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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』48:月斎・刑部少輔の訴え

『伊達日記』48:月斎・刑部少輔の訴え

原文

一田村衆相馬へ申合られ候衆も。尤伊達へ御奉公の衆も石川弾正逆心仕候間。政宗公御出馬成られるべき義存ぜられ候へども。一切其沙汰之無きに付。月斎。橋本刑部少。白石若狭を以米沢へ申上られ候は。弾正逆心仕候間則御出馬成られ御退候かと存候に左様にも之無く候。田村は過半相馬へ申合られ候へども政宗公御出馬を機遣仕事切れ申せられず。弾正は義胤を引出申すべきためを以事切仕候間。御出馬成られ下され候様にと申上られ候。石川弾正逆心候間。則御出馬成られるべく候へども。最上の御弓矢に候。いづ方にも境目には大名候へども。長井は最上さかいに小身もの計さしおかれ候間。米沢を明御出馬成られ候事御気遣いに候。其上弾正抱の地一ヶ所も取せられず候て。一働二働の分にて御入馬なされ候事はいかが思召れ候に付而御延引なされ候由御意候。重而月斎。刑部少申上られ候者。左様の御底意を世上にては存ぜず。一切御馬窕申さず候由。田村侍ども存候者残らず相馬へ相付らるべく候。何方の御弓矢も左様に御手ぎはの御座候儀は之無く候間。久敷御在馬成間敷候。一働なされ御入馬候様に申度候。御出馬なく田村の者ども手切仕候はば。我等切腹うたがひなき由しきりに御訴訟申され候に付て。左候はば御出馬候て一調儀成らるるべき由御意にて御陣触仰付られ。大森へ四月十四日御出馬成らる。五日御逗留にて廿日塩の松の内築飯へ相移られ候。石川弾正抱の地築山其身居候。城小手森。彼地は塩の松御手入候砌御加増に下され候城に候。たふめきと申城は相馬の境にて親摂津守居候。小手森は築飯近所に候間小手森へ御働なされ候処。義胤は政宗公御出馬之由聞召。一日前に築山へ御出候。小手森へは石川自身籠候。築山は相馬衆にて抱申候。政宗公小手森の地形を御覧成られるべき由思し召され。北より南へ御通成られ候を。内より鉄炮にて打候へども。召し連れられ候衆は鉄炮一つも御うたせなく御通成られ候。其日は打上られ候。我等は南筋気遣候間二本松へ其夜罷帰候。翌日天気あしく候へども築飯へまいり候へば。御働相止候間罷かへり候。日々参候へども天気あしく御働之無し。廿五日に大森へ御引こもりなされ候。月斎。刑部少おどろき申され候て。白石若狭我等をたのみ申上られ候は。四五日御働成らるるべきと存候処に。天気故とは申ながら一日御働御引こもりなされ候。最上境深御機遣いと見え候由田村のもの共存候はば。伊達をたのみ入候ものども心がはり仕るべく候間。責て大森に御在馬成られ。田村へも長井へも不慮の儀候はば。御早打成らるべき由にて大森に御在馬之由諸人存候様に仕度由申上られ候へば。両人申され分尤に存。若狭同心申大森へ参。原田休雪。守屋守伯。伊藤肥前。片倉小十郎四人衆へ月斎。刑部少申され候通り申候処に。肥前申され候は。御訴訟は尤に候へども。御存知の如く長井には大名一人も之無く候。境今も小身衆計こめをかれ御出馬成られ候。御早打と申ても最上境へは大森より二百里に及候間御用ならず候。当地御在馬如何に存候由申され候。若狭申され候は。田村の様子大形に存られ候哉。月斎。刑部少御奉公存詰られ候計を以先静ならず候分に候。大森を御引籠なされ候はば。両人もたのみなく存分違られ申す義計がたく候由申され候。肥前又申され候は。田村を相抱られ度思召され候ても。長井に急事到来申ては所詮無く候。左候はば以来田村の御抱も罷成らず候間。先本に急事の之無き様に申度由申られ候。小十郎申され候は。是にて問答入ざる事御耳に立御意次第に申せられ。然るべき由にて披露におよび候処に。御意には。尤両人申処拠無く思召られ候。此度は天気故御不手涯に候間。大森へ御引籠成られ尤当地に御在馬成られ。何方へも御早打成らるるべく候間心やすく存らるべき由仰出され候。罷帰若狭を以月斎。刑部に申聞せ候。満足申され候。

