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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』22:二本松開城

22:二本松開城

原文

一 政宗公少々御機合然る無く候に付、二本松への御合戦相延、四月始に御働候。近陣成られ候事。去年のごとく佐竹、会津、岩城より御出馬候はば城を巻ほぐし候事如何と思召され、北南東より五日御働成られ候へども内より一人も出ず候。やらいかかりなど二三度成られ候までにて候間、指而御働成られず候。小浜へ御入馬候。然処に相馬義胤より実元を頼候故、煩にて候へども小浜へ参り御無事取扱申候。二本松籠城相除候様にとの事計にて、同七月十六日本丸計自焼に仕会津へ引除候。地下人は思々に相除候。我等に城請取申すべき由仰付られ、其日に罷越本丸に仮屋を仕候。政宗公七月廿六日御出、御覧成られ、候て日がへりに成られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、政宗公が少々体調を悪くしていたので、二本松への合戦は延期となり、4月初めに戦をなさった。近陣なされたが、去年のように佐竹・会津・岩城から敵が来れば、城を落とすことがどうなるだろうかと思われ、北・南・東から5日戦闘を仕掛けたけれども、城の中から一人も出てきませんでした。やらい攻めは2,3度行った程度でありましたが、さしたる活動をすることができなかったので、小浜へお入りになられました。
そうしている内に、相馬義胤から実元を頼み、和議を持ち込んできたので、実元は病気であったのですが、小浜へ来て、無事和議を取り付け致しました。
二本松の籠城衆は退却するようにとのことであったので、7月16日本丸だけ自ら火を付け、会津へ退却しました。身分の低い者たちはそれぞれに退きました。
政宗は私に城の受取をするようにと仰ったので、渋川からその日に来て、本丸に仮屋を建てました。
政宗公は7月26日にお越しになり、城を御覧になられ、小浜へ日帰りなされました。

感想

二本松城攻めの話です。
戦をいくらしかけても反応がなかったことから、もうすでに主力はいなくなっていたのかもしれません。
相馬義胤と実元の働きで、二本松城は籠城衆を外に出すことで開城することになりました。