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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』55:窪田合戦

『伊達日記』55:窪田合戦

原文

窪田にも外やらい成られ然るべき由にて。窪田の川を外に成られ堀をほり。土手上垣を御ゆわせ候。其やらい番仰付られるべき由にて人数持申され候衆鬮取に仰付られ候。浜田伊豆。富塚近江。原田左馬助。遠藤文七郎。片倉小十郎。白石若狭。我等三人は御前へ罷出ず。後付に鬮を御とらせ候。白石若狭と小十郎一組。文七郎と近江一組。左馬助と伊豆一組。孫七郎と我等一組に候。然る処に小十郎申上られ。鬮取の義に候へども成実と御組合下し申さる由申上られ組を替候間。我等は小十郎と同番に罷成。若狭と孫七郎殿同番に成候。惣御陣中にて小十郎相手をきらひ成実と組合候間。此番には合戦仕るべきと小十郎存候哉と唱候。七月二日近江文七郎番無事に候。三日に孫七郎殿若狭番にて無事故。四日小十郎我等番にて早天に窪田へ罷越請取候。陣中に於いて今日は小十郎成実番に候間。必ず合戦之有るべきの由にていずれも早々より仕度仕らるる由に候。然る処に小十郎我等役所へ参られ候。我等申候は。御対陣始は郡山手詰に候はば御合戦成らるるべき由落居候。早通路不自由に成候間合戦仕るべく候。左無く候ては御対陣のしるし之無き由申候。小十郎申され候は尤に候へども敵大軍に候間合戦大事に候。通路は不自由に候へども郡山の手詰程の儀は之無く候。以来手詰に成候はば是非御合戦然るべき由申され候。我等家中遠藤駿河と申者申候は。敵取出之番平田左京小旗に候。会津へ細々使いに罷越懇切の由申候へば。小十郎左候はば矢文を越申すべく候。左京亮処へ矢文敵地より参候由申上候。疑心申すべく候間悪道には之無き由申され候間。小十郎文言にて先年使者と為し若松へ伺公仕候砌。別而御意下され浅からず候。何角打過候処に御弓矢に罷成御意得られず候。今日相近に罷有候へども。御世上抦故御目に懸けず御床敷存候。窪田やらいの番には小十郎成実参られ候。御手の御番と見え申候。御太儀に存候。御和睦成られ貴面遂度存候申書申。矢に結付一人越招候間射申候へば。其矢を取内へ入又扣射返申候。返事には仰の如く相達し候へども御目にかけず。御残多由如何にも諫早々書申され候。小十郎推量のごとく機遣候哉と存候。其返事政宗公へ御目に懸けるべき由申され。其身は役所へ持帰申され候。然処に永沼の城主新国上総馬上五六騎歩之者百計にて郡山南より東へ通。北の取出と窪田やらいの間を通候。我等あづかりの所にて候間能合戦の中立と存。上総を取出の内へ追入候。小十郎も同前に人数を越申され候。両取出より打出合戦始候。敵勢残無く助合。政宗公御人数召し連れられ。朝五つ時分より八つ時迄合戦に候。敵の首二百余打取。味方も六七十打たれ候。敵の取出へ二度迄追入候へども。味方は一芝も取られず打上候。政宗公より御使を下され。定て家中に手負死人候て草臥候はん間。番替に左馬助遣はされ候間。小十郎我等には罷帰べき由御意候條。両人衆へやらい番渡し罷帰候。家老の面々田村月斎我等も御前へ召寄られ。今日合戦大利を得られ候間。以後の覚のため明日会津佐竹陣所へ御働成られるべき由御相談に候。原田休雪申上られ候は。惣別御対陣御無人数にては御大事にて候間。入らぬ義に候へども頻に御対陣と思召れ候條。何れも尤の由申上られ候。御合戦は御つつしみ然るべき由申上られ候へども。今日不慮に合戦大利を得唯今迄残る所なく候。若明日御働成られ。敵は大軍に候間手分けを仕三口四口より合戦を持懸候はば。御人数少にて如何之有るべき由申され候。月斎も休雪申され分尤に存候。今日の御合戦大利を得られ候間御働成られ候にも増申候御覚に候。若御急事も候へば跡々の事ども消え申候間。御働は御無用に存候由申され候。多分月斎。休雪申上られ候通尤の由申上られ候。御働きなされ様にて御合戦無様に覚ばかりに御働然るべき由申上られ候衆も候へども。兎角御大事強候間。相止られ候。其後我等所へ御自筆の御状下され。今日の合戦手柄比類なく候。大軍の勢を取手の内へ追入。定家中数多手負死人も之有るべく候。明日のはたらき臆病異見に任せられ相止られ候事。無念に思召候由仰下され候。岩城常隆公は義重伯父。義広は御従弟に候。政宗公も御従弟に候。天正十三年霜月本宮への御働には常隆公も義重公と御同陣成られ候へども御骨肉の間に御座候間。とかく御笑止に思召候。今度は御出馬無く御無事を御取扱成られ度由にて石川大和殿へ仰合され。義重公は妹聟。政宗公。常隆公。義広公は姪にても双方分難く御間に候へども。其砌は会津佐竹へ御一党にて郡山表に御同陣に候。自岩城佐竹御陣所へは白戸摂津守。伊達御陣所へは志賀かんちう斎差越され御無事の御取扱に御座候。始はかんてう摂津守も双方より人を出しざいを以てまねぎ。をくりを以罷通候。其後は義重公。政宗公へ申上られ。先弓鉄炮打候事相止られ候。取手城の番窪田やらい番も跡々の如く仕候へども鉄炮は打申さず。左候はば八月初に御無事相済。自今以後跡々のごとく御入魂然るべき由常隆公御異見にて。双方より御代官を以御対面成られ候後。大和殿。政宗公御陣所へ御越御会成られ候。佐竹御家中小野崎彦次郎我等所へ使を預り。政宗公へ御礼申度由に候條。御意得候へば会われるべき由御意にて候間。我等陣所へ参られ候を同心申御目見え済申候。其上八月十六日御陣払仰出され。双方ともに御陣を相除かれ候。政宗公は田村の御仕置のため宮森へ御入馬成られ候。