語句・地名など

築飯→築館
築山→月山
たふめき→百目木

現代語訳

一、相馬と申し合わせていた田村衆も、伊達へ奉公している者たちも、石川弾正が裏切ったので、政宗が出馬されるだろうと思ったのだが、一切その様子がなかったので、月斎・橋本刑部少輔は白石若狭宗実を介して米沢へ申し上げられた。「弾正が反逆したので、すぐに出馬され、退治なされるかと思っていたのに、そうならず、田村は半分以上が相馬へ傾いているのだけれども、政宗公が出馬されるだろうと思い、手切れにはなっていない。弾正は義胤を引き出すために手切れをしたので、どうかこちらへ出陣くださいますように」と言った。
石川弾正が裏切ったので、すぐに出陣するべきであるけども最上との戦もあり、どちらとも境目には大名を置いているが、長井郡にの最上との境には、小身のものたちばかり置いているので、米沢を空にして出陣したときのことを心配なさっておられるのであった。
そのうえ弾正の土地を一ヶ所も取られないので、多少の働きでお帰りになるのはどう思われたのか、出馬を延期なさった。
月斎・刑部少は再度、「その御本心を世間の者は知りません。一切出馬なされないのであれば、田村の衆は残らず相馬へ付いてしまうでしょう。どこの合戦においてもそのように手際がよいことばかりではありません。長く在馬ができなくとも、一働きされ、お戻りになっていただきたい。出陣なく、田村の者たちが手切れ下ならば、私は切腹させられることは間違いない」と頻りに訴えてきた。
それならばと、出陣して一働きしようとお触れをだし、大森へ4月14日出陣なされた。5日ご滞在され、二〇日に塩の松領内の築館へ移られた。
石川弾正は領地の築山という城に居た。小手森の城は、政宗が塩松を手に入れられたとき、政宗が弾正に加増した城である。百目木という城は相馬との境で、弾正の父摂津守が居る城である。
小手森は築館の側にあるので、小手森へ出陣なさった。
相馬義胤は政宗が出馬されたのを聞き、一日前に築山へでてきた。小手森へは石川弾正自身が立てこもっていた。築山は相馬衆が籠もっていた。
政宗は小手森の地形を御覧になりたいと思われ、北から南へお通りになったところを、内から鉄炮で打たれたのだが、政宗が連れて行った者たちは鉄炮をひとつも打たせにはならず、お通りなさった。その日は打ち上げられた。
私は南方面のことが心配だったので、その夜は二本松に帰った。翌日、天気は悪かったが、築館へ参ったところ、出陣は中止になり、帰った。毎日行ったが、天気がわるく、出陣はなく、25日に大森へお戻りになった。月斎と刑部少輔は驚いて、白石若狭と私を頼って、「4,5日お働きなさると思っていたのに、天気の所為とはいっても、一日だけの出陣でおもどりになっては、最上境のことを深くお気遣いのこととは思いますが、伊達を頼みにしているものたちは心替わりしてしまうことでしょう。せめて大森にご滞在されれば、田村へも長井へも何かがあったときは急いで駆けつけることが出来るので、大森にご滞在くださいとみな思っています」と行った。二人の言うことはもっともであったので、若狭と一緒に大森に行った。原田休雪。守屋守伯意成。伊藤肥前重信。片倉小十郎景綱の四人に、月斎と刑部少輔の言い分をその通りに言ったところ、肥前は「訴えはもっともであるが、御存知のように、長井には大名が一人もおらず、境は今も小身の者たちばかりが詰めている。もし戦になったならば、いくら早く駆けつけたとしても、最上境へは大森から200里もあるので、意味がない。ここに居るのがいいのではないか」と言った。
白石若狭は「皆様は田村の様子を大げさに言っていると思われているのではないですか。月斎と刑部少輔は伊達への奉公を思い詰め、この先大変なことなるのではないでしょうか。大森から退かれるのであれば、二人は頼みもないと思うことでしょう」と言った。また、伊藤肥前は「田村を手に入れたいと思われたとしても、長井に危険なことがおこっては結局どうにもならない。なので、田村の支配も成らないため、まず本領に危険がないようにした方がいいのではないか」と言った。
片倉景綱は「ここで問答していても仕方のない事です。お伝えして、お思い通りになさるのがよいと思われます」と言ったので、そのとおりであると、申し上げたところ、政宗は、二人のいうところはたしかであり、今回は天気のために出陣できないが、大森に引きこもり、ここに在陣し、どの方向へも早駈けできるようにするので、安心するようにと仰せになり、帰る若狭を介して月斎・刑部少輔に知らせた。
二人は満足した。

感想

田村の内部が二分されていたことは前にかかれていますが、さらに相馬へ傾く人間が増えてきたことから危機感を感じた月斎・橋本刑部少輔が訴えを起こしたことがかかれています。
後半の四人の家臣たちの相談しているところもそれぞれの言い分が違っていて、興味深いところです。