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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』105:佐沼攻め

『伊達日記』105:佐沼攻め

原文

一佐沼近所の者共のあつまり。町構え西舘相抱候一揆の城共。大崎葛西中に多候間御人数損候も如何思召され。惣構を御覧候而仕寄を所々に仰付られ。竹束を付取寄屏際に付候。政宗公御陣所は西枢輪の西の山に候間。沼候而地形悪候。沼と川との間は茂庭石見役所に候。其東は片倉小十郎役所にて候。三日仕寄を仕られ候処。四日の明方西曲輪を持兼引こもり候付而町構も破本丸計に罷成。其日一日責候へども落城仕らず候。其夜の明方落城仕候。城主は夜の内に欠落。葛西の内西郡と申所にて討れ候。家中侍百姓共二三千余打果され候。城中死骸多候而土の色も見えず。死骸の上計あろき候体に候。政宗翌日登米へ相移られ。何方の城とも取らしめらるべく思召候処に。葛西本侍衆政宗御弓矢の強事覚候間何も御侘言申され。其後は御働も之無く候。<<

語句・地名など

現代語訳

佐沼近くの者たち集まり、町構の西館まで抱えた一揆の者たちは、大崎・葛西家中の者たちが多かったので、軍勢を損ねることもどうかと思われ、すべての構えを御覧になり、城攻めをところどころに命じられ、竹把を付け、塀際に付けた。
政宗の陣所は西曲輪の西の山にあったので、沼があり、地形が悪かった。沼と川との間は茂庭石見綱元の担当であり、その東は片倉小十郎景綱の担当であった。3日城攻めを仕掛けられたところ、4日の明け方西曲輪を保ちかねて、籠城したので、町構えも破り、本丸のみになった。その一日は攻め続けたが、落城はしなかった。その夜の明け方落城した。城主は夜の内に逃げだし、葛西のうち西郡というところで討たれた。家中の侍・百姓たち、2,3000余討ち果たされた。城の中は死骸でいっぱいになり、土の色も見えなかった。死骸の上を歩くようなありさまであった。
政宗は翌日登米へお移りになり、次はどこの城を取らせるべきかとお思いになっているところ、葛西の元侍衆は政宗の軍が強きことを知り、みな降参してきて、その後は戦闘もなかった。

感想

佐沼の周辺を政宗が落としていったことが書かれています。佐沼の城の中の描写、あまりに死骸が多くて、地面の色が見えず、死骸の上を歩いた…というのはすさまじい情景ですね。