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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』39:氏家弾正の死

『伊達日記』39:氏家弾正の死

原文

一氏家弾正親三河、子共にも違大崎義隆へ奉公仕、名生の城に居候。城をいだき義隆へ奉公仕候。政宗、弾正にも御疑心の間度々起證文を上異義無き由申上候。聞召届けられ候故、御横目に小成田惣右衛門を申請候処に弾正病死仕られ候。岩出山の城主同前に小成田申付られ候処に、関白秀吉公小田原へ御発向、大崎、葛西を木村伊勢守拝領仕られ候間、小成田も罷帰候。

語句・地名など

現代語訳

一、氏家弾正の親、氏家三河も弾正と不和になり、大崎義隆へ奉公していた。名生の城に居た。城を大事に思い、義隆へ奉公していた。
政宗は、弾正にも疑いの心を持っていたので、何度も起請文を上げさせ、納得するよう申し上げた。お聞きになったが、目付として、小成田惣右衛門重長をおつかわしになったところに、弾正が病死したため、岩出山の城主として小成田惣右衛門が命令を受けたのだが、関白秀吉公が小田原へ出陣し、大崎・葛西を木村伊勢守が拝領したため、小成田も戻った。

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