[sd-script]

伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『名語集』42:伊達安房屋敷にて宗碧を手討にす、同屋敷失火

『名語集』42:伊達安房の屋敷にて宗碧を手討にする、同屋敷の火事

原文

一、或時、伊達安房守殿にて、ことごとく作事出来し、日がらを以て、貞山様を御申入れられ、朝は御数寄屋、さてそれより御書院に於て、いづれも御親類衆・大身・小身、みなみな長袴なり。御主様も御長袴めさせられ、万事御作法ただしく見えさせられ、御能終日、御見物あそばされ候。其の日、兵部大輔殿、鵺をなされ候。惣別、御はなし御挨拶のためにとて、御相伴衆をも、御座敷の縁側にさしおかれ候。御相伴衆のうち、宗碧とて、京方のものにて御座候を、別して御取立て、知行百貫文が、所役なしに下され、年もより申したるものなれば、いよいよ不便におぼしめし候事、ななめならず。その日も宗碧、御相伴仕り、御書院にて御親類衆の中につらなり、御縁側御座近う、さしおかれ候。兵部大輔殿、御能なされ候に、諸人感を催しける。まことにいたいたしける御事にて、音曲、拍子にかなひ、御かたち優に見え給へば、御前にても、御機嫌一入御よく見え、見物の上下、感涙胆に銘じける。折ふし、かの宗碧、感にたへず、醉興の心やきざしけん、また御機嫌に入らんとや存じけん、御座近く躍り出で、「兵部大輔様の御能、さてもさても」と、聲を上げ、頭をさすり、立ちあがり立ちあがり、ものの音もきこえぬほど、浮気にたちふるまひ申す。貞山公にても、憎しとおぼしめし候へども、御座敷の興に御もてなし、それぞれにあひしらひ、さしおかれし所に、たちまち御罰やあたりけん、なほしづまらで、御膝近くねぢより、「やあ殿よ殿よ、あれよく見たまへ。いかなる夷鬼神なりとも、いかでか泣かであるべき」とて、聲をあげて泣き叫ぶときに、俄に御気色変り、御側なる御腰の物、抜きうちに、しとど討たせらる。されども命をば不便とや、おぼしめしけん、薄手おふせて、御腰の物を引かせらるる。件の宗碧、黒衣たちまち赤く染めかへる。さて、御座敷を立たせられ、わきの座敷へ御入なされ、奉行衆を以て、御亭主安房守殿はじめ、各へ仰せ分けらるるは、「只今の様子、みなみな慮外とおぼしめし候はんこと、痛み入り、恥ぢ入り申し候。御亭主へは、今日、いかやうの事ありとも、腹立つことゆめゆめあらじと、かねてより思ひ候処、不慮の事、是非におよばず。さりながら、よく物を分別して、各も御覧候へ。この宗碧事は、別して取立てのものなれば、いかなる事ありとも、免して朝夕不便を加へ、今日まで候ひしぞかし。その上、今日の事は、内々のことなどならば、いかほど申すとも、結句、時の興とあひしおき申すべきが、けふの能見物とて、庭上に数百人とり入り候。わが国なれば、袴なしにも楽に見物せまく候へども、かやうに貴賤行儀正しくとり行ふ事も、われを重んずる故ならずや。国のものどもをも恥ぢて、われさへ乱りの無きやうにと、心づかひは為いでかなはぬ身なり。又けふの芝居の中に、一国の者、一人づつはあるべし。かやうの儀、そのままにしておくならば、国々へ帰りて、いつぞや奥州へ下りし時、政宗の親類、安房守といふ人の所にて能ありしに、万事行儀正しきやうにふるまひけれども、側に年比の相伴坊主ありけるが、子息兵部大輔殿能のとき、殿や殿やあの子供の能を見て、泣かぬはあまりなりなどと、いかにも心安げにいひけれども、その通りにてありける。人は聞いたると、見たるとは、各別ちがふものよ。官も中納言ぞかし。似はぬなどと、とりどりに言はれんは、くちおしき次第なり。只今の腹立ちは、ここを以ての儀なり。亭主へ何もさはる事なし。さあれば、わが機嫌のあしき事もあるまじ。おのおのも、心をほどこし、気遣ひなく、能をも御らん候へ」と、御使を以て、何れもへ仰せ分けられ候ゆえ、いづれもありがたき御事、御諚尤もと感じ申され、其の後、御本座へ出御あそばされ、いよいよ御機嫌よく、終日御能御らんじ、夜に入りて御帰り遊ばされ候が、ここに希代不思議に、諸人存じたてまつり候御事は、日暮れ申すと、御前衆、或は御小姓頭衆など、召させられ、「何とやらん、今宵火事出来せんと心中にたへず。亭主方のものは、皆くたびれ候はんに、こなたより申付け、用心つよくさせよ」と、ひたすら仰付けられ、御立ちざまに、御自身、くさりの間の爐のうち御取らせ、水など御かけさせ、わざと数寄屋へ出御なされ、爐の中を御らんじ、そのうへ、佐々若狭を召させられ、「いかさま、今夜火事出でんと思ふなり。其方、跡にとどまり、爐中爐中に水をかけさせ、罷り帰れ」と、仰付けられ、御帰城なされ候。諸人も心つき、なるほどなるほどと火事の用心仕り、少しもあたたかなる所へは、水をかけ申すやうに仕り候へども、その暁、水をよくかけ申し候置囲炉裏より、火あまり、房州御屋敷、残りなく火事いたし、並びたる御町も、あまた焼け申し候。諸人、胆を消し、易からぬ御事と、舌をふるひ申し候。次の日、即ち御自身、御指図を以て、御作事悉くなされ進ぜられ、日頃御取立ての宗碧をば、諸奉行衆に仰付けられ、「日頃の御取立て、不便におぼしめされ候間、身命相助けられ候。里離れたる島へ流し候へ。さりながら、扶持などは迷惑いたさぬやうに」と、仰付けられ、又「成人の子供をば、その島近所の城代に預けおくべし。女房以下をば、親類にあづけ候へ」と、仰付けられ候。かやうに事済み候てのち、三十余日を過さぬに、不慮のことありて、宗碧父子御成敗なされ候。天命のほど、諸人身の毛を立てて、恐れ申さぬはなし。

