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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』84:小田原参陣

『伊達日記』84:小田原参陣

原文

一天正十八年太閤様小田原へ御陣の由申来候に付。遠藤不入斎差登られ候処に。家康公。浅野弾正殿。加賀筑前殿いづれも御念比衆より不入斎相返さる。政宗早々御登然るべき由御異見に候。会津御手に入候以来越後と御弓矢に罷成候間。越後を御登の事如何之在るべき由。上野を直に御登成られ度と思召。会津新参衆表立候侍の分残りなく御供仰付られ。御普代衆彼是百騎召連られ候。会津御留主居には私の家中残らず召連罷有るべき由仰付られ候。二本松用心の為柴田但馬。石母田左衛門。大條尾張差置かる。津川。境。横田の城へは会津新参の不背衆。長井の人数相加えられ菅野備中城主に御付候間。南の山近所大内と申所へ御出候へども。関東の城々小田原奉公にて御通成らるるべき体之無きに付会津へ御移成られ。米沢より北国通を越後信濃に御懸小田原御参着成られ候所。そこくらと申山中に御宿を仰付られ候。かやうの山中へ押籠られ候儀。下々気遣仕候処に。一両日過候て。施薬院。稲葉是上坊。浅野弾正殿外両人。已上五人の御使にて御尋には。只今迄御礼申し上げず候事口惜思召され候。其上会津よりは金上遠江代官に為しめ一両年以前に御礼申上候処に。其会津を打取城を移罷有由慮外に思召され候。申上品々も候はば申し上げるべく候。左無く候はば急度仰付けらるるべく候由御諚に候。政宗公仰られ候は。御意候処御尤至極に候。大内備前と申者先祖の家中に候処に。家中に不慮の乱候砌逆心仕而会津へ奉公仕候。洞取院して彼者を退治仕候処に会津義広。佐竹義重。岩城常隆。助抱候へども大内を不思議に退治仕候処に。不慮の仕合を以私親相果申候時分。二本松を退治候砌佐竹。会津。岩城。我等所へ取懸合戦に及候間。会津との取合に罷成不慮に会津迄打取申候。其時分最上。大崎。相馬敵に御座候間罷登御礼申上べく隙も之無く候故如在の体に此儀世上かくれ有間敷候。重而御尋には。左様に方々敵に仕候事。其身よりの仕様為らるべく。何も骨肉の様に思召され候。其品々具に申上べく候由追而御諚候。政宗公仰上られ候は。

語句・地名など

現代語訳

天正18年太閤秀吉が小田原へ出陣するという話が伝わってきたので。遠藤不入斎という者を先に行かせたところ、徳川家康・浅野弾正長政・加賀筑前など、いずれも親しくしてもらっている人々は不入斎をお返しになり、政宗は早く参陣すべきであるという御意見であった。会津を手に入れて以降、越後と敵対することになったので、越後を通ることは出来ないので、上野を直接通ろうとお思いになった。会津から仕える様になった新参の者たちを残らず御供に入れ、譜代衆を100騎連れて行くことになった。
会津の留守居役には私の家中を残らず連れてくるようにとご命令になった。二本松の用心のため柴田但馬宗義・石母田左衛門景頼・大條尾張宗直を置かれた。津川、境、横田の城へは会津新参の不背衆を置かれた。長井の軍勢も加えられ、菅野備中を城主に付けたので、南の山の近く大内というところへ出たのだが、関東の城々はみな小田原に通じていて、通ることができないので、会津まで戻り、米沢から北国道を越後・信濃をかけて小田原にお着きになられた。すると底倉という山の中に宿を命じられた。このような山の中に押し込められるのかと家来たちが心配しているところに、二日ほどが過ぎ、施薬院全宗・色部是常防・浅野弾正長政とほか二人、合わせて五人の使いがやってきて、お尋ねになったのは、
「秀吉は今まで御礼を申し上げなかったことを大変口惜しく思っている。その上、会津は金上遠江盛備を代官として二年も前に臣下の礼を取っていたというのに、その会津を討ち取り、城を移したこと、大変怒っていらっしゃる。申し上げるべき詳細があるなら、申し上げなさい。そうでないなら、今すぐ命令する」とのことであった。
政宗は「ご命令のことは大変もっともでございます。大内備前という者、かつて私の先祖に仕えていたところ、家中で思わぬ乱があったとき、反逆して会津へ仕えるようになりました。親戚を集めこの者を退治しようとしているところに、会津の芦名義広・佐竹義重・岩城常隆が助けたのだけれど、不思議なことに退治したところ、不慮の事件によって、私の父が殺されました。そのとき二本松を退治したとき、佐竹・芦名・岩城が我等のところへ攻め入り、合戦になりました。会津との取り合いになり、思わぬことに会津まで討ち取ることができました。
そのとき最上・大崎・相馬は敵であったので、上って御礼申し上げる時間がなく、そのため現在のようになっています。このことは隠れもない事実であります」と答えた。
重ねてお尋ねになったのは「そのように周り中がが敵であるのは、おまえがそうするようにしたのではないか。いずれも親戚であるというのに、その詳細を詳しく述べよ」と追ってご命令であった。
政宗は以下のように答えた。

感想

とうとう小田原参陣のスタートです。政宗は底倉にいるように命じられ、五人の評定衆の詮議を受けます。
次の章に続きます。