政宗公本みやへ御移なされ御仕置仰付られ候。御前に数多居候処にて、浜田伊豆昨日の合戦に中村八郎右衛門比類無きはたらき仕候。彼者故味方五十も六十もたすかり候由申され、其時八郎右衛門何も御意之無に刀を抜敵二十騎切落候由申悉打指候を御覧成られ、御加増成らるべき由御意にて、塩の松にて知行下され候。若又此上にも働計難き由御意にて、岩津野に両日御座成られ候へども、何事なく候間小浜へ御帰馬成られ御越年候。

語句・地名など

現代語訳

一、17日の晩は、政宗公も岩角へ引上られました。夜中に山路淡路を使いとして、自筆で書かれた書状を下さいました。今日、敵の後ろで合戦し、敗北しなかったことをお聞きになり、伝えることもなく想像のつかない様子は仕方のない事である。ひとりの働きで、大勢の者たちが助かったのです。きっと家中には怪我を負った者、死んだ者、数多くいるでしょう。明日は本宮へ近陣するであろうことをお聞きになったので、大変なことですが、本宮へ入って下さい。留守政景も添えて、との文面であった。淡路は「今日味方から離れた二人敵に紛れていたところ、明日は本宮に近陣し、二本松の籠城の衆を退却させようということを承ったと言った。
日暮れになって、敵陣から逃げ去り、こちらに来て、そう申し上げたので、仰せられました。本宮は籠城なされるので、其の仕度をするように言ったのですが、急のことなので、こころがけもできなかった。
18日未明に本宮へ入ったが、働きはなかった。物見をつかわしたかと聞いたところ、夜の間から付けていたと言われた。火の手が見えたので、陣を移したのかと思い、物見が早馬でこちらに来た。佐竹・会津・岩城衆は退却したのであった。結局前田沢も退却したと言ったので、前田沢へ人を遣わし見に行かせたところ、一人も残らず退却していたので、政宗公は本宮へお移りになり、仕置をなさった。
政宗の御前に人が沢山集まり、浜田伊豆は「昨日の合戦に中村八郎右衛門が比類無きはたらきをした。この者のおかげで味方は50も60も助かった」と言った。そのとき八郎右衛門は何も命令がなかったので、刀を抜き敵20騎を切り落とし、ことごとくうち刺したことを政宗は御覧になり、加増するべきであると思われ、塩松にて知行を与えられた。
もしまたこれ以上の戦がが怒るかもしれないとお思いになり、岩角に二日折られたのですが、なにごとも無かったため、小浜へお帰りなされ、年を越されました。

感想

17日深夜に行われた、人取橋合戦こと本宮合戦での働きへの政宗の賛美について書かれています。
成実はこの戦の功労として感状を賜り、おそらくですが、留守政景ももらったのではないかと文中から推測されます。
中村八郎右衛門という人も比類無き戦いぶりをし、知行を賜った話が載っています。
そして夜が明けると敵が消えていた…という所です。勝利とは言えないですが、「不思議の様子」なんでしょうねえ。