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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』43:高玉太郎左衛門の戦い

『伊達日記』43:高玉太郎左衛門の戦い

原文

天正十六年三月一二三日頃我等抱の地玉の井高玉より山ぎはに付て西原と申候。四五里玉の井よりへだたり候所へはいくまを越候処に。玉の井の者ども無調儀に遠追候間。又草を入罷出候を見申候て押切を置討取たくみを仕。三月廿三日に玉の井近所に高玉に山路御座候。矢沢と申処へ草を仕るべき由相談候。其砌迄は大内片平御奉公には究候へども。味方への事切は申されず候時に候間。片平阿子島の人数高玉へ廿二の晩相談候。兼て敵地に申合。草入候はば告申すべき由候に付而指置候者。廿二日晩本宮へ参り候而今夜玉の井へ草入候由告申に付て。我等もまかり出本宮玉の井人数を以て廿三日朝車さかしを申候処に草も参らぬよし。いつはりに候哉と申引除候処に。昼はいに二三十人玉の井近辺迄まいり候間出合候。二三十の者ども引上候間。たいと渡と申所にて追付合戦仕候。前日遠は出申候にならい。矢沢の小森のかけに人数二百ほど隠れ。押切にあてがい申合戦初申候所より引懸申すべき由存候哉。敵そろそろと除口に成候。玉の井の者共敵の足とあしく存候而強懸候間。敵崩候間足並を出し除候。押切のもの共待兼候而早出候間。切られず候へども味方崩。合戦の初には川柳押付られ候間二三人打たれ候処に。味方川にて相返高玉太郎左右衛門両陣間を乗候処に。志賀三郎と申もの我等歩小姓兼て鉄炮を能うち申候が。川柳に鉄炮を打かけ相待候処に。太郎左衛門小川を隔横に乗返候処を二つ玉にて打候間。一の玉は馬の方のもみ合に当。一つの玉は太郎左衛門臑にあたり候。馬倒候間。某に味方きをひかかり候間敵方引除候。太田主膳と申もの大功の者後殿を仕候間敵もくずれ申さず候が。小坂迄乗上候処を三郎上矢に打候間。鞍の後輪を打欠犬子所へ打出候。主膳うつむきに成其身の小旗を抜き弟采女にささせ。我等除候はば必大崩申すべく候間。我等に成かはり後殿仕物別させ候へと申付。引除候而頓而越度申。此草調儀は高玉太郎左衛門。太田主膳物主にて仕候間。両人除候間則崩追討に首百五拾三取申候。大勢打申べく候へども山合にて地形あしくちりぢりに逃申候條少打申候。其夜宿へ帰らぬ者も候由後承候。右の頭の鼻を欠米沢へ上申候。

語句・地名など

現代語訳

天正16年3月12,3日ごろ、私が支配していた玉の井、高玉より山際に西原というところがあった。そこは玉の井から4,5里離れていたのだが、はいくまを越えたところに、玉の井の者太刀は調儀することなく、遠くへ追いすぎたので、また草を入れ、出てきたのを見て、高玉の者たちは押し切りを置き、打ち取ろうと企んだ。
3月23日に玉の井の近くに高玉への山道に、矢沢という所に草を入れることを相談した。その頃までには大内・片平の内応は決まっていたのだけれど、味方への手切れはしていなかったので、片平・安子ヶ島の手勢で高玉へ、22日の夜に評定を行った。かねてから敵地であったので、草を入れたとしたら、知らせを送るだろうから、差し置いた者が22日の夜本宮へ来て、告げたので、私も出陣して、本宮・玉の井の手勢を以て、23日朝車さかしをしたところ、草も来なかった。情報が間違っていたのかと思い、戻ったところ、昼過ぎに、2,30人玉の井の近辺まで敵が出てきたので、私たちも出た。2,30の者太刀は引き上げたので、たいと渡という所で追い付き、合戦になった。
遠く出たのに倣って、矢沢の小森の陰に200人ほどの一が隠れていて、押し切りに見せかけ合戦始まったところから、引き返すべきかと思ったのだろうか。敵はそろそろと退却を始めた。
玉の井の者たちは敵の足と間違えて強いて追い掛けたので、敵は崩れ、足並みを外れ、退いた。押し切りの者たちは待ちかねて早く出た。切られはしなかったけれども味方は崩れた。合戦の初めには川柳まで押しつけられたので、2,3人打たれたところに、味方側に返し、高玉太郎左衛門が両陣の間を乗ってきたところに、志賀三郎という鉄炮に優れた私の徒小姓が川柳に鉄炮を打ち掛けようと、待ちぶせところ、高玉太郎左衛門が小川を隔てて横に乗り換えしたところを、2つの玉を当てた。1つは馬の肩のもみ合いにあたり、もう一つの玉は太郎左衛門の臑にあたった。馬は倒れたので、味方は活気づいて盛りかえしたので、敵は退却を始めた。太田主膳と言う名の知れた対称が殿を務めたので、敵も崩れずに居たのだが、小坂まできて乗り上げていたところ、三郎がもう一度上に向けて撃つと、馬の鞍の後輪をうちかけ、犬子の所へうちだされ、主膳はうつむきになってそのみの小旗を抜いて弟の采女にささせ、私がいなければ必ず大崩れするであろうから、私に成り代わって殿を行い、戦を終わらせよと言い、退却させた様子はとてもよかったと人は話した。
この草調儀は高玉太郎左衛門と太田主膳が仕組んだ者であり、二人とも居なくなったので、すぐに崩れ追いかけて討つと首153取った。大勢打ち取れるような状況であったが、山間であって、地形がよくなく、ちりぢりに逃げ出したので、多くは撮れなかった。其の夜宿へ帰れなかった者もいたことを後で聞いた。このとき打ち取った頭の鼻を削って米沢へお送りした。

感想

いつも強引に訳していますが、今回ははいくま・昼這い・たいと渡・犬子など、意味がとれない言葉が多くて、うまく訳せなくて申し訳ございません。『政宗記』でもここは出てくるのですが、不明としている語がいくつかあります。難しい…。
『政宗記』では2つの弾丸は、1つは高玉太郎左衛門の腰に、1つは馬の肩のねりあいという場所にあたったと記されています。