語句・地名など

現代語訳

窪田にも砦矢来をつくるべきであると、久保田の水を外に流し、堀を掘り、土手上垣をお結わせになった。その矢来番をお命じになると言うことになったので、軍団を持っているものたちをくじをするようにご命令になった。浜田伊豆・富塚近江・原田左馬助・遠藤文七郎・片倉小十郎。白石若狭。私たち3人(白石若狭・田村孫七郎・成実)は政宗公の御前にはいなかったので、あとからくじをさせなさった。白石若狭と小十郎、文七郎と富塚近江、左馬助と伊豆、孫七郎と私が一組になった。
すると小十郎は「くじとりのことですが、成実と私を組み合うようご命令してください」と申し上げたので、組を取り替えたので、私は小十郎と同じ番になった。若狭と孫七郎が組むことになった。
総軍の中で、小十郎が相手を嫌って成実と悔い見合わせたのは、この日に合戦がおきるだろうと小十郎が思ったのだろうかと噂になった。7月2日近江と文七郎の番は何事もなかった。3日は孫七郎と若狭が番だったが、無事だったので、4日、小十郎と私のなので、朝早くから窪田へ来て、交代した。陣中では今日は小十郎と成実の番なので、必ず合戦があるだろうということで、早々に仕度をしていた。
そうしているところに、小十郎が私のいるところにやってきたので「御対陣の始まりは郡山が手詰まりになったから合戦になるだろうということになった。もはや道を通るのは不自由になったので、合戦すべきであろう。そうでないのなら、対陣の意味がないのではないか」と言ったところ、小十郎は「もっともではありますが、敵は大軍でありますので、合戦はおおごとになります。通るのは不自由ですが、郡山の手詰まり程のことではないでしょう。手詰まりになるのならば、是非合戦するべきでしょう」と言った。私の家中の遠藤駿河という者が言うことには「敵の砦番をしている平田左京の小旗であります。会津へ細々とした使いに行くとき、非常に仲良くしております」ということを言ったので、小十郎は「ならば矢文を送るように、左京亮の所へ矢文が敵地より送られてきたということがわかれば、疑いの心が生まれ、わるくはないのではないか」と言った。小十郎が考えた文章で、「先年使者として若松へ伺候していたとき、特別に目を懸けていただき、非常に御が深いです。何かと時間が過ぎていったが、戦に同意なさらなかった。今日は非常に戦が起こりそうだと思われたけれども、世上故、お目にかからず、ゆかしく覆います。窪田矢来の番は、小十郎と成実がやっています。政宗直々のご命令と思われます。大変な事かと思います。和睦なれば、貴方の面目も通るのではありませんか」と書き、矢に結びつけ、一人呼んできて、矢を射かけたところ、その矢をとり、内へ入ってまた返してきた。
返事には「仰せの通り聞いているけれども、お会いすることができず残念です」といかにもはやばやと返事が返ってきた。小十郎の想像通り、心配しているのだろうかと思った。その返事を政宗公にお目にかけようと、自分の持ち場へ持って帰った。
そうこうしているうちに永沼の城主新国上総騎馬武者5,6騎・歩行の者100人ばかりを連れて、郡山の南から東へ通った。北の砦と窪田矢来の間を通った。私の担当の場所だったので、戦の中立かと思い、新国上総を砦の内へ押し入れた。
小十郎も同じように手勢を出し、二つの砦からくりだし、戦が始まった。敵勢は残りなく助け合わせ、政宗は手勢をお連れになり、朝5つごろから8つごろまで合戦になった。敵の首は200ほどうちとり、味方も6,70討たれた。
