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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』72:田村の警固

『伊達日記』72:田村の警固

原文

一佐竹義重公須賀川へ五月廿七日に御出馬成られ。常隆公仰合わされ田村へ御働候。政宗公三橋に御在馬中。義重公田村の内大平常隆は門沢を御責取候。彼地警固に伊達衆には中島右衛門。大町三河。宮内因幡差置かれ候処に。因幡。三河は漸々引除申され候。右衛門は二ノ丸役所を離れず打死申され候。岩城衆三人を打相果申され候。兼てより名誉のものに候。田村の御働聞召され。浜田伊豆。富塚近江。遠藤文七郎。其外伊達。信夫。刈田。柴田衆。田村へつかはされ候。猪苗代あまり御無人数に候間。浜田伊豆をばよびかえされ候。摺上合戦にも会申され候。

語句・地名など

現代語訳

佐竹義重が須賀川へ5月27日に出陣なられ、常隆と言い合わせて田村へ攻めかかられた。政宗は三ツ橋にいた頃で、義重は田村領のうち大平を、常隆は門沢をお攻めになり、城を取った。この土地の守備には伊達集は中島右衛門宗意・大町三河・宮内因幡常清を置いていたのだが、宮内常清と大町三河は少しずつ退却した。中島宗意は二ノ丸の要所を離れず、討ち死にした。岩城衆3人を討ち果たした。常日頃から、誉れ高い者だった。
田村の戦をお聞きになり、浜田伊豆景隆・富塚近江宗綱・遠藤文七郎宗信、その他伊達・信夫・刈田・柴田の衆を田村へお遣わしになった。猪苗代に人がいなくなるので、浜田景隆を呼び戻され、摺上合戦にも参加した。

感想

佐竹義重と岩城常隆が申し合わせて田村領へ攻め入ったので、家臣の配置がえを行い、田村の守備に回すことになったことが書かれています。