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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』120:秀次事件

『伊達日記』120:秀次事件

原文

秀吉公御在陣の内若君様御誕生なされ候。秀次へ聚楽御渡候を内々秀吉公御後悔にもをぼしめし候哉。治部少見届御中を表裏候由見へ候。秀次公山へ綱を御張唐犬をあつめ鹿を御くはせ候而五日十日御山に御座候。御謀叛の御談合の由思召され候間。終に高野山誓願寺に於いて御切腹なされ候。兼而右大臣御女。最上義顕の御娘を始三十六人の御目懸衆を害し申。義顕御娘は奥州一揆の砌秀次最上御在陣の時上げ申され候。大名に似合わぬ由天下のあざけりに候。今度かくのごとく仕合候故。義顕も聚楽御屋敷に押籠御座候。弾正殿子息左京大夫は秀次相聟に候付而大原へ御引こもり候。右の品会津へ申来に付弾正殿夜を日に御登り候。秀次へ相付られ候衆の内田中兵部。山内対馬。中村式部は御謀叛にもかまい申されず候哉恙なく候。其外切腹の衆多候。政宗公も弾正殿へ追付御上り候処。秀次へ御同心候由にて。御上候はば切腹せしめるべき由御念比衆より申来候付。薬院別而御懇切候間御異見御請候へば。早々大坂へ御参我等所へ御越候への由仰られ候に付薬院へ御出候。此表裏は秀次公の御出頭人粟の木工。本政宗公家中にて御舎弟のもりに相付られ候。其比は藤八郎と申候。少誤り候て死罪に及ぶべく候を存分北国へ欠落仕候。北国にて討たれるべき様子見合北国の城主上郡山民部家中を人質に取。越後へ除上洛仕秀次公へ御奉公仕候。政宗公も秀次公へ御参候。木工御勘当に候へば如何之由秀次公御内証候而御懇志に成候。彼仁秀次御生害の後木村常隆。熊谷大膳。粟野木工切腹仕候。吉田修理は欠落行方ついに知申さず候。政宗へ薬院。玄意法印。寺西筑後守。岩井丹波。四人を以御たづねには。今度関白謀叛の所一味仕鹿狩の砌山へ参談合の由聞召され候由御意候。政宗御目下され候間節々罷出候へども。左様の儀之無く候由仰分られ候処。重而奥州へ下向の時分秀次より餞をうけ候由聞召され候。これは何とて申上げぬ由御諚に候。政宗行当迷惑仕申候。奥州下向の時御いとま乞に罷出候へば。鞍十口。帷子二十。粟の木工を以下され候由。其時四人衆路次にて御談合候而天道つき。此一儀申上られず候由落涙仕申由上聞に達候へば。子共兵五郎を若君様へ御被官始にあげまうされ候間兵五郎に国を相渡べく候。政宗は遠島へも遣はさるべく候。在所に居申候家老共登せ申すべき候。其段仰付らるべく候。誓紙を仕候迄屋敷に居申すべき由仰出られ候。四人の御使者衆薬院の内へも御入なく庭より御前相済候。心安存ぜらるべき由先仰られ候後御諚之通仰渡され候付。聚楽御帰閉門にて御座候。御国本へ家老衆罷登べき由仰遣はされ候。然者聚楽の町人政宗家中を屋敷へ引籠。京中を焼払切死申すべき由申唱。以の外騒候由御念比衆聞召され。双方の門をひらき屋敷の内の見え候様に成られ。惣別内衆出入相止られ然るべき由御異見に付而表裏の御門をひらき御座候。然る処に伏見にて江戸中納言殿御屋敷之前に高札を立候。其札を御留守居衆大坂へ上申され候へば。秀吉公御普請場へ成らせしめ候砌。普請奉行布施屋小兵衛。杉山主計。竹内左太右衛門三人を政宗。義顕して討奉り。西三十三ヶ国義顕。東三十三ヶ国は政宗相抱へるべき由申合候由の文言に候。秀吉公御覧成られ。政宗を人々にくみ申と見え候。関白一味の由申上候もけ様の者どもに之有るべき由御意成られ。此札立候者申出し候はば金子出るべき由札を立候への由。義顕政宗より金子四十枚出し。京に二十枚。伏見に廿枚相懸候上。知行は望次第に両人より下置かれ候由。御奉公衆へ名付にて室町と伏見の京町に札を立候へども終にしれ申さず候。政宗は御免なされ候。義顕も娘のあやまり迄相許され召出され候。施薬院。玄意。寺西。岩井。四人衆を以右之段仰付られ御目見相済候。

