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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』101:名生での人質

『伊達日記』101:名生での人質

原文

一弾正殿仰られ候は。氏郷引出ず候而仰分も成まじく候條。早々引出御申然るべき由仰せられ候。氏郷より之無く候はば罷出間敷由御理に付て伊達彦九郎を人質に仰付けられ候。我等に罷越候而一戦仕引出申すべき由仰付られ候。拙子事二本松へ引除家中ともに方々に罷在候間成間敷由申上候処に。国分黒川の人数を召連参るべき由伊達上野其外中奥の人数を仰付られ候由御意に候。黒川へ罷下極月廿日比一戦を仕候。弾正殿より浅野六右衛門指添られ遣はされ候。六右衛門。彦九郎同心に名生へ参られ候処に。氏郷。伊達上野か成実を差添られず候はば罷出まじき由仰付られ。黒川へ打通其段飯坂へ申上候へば。拙者罷越さるべき由御意候條。極月廿九日に働仕四竈に在陣申。文禄元年正月朔日に名生へ彦九郎。六右衛門。我等三人参氏郷へ御目懸。御供黒川に一宿成られ。岩沼に御留。一日宮に御逗留候而二本松へ御通候。大森にて氏郷私宿へ御出。早々罷帰るべき由御理に候。二本松迄御供仕るべき由申候へども。頻仰せられ候間飯坂へまかり帰候。一日過候て政宗。二本松へ御出候。弾正殿事の外御喜。かやうの儀を人の申唱によって御気遣をなされ笑止に存候由仰られ御馳走成られ候。春中大崎へ御働成らるるべき由弾正殿へ仰合され暮程に御帰。九日に飯坂より米沢へ御帰城に候。

語句・地名など

現代語訳

浅野弾正長政が仰ったのは、氏郷が出てこないので、言い訳もできないので、早く引き出すようにとのことだった。
氏郷から人質がないのであれば出ることはないと言ってきたので、伊達彦九郎盛重を人質に命じた。私にこちらに来て一戦行い、脱出させようと仰られた。私は二本松から退き、家中の者たちと同じくあちこちに散らばっていたので、無理であると申し上げたところ、国分・黒川の軍勢を連れてくるようにと伊達上野政景その他中奥の軍勢をつけるようご命令になった。黒川へ下り、12月20日頃大崎へ一戦を行った。浅野長政から六右衛門を付けて使いが来た。六右衛門と彦九郎は一緒に名生へ行ったのだが、氏郷は伊達政景か成実を人質として連れてこないのであれば出ないと言ってきた。黒川へ戻り、そのことを飯坂に申し上げたので、私にくるようにとご命令だったので、12月29日に戦闘をした四竈にいたのだが、天正19年正月朔日に名生へ彦九郎・六右衛門・私の3人は名生へ行き、氏郷にお目にかかった。御供して黒川に一泊し、岩沼にてお泊まり、一日宮に逗留なさったあと、二本松へ行くことになっていた。大森にて氏郷は私の宿所へやってきて、すぐに帰るように仰った。二本松までお伴しますと言ったけれども、しきりに仰ったので、政宗のいる飯坂へ帰った。
一日過ぎて政宗は二本松へ出てたので、浅野弾正は大変悦び、このようなことを人の噂によって心配することは大変困ると思うと仰られ、もてなされた。
春じゅうには大崎へ戦闘するべきであると浅野弾正に約束して、日暮れぐらいにお帰りになった。9日に飯坂から米沢へお帰りになった。

感想

城から出るには、人質が必要だと氏郷が言ったので、叔父の伊達彦九郎盛重を送ったところ、氏郷は伊達上野政景か成実を出さないのであれば出ないと言った話です。
結果氏郷は態度を軟化させ、城を出、二本松まで行きます。