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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』79:須賀川攻めの軍議

『伊達日記』79:須賀川攻めの軍議

原文

須賀川は佐竹岩城を相守られ。警固に佐竹よりもも殿。つきのおれ殿。其外南口衆差越され候。岩城より植田但馬。高貫中務差置かれ候。岩瀬一家西方衆。政宗公へ御敵申事成間敷由存られ。保土江南。浜尾善斎。矢部下野初六七人。須賀川へ御出馬之砌御奉公仕るべき由申され候。政宗公十月片平へ御出馬成られ。田村孫八郎殿御同陣にて十月廿五日矢田野へ御働近所に候間。横田へも押廻御働候。松山と申横田の城見をろし候山において御目談に候。江南。善斎も罷出られ候。田村衆。月斎。刑部少輔も罷出られ候。明日の御働如何様に成らるるべきと御意に候。江南申され候は。矢田野。横田へ御手間取られ候事入らぬ事に候。先須賀川へ御働然るべく候。彼地落居申候はば其外へ小地とも御手間は入間敷由申され候。須賀川は何程の人数にて候はん由御たづね候。江南。善斎申上られ候は。申合され候衆岩城より二頭。佐竹より二頭。その外存ぜぬ衆まいられ候。左候はば強取合わず。六百騎には過間敷申され候。須賀川へは何方より御責成らるるべく候哉と仰られ候。田村月斎申され候は。場好は南にて候。去ながら城の見切見え申さず候。西は原続にて地形高く候。押詰候へば川御座候へども地形陸に候間。須賀川見をろし候様に西より御働然るべき由申され候。いづれも月斎申され候様功者の由褒美申候。其夜は政宗公高舘に御在陣候。

語句・地名など

現代語訳

須賀川は佐竹・岩城を頼っていたので、警固に佐竹から、百茂(もも)・鴉の折(つきのおれ)という者の他、南口衆(佐竹南郷衆)をつけて警固させていた。岩城からは植田但馬・高貫中務という者が置かれており、須賀川一家の西方衆は政宗へ敵対することはあってはならないと思ったのか、保土原江南行藤・浜尾善斎・矢部下野をはじめ6,7人は政宗に須賀川へ攻め入るときに寝返る事を約束した。
政宗は10月片平へ出馬され、田村孫七郎宗顕を連れて、10月25日須賀川に味方する矢田野へ戦闘を仕掛けたところであったので、近所の横田へも回り、戦闘を仕掛けた。松山という、横田の城を見下ろす山に於いて、皆を呼び、相談をした。江南・善斎もやってきた。田村衆・月斎・刑部少輔もやってきた。
明日の戦闘はどのようにするべきかとお聞きになった。
保土原江南は「矢田野・横田へ手間を取られるのは不要のことです。まず須賀川本城をお攻めになるべきです。彼の地が落ちたならば、その他の小さな城は手間にならないでしょう」と言った。
政宗が「須賀川はどれぐらいの人数だろうか」とお尋ねになると、江南と善斎は「岩城から二頭、佐竹から二頭、その他とるにたらない衆ぐらいでしょう。そうであれば、どう見積もっても、600騎を越すことはないでしょう」と言った。
須賀川へはどの方向から攻めるべきかと仰られると、田村月斎が「いいのは南からです。しかしながら、城の大きさが見えないでしょう。西は原っぱがつづくので、地形が高くなっています。押し詰めるならば、川はあるけれども、地形は陸なので、須賀川を見下ろすように、西から攻めるべきです」と言った。
そこにいた者はいずれも、月斎のいうことはさすが功の者であると褒めた。
その夜は政宗は高館に在陣なさった。

感想

政宗に敵対していた伯母、伊達氏大乗院阿南姫がこもっていた須賀川城攻めの軍議です。須賀川の内部も政宗派と反政宗派に分かれ、内情はいろいろと大変だったのでしょう。