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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』70:首実検

『伊達日記』70:首実検

原文

一御前へ参候首。会津一家金上遠江は我等家中斎藤太郎右衛門討申候。其外佐瀬平八郎を始千五百八十余りに候。其夜は猪苗代へ引上られ候而翌日金川へ御はたらき成られ候。会津衆堅固に持候間。明日近陣を成らるるべき由御意成られ候。大寺前の原に御野陣成られ候。去六月朔日に大森より原田左馬助を長井へ差越され。最上境下長井人数は指置。ほうぢゃうと上長井の人数召連大塩へ働申すべく候。猪苗代北方へ御働成らるるべく候間成合申候様にと仰付られ候。摺上御合戦に会津衆まけ候由承。大塩の城も引除金川。三つ橋。塩川。三ヶ所計相抱。北方の持地下人共に残りなく引除若松へ引こもり候間。左馬助は六日の晩に御働の所へ参られ候。

語句・地名など

現代語訳

政宗の前に持ってこられた首、会津の一門金上遠江盛備は、私の家中斎藤太郎右衛門が討った。その他佐瀬平八郎をはじめ、1580余りになった。其の夜は猪苗代へ引き上げられ、翌日金川へ出陣なさった。会津衆は固く城を守っていたので、明日近陣をするとお命じになり、大寺前の原に野陣なさった。去る6月1日に原田左馬助宗時を大森から長井の米沢へ送られ、最上との境の下長井の軍勢を置き、北条と上長井の人数を連れて、大塩へ戦闘を起こすよう命じられた。
猪苗代の北方へ戦闘を仕掛けるため、合流できるようにとご命令になったところ、摺上合戦にて会津衆が負けたということを聞き、大塩も退き、金川・三ツ橋・塩川というところのみとなった。北方の侍、身分低い者もすべて残らず、会津若松へ退いたということなので、左馬助は6日の晩に政宗のところにやってきた。

感想

戦の後に首実検が行われ、会津の家老金上遠江盛備・佐瀬平八郎らをはじめ、1500を越える首が取られたとされております。
『政宗記』ではこのとき政宗が金上盛備の首を箸でひっくり返してお歯黒を確かめ、その箸で御飯を食べたので、紅のようになり、政宗が鬼神のように見えた…と書いてあります。ここらへんの描き方すさまじいです。