語句・地名など

現代語訳

秀吉が名護屋に在陣中、若君がお生まれになった。秀次へ入洛の屋敷をお渡しになったのを、内心秀吉も後悔に思われていたのだろうか。石田治部少輔は見届け、仲を操っていたと思われた。秀次は山へ綱を張り、唐犬を集めて、鹿を食わせて、5日10日と山に滞在なさった。謀叛の話し合いをしているのかと思われ、ついに高野山誓願寺において、切腹なさった。かねてから右大臣の娘、最上義光の娘をはじめ、36人の側妾を殺害した。義光の娘は奥州一揆のときに秀次が最上に在陣なさったときに献上なさった娘であり、大名に似合わぬと世間が嘲るほどの行いであった。今回このようなことになり、義光も聚楽屋敷におこもりになった。弾正の息子左京大夫は秀次の相婿であったので、大原へ引きこもりなさった。
この詳細会津へ伝わったため、浅野弾正長政は昼夜を分かたず急いで上洛した。
秀次へ付けられていた者のうち、田中兵部・山内対馬・中村式部は謀叛にも関係なかったと思われたのか、問題はなかった。
その他切腹した者は多かった。政宗も弾正へ追い付き、上洛した。秀次と通じていたので、上洛したならば、切腹させられるだろうと、親しくしていた人々から伝わってきたので、特に親しくしていた施薬院に意見を聞いたところ、すぐに大坂へ来て、渡しのところへお越しくださいとのことを仰ったので、施薬院へ行かれた。
何故かというと、秀次の家臣であった粟野杢之助はもともと政宗の家中の者で、弟小次郎のお守りに付けられていた。その頃は藤八郎と行っていた。少しの誤りがあり、死罪になるだろうと思い、北国へ逃げ出した。北国で討たれるかもしれないと様子を見て、北国の城主上郡山民部の家中の者を人質に取り、越後へ退き、その後上洛し、秀次へ仕える様になったのであった。
政宗も秀次の所に参ったとき、杢之助は勘当の状態であったので、どうにかしてやれと秀次の内々のご命令で親しくしていた。
この者は秀次が切腹したとき木村常隆・熊谷大膳・粟野木工助は切腹し、吉田修理は逃げだし、行方はついに知られぬままとなった。
政宗の所へ、施薬院全宗・前田玄以・寺島筑後守正勝・岩井丹波守の4人を使わしてお尋ねになったのは、今回関白秀次の謀叛の一味となり、鹿狩りのとき山へ来て談合をしたのではないかと思われているということだった。
政宗は目を懸けてもらい、たびたび訪問させていただいたが、そのようなことはないことを行った。重ねて、奥州へ下向の際に、秀次からはなむけをもらったことをお聞きになり、それについて申し上げなかったことを咎められた。政宗は大変困惑した。奥州下向の際、暇乞いをするために面会したところ、鞍10口、帷子20、粟野杢野助を介して下された。そのとき4人衆は路次にて相談なさり、「天道はつきた」この一言を申し上げることが出来ず、落涙した。そのことがお耳に入ったので、政宗の子、兵五郎を若君秀頼に被官はじめに預けるので、兵五郎に国を任せ、政宗は遠島にでも送ればいいということになった。在所にいた家老たちも上洛させるべきということになり、そのことを命令するために誓紙を作るまで屋敷に謹慎するよう仰せになった。4人の使いは施薬院の屋敷の中にも入らず、庭から表の庭から御前でのことは収まりました、安心するようにと言われ、その後ご命令の通り言われたので、聚楽の屋敷に帰り、閉門していた。国許へ家老衆が上洛するようにご命令だった。すると入洛の町の人々は、政宗が屋敷へ引きこもり、京中を焼き払い、切り死にするのではと噂になった。想定外の騒ぎになり、親しくしていた人々がお聞きになり、双方の門を開き、屋敷の内を見えるようにし、特に中の者たちは出入りをするのを止めるようにと意見くださったので、表と裏の門を開いたのです。
そのとき、伏見の江戸中納言徳川家康の屋敷前に高札が立った。その札を留守居衆が大坂へ申し上げた。
秀吉を普請場へ来られたときに普請奉行布施屋小兵衛・杉山主計・竹内佐太郎3人を、政宗・義光で討ち果たし、西の33カ国を義光が、東の33カ国を政宗が手に入れるという約束をしたという文言であった。
秀吉公は御覧になり、政宗は嫌われているとお思いに成った。関白に味方したことを申し上げたのも、このような者たちは讒言されているのだろうと思われ、この立て札を立てた者申し出たなら金子を出すという札を立てよとの御言葉であったので、義光・政宗から金子40枚を出され、京に20枚、伏見に20枚を懸けた。知行は望み次第であり、2人から与えられると、奉公衆の名入で室町と伏見の町に札を立てたのだが、結局誰がそれをしたのかわかることはなかった。政宗は赦され、義光も娘をさし上げたあやまりまで赦され、召し出された。
施薬院全宗・前田玄以・寺島筑後守正勝・岩井の4人衆を介してこのことをご命令になり、御対面も問題なく終わった。

感想

若君ことお拾(後の秀頼)が生まれてしまったことで、秀吉と秀次の仲がぎくしゃくしたものになり、ついには切腹にいたってしまったことで起こった事件の余波を書いています。