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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』124:関ヶ原前夜

『伊達日記』124:関ヶ原前夜

原文

一家康公。政宗公御入魂の故か。政宗娘を上総殿へ御取合成られ度思召。宗薫を以御内証に候。四人の大名衆聞召され。秀吉公御他界の砌五人の大名衆申合仕置き仕べき由仰置かれ候所。各相談無く縁初の儀覚悟の外由仰られ。宗薫を死罪に申し付くべき由に候。家康公。政宗公。左候はば御相手に罷成るべき由仰られ候故其後は其沙汰無く候。石田治部少輔乱逆を存立。家康と四人衆間を申へだて候由に候。家康は向島に御座なされ候処に押懸候などと伏見。大坂唱事候。佐竹義宣伏見より治部少輔へ御出。治部少輔を義宣一つ乗物に御のせ御帰。御屋敷にかくしをかれ候。大坂にては治部少輔欠落の由にて唱候事相止候。然而義宣大津迄治部少輔を召連。棹山へ送らせしめらる由申候。其年より二年過景勝へ上洛有るべき由家康仰遣はされ候所。秀吉公へ五年の御暇申上候間罷登間敷由仰られ候。其に就いて浮田殿。毛利殿。筑前殿へ御たづね候而重而上洛候への由仰遣され候へども。景勝御上洛ある間敷由仰られ候。左候はば景勝を御退治有べき由にて。伏見御留守居として鳥井彦右衛門に人数三千計指添籠置かれ候。江戸へ御下向に候。治部少輔竿山より方々へ申合。景勝も御同心にて乱逆企申候。

語句・地名など

現代語訳

家康は政宗と仲よくしてらした為か、政宗の娘を上総介忠輝と娶せるよう思われ、今井宗薫を使者として、秘密裏に縁談を進めた。
4人の大名の皆様がこれをお知りになり、秀吉が他界したときに、5人の大名衆で相談して仕置を行うようにと言いつけになったというのに、それぞれ相談もなく、縁談を進めるのは違反であるとして、宗薫を死罪にするようにと仰られた。家康と政宗はそうであるならば、相手にするということを仰られたので、その後は鎮まった。
石田治部少輔三成は反逆を思い立ち、家康と4人衆との仲をわざと隔てるようにされた。家康は向島にいらっしゃったところに押しかけたなどと伏見・大坂で噂になった。
佐竹義宣は伏見から三成のところへお越しになり、一つの駕籠に乗せて、お帰りになり、屋敷にお隠しになった。大坂では三成がいなくなったので噂は止まった。そして義宣は大津まで三成を連れて行き、佐和山へ送った。
その年から2年過ぎ、景勝へ上洛するようにと家康がご命令になったところ、秀吉へ5年の暇をいただいたので、上洛しないでいると言って返したため、家康はそれについて、宇喜多・毛利・前田へお尋ねになり、くりかえし上洛するよう言いつ交わされたのだが、景勝は上洛しないと言ったため、そうであるなら景勝を退治するとお決めになった。伏見の留守居役として鳥居彦右衛門元忠に軍勢3000ほどおつけになり、さしおかれた。
家康が江戸へ下向なさったので、石田三成は佐保山からあちこちへ言い合わせて、景勝も同意し、反逆を企てた。

感想

秀吉の死後、すぐに家康と政宗は子息の婚姻を決め、それが知れ渡り、騒ぎになりました。そしてその後2年の間に世は家康の方に傾き、それに対し反感を持った三成との対立が起こってきました。それに上杉が呼応し(たと思われ)て関ヶ原の戦のタネがまかれました。