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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』111:高麗への陣立

『伊達日記』111:高麗への陣立

原文

一二月半時分。岐阜中納言殿。浅野左京大夫。羽柴藤五郎。木村常隆。加藤遠江。その外坂東の大名衆。段々に御陣立候。一番加藤筑前。二番家康。三番政宗。四番佐竹右京亮。押道は聚楽御屋敷よりもどり橋を大宮通へ御返候。政宗家中出立はのぼり三十本。紺地に金の丸。のほり指の衣装具足。下にむりやうのじゅばん。具足は黒糸。前後に金の星。鉄砲弓鑓の衆下着具足同前。銀のし付刀脇指。小尻つか井ほうなりに朱さや太刀の如くきつはにさし申候。金のとがり笠長三尺計。廻り一尺八寸程。馬上は三十騎。共に黒母衣金半月のたし。豹虎又孔雀の尾。熊の皮。色々の馬よろいを懸。金のし付の太刀刀に候。其内遠藤文七郎。原田左馬助ははきそへに木太刀を一間半にこしらへ帯候。小尻さがり候間金物を中程に仕肩へ糸にてつり候。見物の人いづれもの御通には聲もたて申さず候が。政宗御通にははり候出立ゆへ上下をめき物音もきこえへぬ体に候。京中にて褒美申候。其晩はあいと申所へ御着陣成され。それより何も大名衆具足は取納常の衣装にて名護屋御着成られ。家康公。筑前殿も御城の北入海を隔御立陣に候。政宗も其北方御陣所に候。其西は結城殿御陣所に候。

語句・地名など

現代語訳

2月半ば、岐阜中納言織田秀信・浅野左京大夫幸長・柴田藤五郎・木村小隼人常隆・加藤遠江光泰その他坂東の大名衆が段々と陣立てを行った。
1番は加藤筑前、2番家康、3番政宗、4番佐竹左京亮だった。通る道は、聚楽第屋敷から戻り橋を大宮通りへ返す道だった。
政宗家中の出で立ちは、紺地に金の丸の幟を30本指し、幟指しの衣装具足は、下に六糸緞の襦袢を着こみ、具足は黒糸で威し、前後に金の星が入っていた。鉄砲・弓・鑓の衆は下着・鎧も同じであった。銀ののし付の刀・脇指は小尻を櫂のように朱鞘で、太刀の如く立派にさし、長さ三尺・周り一尺八寸ほどの金のとがり笠を付けた。鎧武者は30騎で、みな黒母衣に金の半月のだし、豹・虎・孔雀などの尾や熊の皮などさまざまな馬鎧をかけ、金ののし付太刀刀を持っていた。
そのうち遠藤文七郎宗信と原田左馬助宗時ははばきそえに、一間半の木太刀を拵え、佩いた。小尻が下がるので、金物を真ん中に肩へ糸でつっていた。
見物の人たちは他の軍勢が通る間は声もたてずにいたが、政宗がお通りになったときは、声をはり、上も下もどよめき、物音も聞こえぬほどになった。京中で褒められていた。その晩は会というところに着陣され、そこからはどの大名衆も鎧を取って納め、普通の衣装で名古屋まで到着なさった。家康・利家も城の北入江を隔てて陣を立てられ、政宗もその北方に陣をしいた。その西は結城秀康の陣所であった。

感想

西の大名から徐々に西へ向かい、名護屋へ向かったことがかかれています。
特に政宗の軍の格好が大変華やかで風変わりで、京都の人々の目を引いたことがかかれています。
原田宗時・遠藤宗信の姿も格好良かったことでしょう。