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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』25:大崎の内紛

25:大崎の内紛

原文

一 天正十四年二本松、塩の松御弓矢落居の上、八月米沢へ御納馬成られ候処に、大崎義隆家中二つに分候て政宗公へ申寄候。根本は其比大崎義隆に奉公の小姓、新田刑部少輔と申者之事外出頭仕候。然処に如何様の表裏も候哉。本の様にも之無く候。さりながら相隔られ候儀は之無く候。其後伊場惣八郎と申者近召出され候に付、刑部少輔恐怖を持候。親類多者にて其一類恐怖仕候。然間惣八郎存候ば、我等一人ものにて候間、頼所之無き由存候而岩出山城主氏家弾正と申ものを力に仕度由存、弾正所へ存分之通申理に付、弾正合点引立べき由誓約仕候。さるに依て刑部少輔親類の者ども存候は、氏家取持を心迷惑仕るべく候條、大崎伊達は境論にて御中然無く候條、政宗公へ申寄御加勢を申請、氏家一党惣八郎打果し、義隆にも腹を切せ申すべき所存に候間、其由政宗公へ申上に付御合点成られ、何時成共申上げ次第に御人数を遣わさるべき由仰合わされ候。然ども其比迄義隆に刑部少は奉公仕。名生城にまかり有。然る処に氏家弾正、義隆へ御異見申候は、刑部少故一類の者迄逆意を企政宗公へ申寄候間刑部少に切腹仰付られ候歟。籠舎成られ然るべき由申上候。義隆仰せられ候は、申所尤に思食られ候へども、仇より召仕はれ候ものに候間、其身の在所新田へ送りなさるべきの由仰られ候。各然るべからざる由申候へども、頻りに御意候間是非に及ばず候。義隆、刑部少に仰られ候は、其方一類ども逆意を企候間、其身迄も口惜く思召られ候條、内々切腹仰付らるべく候へども、仇より召仕はれ候間相介られ候。早々新田へ罷越すべき由仰付られ候。刑部少申上候は、御意忝候へども傍輩ども残なく某をにくみ申候間、御本丸を罷出候はば御意に背き候者の由申候て、則討れ申すべく候間、憚多申事に候へども、唯今迄召遣され候御芳恩に中途迄召連られ下され候はば、忝存じ奉る由申上候に付て義隆尤に思召。左様に候はば伏見まで召連相放たれるべく候間御供仕候へと仰せられ候間、御馬二匹御庭へ呼せられ、一匹は義隆、一匹は刑部少御乗せ召連られ候。刑部少が家中の者究竟のもの共二三十人御座候。刑部少は指置、義隆御馬の口を取り、御跡先に付、御供之衆無用之由申候へば、早事を仕出左右に見え候間、力及ばず伏見迄御越、早従是新田へ参候へと仰られ候へば、刑部少は一人も参るべきと存候処に、家中のものども是非新田迄召連られ下さるべき由申候。是非御供申すべき由申候て異儀申され候はば、御供の衆も候はば義隆を討奉るべき気色に候間、是非に及ばず新田迄御越候処に、名生へも返し申さず。新田に留置候。刑部少一党のもの共根塚の城主黒見紀伊守、谷地守の城主森主膳、米沢備前、米泉権右衛門、宮崎民部少、高清水城主弾正、百々城主左京亮、中目兵庫、飯川大隅、黒沢治部少、是は義隆舅にて候。此者ども右は逆心を企政宗公頼入、御威勢を以氏家一党伊場惣八郎打果、義隆にも腹ををきらせ申すべき所存にて候処に、存之外義隆を生捕申、新田に指置申候間、何も心替伊達を相捨義隆を守立、氏家伊場野を退治仕るべき存分出来候て、彼面々義隆へ申上候は、刑部少一類余多申合義隆を取立申にをいては、累代の主君と云誰か疎かに存ずべく候。氏家弾正一人御退治成られ候へば、大崎中は思召の如くになす之由申上候。義隆御所存には彼者ども逆意をくはだて伊達を頼入由聞召之時分は、氏家一人御奉公を存寄、御腹の御供仕るべき由申上候。弾正の御退治ならるるべき儀は之無き由思召候へども、新田に押留訴訟申候間、力及ばず尤の由仰せられ候。

