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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』93:大里城攻め

『伊達日記』93:大里城攻め

原文

政宗公御下向の砌。木村伊勢守御小指南に候。浅野弾正殿親類浅野六右衛門と申もの差添られ会津を請取申すべき由仰付られ候。色々御馳走成られ政宗公米沢へ御移候。其時分迄大里落居申さずに付。片倉小十郎我等長井の人数迄大里へ遣はされ候。各相談候手責に申すべき由申合。方々より取付責候へども水くるは計取。其外は一ヶ所も破れず候。其後は打つづき雨降候間城中水にも事を欠申さず。水曲輪を取候間石川大和殿衆を汲ませぬ様に番に付候処に。有時風雨にて人も見分けぬ時分。内より七八十人はだかに成弓鑓計にて打出。番の者を追散五人討候。大和殿へ陣所より助けず以前引籠候。惣別城中より夜々方々へ突て出。一人二人宛仰付られ候。前代未聞に候。斯様に事延候内小田原落城候而上方の人数下候間。大里まき候ても自分の城は如何と何も申され退散仕候。政宗公は米沢へ御移候に付御出馬成られず候。

語句・地名など

現代語訳

政宗が下向しているとき、木村伊勢守の指導役に仰せ付けられた浅野弾正長政の親類浅野六右衛門政勝という者をおつけになり、会津を受け取るようご命令になった。六右衛門にいろいろと馳走し、政宗は米沢へお移りになった。
その頃まだ大里城は落ちていなかったので、片倉景綱と私、長井の軍勢まで大里へお遣わしになった。それぞれ相談し、厳しく攻めようと言い合わせた。いろいろなところからとりかかり、攻めかけたけれども、水曲輪しか取ることができず、そのほかは一ヶ所も破ることができなかった。その後は続けて雨が降り、城中では水に困る事もなかった。水曲輪を取ったので石川昭光は水を汲ませないように見張りを付けたところ、あるとき雨風がひどく人も見分けられないときに、中から7,80人裸になり、弓・鑓のみで出てきて、見張りの者を追い散らし、5人討った。
昭光へ陣所から援軍を送ることなく前のように籠もっていた。城内より、毎夜毎夜方々へ出てきて、1人2人討たれた。このようなことは前代未聞のことである。このように城攻めが長引いて射る間に小田原城が落城し、上方の人々が下向してきたので、大里を包囲しても、自分の城はどうなるだろうかとみな言い合って、退くことにした。政宗は米沢へお移りになられたので、出陣はなさらなかった。

感想

上方衆がいたとはいえ、伊達軍の精鋭が攻めて落ちなかった大里城攻めの様子が書かれています。
前代未聞という成実の言葉ですが、『政宗記』では「名誉なる者どもかなと各褒美理なり」とあり、籠城が見事であったことを褒めていたようです。