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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』117:食料の不足

『伊達日記』117:食料の不足

原文

一秀吉公八月末名古屋より御帰馬候。筑紫四国西国衆は在陣にて坂東勢は九月十日に帰朝申され候。ふさんかい近所に城を三つ取普請仕るべき由仰出され。いづれも其普請成られ候。高麗は弓矢の成らぬ事之無き候へども。日本の御人数少飯米続かず候付御弓矢成兼候。地下人を仕付候て飯米の出候様にと仰付られ候間。ふさんかいの高麗人は有付候間其者を以て色々申され候へども。日本衆ををそれ申て何事をも実儀に存ぜず。只山へ逃候計に候。海道一筋は切領候へども。五里六里へだたり候わきにて耕作仕。日本衆まいり候へば逃跡明候間御弓矢成らず候。

語句・地名など

現代語訳

秀吉は8月末名護屋からお帰りになった。筑紫・四国・西国衆は在陣していたが、坂東勢は9月10日に帰朝した。釜山海の近くに城を3つとり、工事をするようにとご命令になり、いづれもその工事をお済ませになった。
高麗は戦をして勝てないことはないけれども、日本の軍勢は少ない食料が続かず、戦をすることが難しかった。地下人に食料を作らせようと仰ったので、釜山海の高麗人を捕まえて、この者たちを使っていろいろしようと思ったが、日本衆を恐れてなにごとも信じなかった。ただ山へ逃げるばかりだった。海道一筋は切り従えたけれども、5里6里隔たっていたため、脇で耕作し、日本衆が来たら逃げるという様子で、戦にはならなかった。

感想

高麗での戦は当時の日本衆にとってはそう困難ではなかったようですが、食料が届かず、非常に苦労した様子が書かれています。