語句・地名など

新田→新井田

現代語訳

一、天正14年二本松・塩松を手に入れたあと、8月米沢へお帰りになられたところに大崎義隆の家中が二つに分かれて政宗へ近寄ってきた。
その原因はなにかというと、その頃大崎義隆に奉公している新田刑部少輔という者が非常に寵愛を受けていた。しかしどんな裏があったのだろうか、元のようには戻れなかったのだった。しかしながら、距離はもとのままでした。
その後、伊場惣八郎という者を近く使われるようになり、刑部は恐怖を抱くようになり、親戚が多い者であったので、みな一同恐怖を抱くようになりました。
伊場惣八郎は私は一人であるので、頼むところがないので、岩出山城主氏家弾正という人を頼りにしようと思い、弾正のところへ思っていることを告げると、氏家弾正は引き立てることを約束したのである。
このため、新田刑部の親類の者たちは氏家弾正が取り持ちするのであれば、大変困るだろうとなった。大崎と伊達は境目であったので、仲が悪かったため、政宗公へ近づき、加勢を頼み、氏家一党を惣八郎と共に討ち果たし、義隆にも腹をきらせようという考えを持っていた。そのことを政宗公に申し上げ、政宗は合意し、いつであっても連絡次第で手勢を送ることを約束なさいました。
しかしその頃まで新田刑部は義隆に奉公しており、名生の城に居た。そうしているうちに、氏家弾正が義隆に意見したことには、刑部のことが理由で、親類の者まで裏切りを企て、政宗公へ内通したということで、新田刑部に切腹を命令されてはどうだろうか。牢屋に押し込めて然るべきではないかと申し上げた。
義隆は「お前が言うことはもっともではあるが、かたきであったころより召し使ってきた者であるので、かれの在所である新田へ送るのがよいだろう」と仰った。
家臣たちはそれぞれそうするのはよくないという事を申し上げたが、義隆は頻りにそのことを主張したので、仕方ないことであった。義隆は新田刑部に「お前の親族たちが内通を企てているので、お前の身までも口惜しいことになった」「すぐに新田へかえれ」ということを言いつけられた。
新田刑部は「お心はかたじけなく思いますが、同僚たちも一人残らず私を憎んでいるので、本丸を出たら、お心に背くものがおり、すぐに私は討たれるでしょう。大変申し訳ないことではありますが、今まで召し使ってくださった恩の代わりに、途中まで連れていってくださるのでしたら、かたじけなく思います」と言ったので、義隆はもっともに思い、そう言うのであれば、伏見まで連れて行き、解放してやるので、供をせよと仰ったので、馬を二匹庭へお呼びになり、一匹は義隆を、もう一匹は刑部を乗せて、連れられて行った。
刑部の家臣の者で、非常に強い者たちが2,30人いた。刑部はさしおき、義隆の馬の口を取り、義隆の御供のものたちは無用であるといい、急いで左右を取り囲んだ。力及ばず、伏見まで行かれた。急ぎ新田へと行こうとおっしゃったおで、刑部は家来に向かい、一人来る必要はないと思っていたが、家中の者は是非新田までお連れになってくださらないかと行った。供しようと言ったが、異義を申したならば、供の衆もどうかといえば、義隆を討ち果たそうという様子になったので、仕方なく新田まで連れて行かれ、名生へは返さず、新田に留め置いた。
刑部少輔一党のものは、根塚の城主黒見紀伊守・谷地守の城主森主膳・米沢備前・米泉権右衛門・宮崎民部少輔・高清水城主弾正・百々城主左京亮・中目兵庫・飯川大隅・義隆舅の黒田治部少輔であった。この者たちは裏切りを企み、政宗公へ頼みより、政宗の威光で、氏家一党と伊場惣八郎をうち果たし、義隆にも腹を切らせようと思っていたところに、予想外に義隆を生け捕りし、新田につれていかれたので、みな心を変えて、伊達を捨て、義隆を守り、氏家は伊場を退治する気持ちになり、この面々は義隆に対し「刑部少輔の一党は多くが義隆を取り立てなさるのであれば、累代の主君であり、誰が疎かにすることでありましょう。氏家弾正一人を退治なされましたら、大崎領内は思うとおりになることでしょう」と申し上げた。義隆はこの者たちが裏切りを企て、伊達へ頼み入ることを聞いていた頃は、氏家ひとりが奉公をし、切腹の御供をするだろうと思っていたと言った。弾正の退治をする事はないと思っておられたが、新田におしとどめられ、訴えられたので、力及ばずもっともであると仰った。

感想

さて話は変わり、大崎義隆家中の出来事になります。近習の中で争いが起き、家中を二つに割る争いが起こりました。伊達に頼ったり、また心変えをしたり。複雑怪奇な事件です。