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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』75:会津での知行割

『伊達日記』75:会津での知行割

原文

一義重常隆御帰陣に付。政宗公は会津郡中の肝煎大百姓召あつめられ跡々物成御尋成られ。御奉公仕候ものどもにいずれも御加増下され候。原田左馬助は会津御事切の時分より御手に入候はば。津川を下さるべき由御約束に候。津川の狐もどしと申城金上遠江家中指置申候。金上摺上にて打死申され候間。城主越後。政宗公へ御奉公仕候。本城は堅固にかかへ候故左馬助に津川下さらず候。去りながら各御加増義敷存ずべく候由御意にて百人計先下され候。

語句・地名など

肝煎:名主
物成:年貢
狐もどし:狐戻

現代語訳

佐竹義重・岩城常隆が自領に帰ったため、政宗は会津郡じゅうの肝煎・大百姓をお集めになり、のちのちの年貢についてお尋ねになり、奉公することに決めた者たちすべてに加増した。原田左馬助宗時は、会津との戦闘の頃から、手に入ったなら、津川を与えると約束をしていたのだが、津川の狐戻という城は金上盛備の家中が置かれていた。金上盛備は摺上の合戦で討ち死にしたので、城主は政宗に寝返ったが、本城は息子の盛実が固く守り、籠城していたので、左馬助宗時は津川をいただくことができなかった。しかしながら、それぞれ御加増するようにご命令され、100人ほどがまず知行をいただいた。

感想

会津で行われた知行割について書かれています。
名主や百姓を集め、進退を訊ねているところが興味深いです。