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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』44:定綱の御目見得

『伊達日記』44:定綱の御目見得

原文

同年三月廿三日玉の井の合戦過帰候処に。大内備前。片平助右衛門罷出られ候を相待べき由申され候。片倉小十郎二本松に逗留申され候処に。かち内弾正申大内備前甥。小十郎所へまいり候而。備前今夜本宮へ参られ候。明日は助右衛門事切申すべき由申に付。小十郎同心本宮へ罷越。備前に六日の朝会申候所に備前申され候は。助右衛門も御奉公仕るべき由堅申合候処に。少の儀出来兄弟間に罷成。我等に腹を切らすべき由申に付而漸罷除候而参候由申候。惣別助右衛門は御奉公仕間敷覚悟にて候て。備前身上の為ばかりを以御奉公とは申され候哉。大内参られ候上は助右衛門も御奉公仕られ候か。唯には在間じく候。兄弟の分別ちがいに候小十郎と両人の噂を申候。大内罷出られ候に。無人数成共一働申さず候而は如何に候間。阿子島へ働申候へども内より一人も罷出ず候。此方よりも仕るべき様之無く引上。翌日又働申候処に。塩の松の内に居候石川弾正相馬へ注進仕。白石の知行の内へ事切れ仕火の手見へ候間。白石はかへり申され候。我等小十郎ばかり働き候へども何事なく打上候。小十郎は八日に大森へかへり申され候。備前米沢へまいり御目見え申度由申され候條。我等家中遠藤駿河と申者指添米沢へ相登らせしめ候。

語句・地名など

現代語訳

同天正16年3月23日玉の井の合戦が終わり、帰ってきたところに、大内備前定綱と片平助右衛門親綱がくるのを待つようにといわれたので、片倉小十郎景綱が二本松に逗留していたところ、鍛冶内弾正という、定綱の甥が、小十郎の所へやってきて、定綱は今夜本宮へ来る。明日は親綱が会津と手切れをすると言ったので、小十郎を連れて本宮へ行きました。6日の朝定綱に会ったときに定綱が言うには「親綱も内応することは堅く約束していたのだが、少し兄弟の間で問答になった。私に腹を切らせようと言った野で、急いで逃げてきたのですと言った。親綱は内応しない覚悟で、定綱の身だけを以て奉公すると言った野でしょうか。定綱が来たのですから、親綱も奉公することでしょう。ただ今はできないと言った。兄弟の考えの違いについて、小十郎と二人の噂を話した。
定綱が出てくるのに、手勢がないとしても、一働きもしないのはどうだろうかと思ったので、安子ヶ島へ働いたのだが、うちからひとりも出てこなかった。こちらからするべきことがなくなったので、引き上げた。
翌日また出陣したところ、塩松のうちに居た石川弾正が相馬へ知らせた。白石の領地のうちへ戦闘を仕掛け、火の手が上がった様子だったので、白石宗実は帰った。私と小十郎だけが動いたけれども、何事も無く、切り上げた。小十郎は8日に大森へ帰った。定綱は米沢へ来て、御目見得したいと言ったので私の家臣の遠藤駿河という者を付けて米沢へ行かせた。

感想

定綱と親綱の間に兄弟で問答になり、まず定綱が伊達に奉公するようになりました。