敵の砦へ二回も追い入ったのだけれども、味方はひとしばも取られず、切り上げた。政宗から使いが来て、きっと家中にけが人や死者が出て、草臥れているだろうということで、番の交代に左馬助をおつかわしになり、小十郎と私には帰るようにとの御言葉出会った。二人共の衆は帰るよう仰せだったので、二人へ矢来番を渡して、帰った。家老の面々、田村月斎、私をお召しになり、今日の合戦で、大きな勝利を得たので、後世の印象をよくするために、明日、会津・佐竹の陣所へ戦闘を仕掛けるようにということをご相談なさった。休雪斎が言うには、「とくに対陣するのに、こちらが人数が少ないのは、大変な事出ございますので、無用のことと思います」と言った。しかし政宗がしきりに対陣すべきと仰るので、もっともかと思い、合戦は慎むべきであると申し上げたのだが、今日不意に合戦で大きな勝利を得たため、最後までそれを言うものは居なかった。
もし明日戦闘を仕掛け、敵は大軍なため、分けられて、3方向4方向から合戦を持ちかけられたなら、こちらは少人数なので、どうするべきかと言った。月斎も休雪斎の言い分をもっともだと思った。今日の合戦で大きな勝利を得たので、余計にそう思われたのだろう。もし悪いことがあったとしたら、将来のことも無くなってしまうので、戦闘は無用で思うということを言った。多くの者が、月斎と休雪斎の言いぶんがもっともだと申し上げた。
戦をされ、戦の無様な印象ばかりになってしまうということを言う小野達も居たので、とにかく大ごとになるということで、出陣はおやめになった。
その後私の所へ自筆の書状を下され、今日の合戦の手柄は比べるもののない素晴らしい者だった。大軍を砦の中へ押し入れ、きっと家中のものたちはけが人・死人も多くいるだろう。明日の働きは臆病な意見に押されて中止になった。大変無念であるということを言われた。
岩城常隆公は義重の伯父であり、義広は従兄弟である。政宗公も従兄弟である。天正13年霜月の本宮への御働き(人取橋の戦)には常隆も義重と一緒に戦をしたけれど、御親戚の間柄である。とにかく、大変だと思われた。今回は出馬無く、無事を選ばれたようなので、石川大和昭光へ言い合わされた。
義重公は妹聟、政宗公・常隆公・義広公は名似ても、双方わけがたい関係でおられるけれども、そのころは会津と佐竹は味方して、郡山表に一緒に出陣して居られた。岩城より佐竹の陣所へは白戸摂津守、伊達の陣所へは志賀閑長斎を送られ、無事に和睦をするようになさった。始めは閑長斎も摂津守も双方より、人を出し、幣を使ってまねき、おくりを繰り返していたのだが、その後は義重公は政宗公へ申し上げられ、まず、鉄炮を打つことを止められた。砦城の番、窪田矢来番もあとあとのようにしていたけれども、鉄炮は打つのを止めた。
すると8月始めになって和睦が成立した。これからは昔のように仲良くするべきであるという常隆の意見なので、双方から代官をだして、面会したのち、石川大和は政宗の陣所へ来て、お会いなさった。
佐竹家中の小野崎彦次郎は私の所へ使いを送って、政宗公へお礼申し上げたいと言ってきたので、政宗がそうしたいのであれば会いたいとのことだったので、私の陣所に来ていたところ、私も一緒に行って、御目見得しました。その上8月16日、陣を払うようご命令になり、双方とも陣を引き払いました。政宗公は田村の仕置きのために宮森へ入られました。

感想

以前くじびきと小十郎というエントリーを書きましたが、そのときの戦の話です。
小十郎というか、片倉一家は、成実と親しいなあという印象があります。このくじ引きで相手を替えさせたことは家中で噂になったということなんですが、白石若狭はどう思ったのかな…気になります(笑)。