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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』21:二本松衆の内応

21:二本松衆の内応

原文

一 同年二月二本松の三ノ輪玄蕃、氏家新兵衛、遊佐丹波、同下総、堀江越中所より政宗公へ三之輪屋敷御人数御入候。地形も能候間御勢遣わさるべく候。二本松を取らせ、申すべき由申し上げ、人質を指上申候條御人数を夜中に遣わされ候処に、右四人の屋敷は城下にて候間、三之輪屋敷へ引除候。旁大勢取籠候間鑓を取廻し様も之無く候。くりがさくと申所は堅固持候。玄蕃屋敷は本丸よりくりが作との間にて候。越中従明方に玄蕃屋敷へ取懸候間、こらへ兼本江計にて罷り成らず。屏を押破引除候間難所へ行懸、男女数多踏殺申候。

語句・地名など

三ノ輪→箕輪

現代語訳

一、同天正14年2月の三ノ輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・遊佐下総・堀江越中の所から、政宗公へ三ノ輪屋敷へ手勢をいれ、地形も良いので、軍勢を遣わせるようと内応の連絡があった。
二歩末を取らせるよう申上、人質を差し上げたので、軍勢を夜中に遣わされるところ、前述の四人の屋敷は城下であったので、三ノ輪屋敷へ引き込ませた。それぞれ大勢が籠もったので、鑓を取り回すこともできはい程であった。栗が作というところは堅く守っていたが、三ノ輪玄蕃の屋敷は本丸から栗が作との間にあった。堀江越中から明け方に現場や指揮へ取りかかったおで、こらえかね退き、城を落とすことはならなかった。屏を押し破り退いたので難所へかかり、男も女も多く踏み殺されました。

感想

二本松衆の内通についてです。
退却の際、踏み殺された男女は『政宗記』では4,50人と記されています。