地名・語句など

所役:役目・任務
不便:迷惑/可哀想
いたいたし:可哀想だ・気の毒だ/程度のはなはだしいさま
一入(ひとしお):いっそう
鎖の間:六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室。

現代語訳

あるとき(寛永11年2月23日)、伊達安房守成実の屋敷の工事がすべて終わり、よき日を選んで、貞山様(政宗)をお迎えになった。朝は数寄屋にて茶を、その後書院にて能を見ることになった。親類衆・身分の高い者、低い者も、みな長袴を着け、政宗も長袴をお着けになって、すべて作法の通りになさり、一日中能を見学なされた。
その日、兵部大輔宗勝は鵺を演じなされた。普段、お話や挨拶のために、相伴衆を家臣とは別に取立て、座敷の縁側に置いておられた。その相伴衆のうち、宗碧という、京のものを、特に取立て、100貫文の知行を役目なしにお与えになっている者があった。年も取っている者であったので、ますます面倒だと強く思われていた。
その日も宗碧は相伴し、書院の親類衆の中にまじり、政宗のいる縁側の近くに置かれていた。宗勝が能をしたとき、人は皆感動した。まことにすばらしいようすで、音曲や拍子に負けず、踊るさまが優美に思われたので、政宗もいっそう機嫌よく思われ、見ていた者たちはみな感動して涙を流し、心に刻んだ。
そのとき、その宗碧は感動がすぎ、また酒に酷く酔ったのか、また政宗に気に入ってもらおうとおもったのだろうか、政宗のいたところの側までおどりでて、「兵部大輔様のお能はさてもさても」と声をあげ、頭をさすり、立ち上がって、ものの音もきこえぬほど、うかれて振る舞った。
政宗も憎らしいとお思いになったけれども、座敷の雰囲気に、もてなしなど、それぞれに手を込めて手配したことが、すぐさま台無しになるだろうと思われたのだろうか、宗碧はまだ鎮まらず、政宗の膝近くねじより、「やあ殿よ殿よ、あれをよく御覧なされ。いかなる東の鬼神であっても、泣かないということがありましょうか」と声をあげて泣き叫んだとき、急に政宗の様子が変わり、そばにあった刀を抜いて急に打ちかかり、しとどに濡れるほどお打ちになった。しかし、命をとるのは可哀想であるとおもったのだろうか、浅い怪我を追わせて、刀をおしまいになった。この宗碧の黒衣はたちまち赤く染まった。
政宗は御座敷をお立ちになり、わきの座敷へ入られた。奉行衆を介して饗応の主人であった伊達安房守成実をはじめ、それぞれへ仰ったのは「今の様子、皆が何があったのかと思うだろうこと、大変痛み入り、恥ずかしいと思う。亭主の成実に対しては、今日どのような事があっても、腹を立てるようなことは絶対にしてはいけないと、かねてから思っていたのだが、想像外の出来事が起こってしまって、仕方がなかった。しかし、それぞれよく物事を考えてみて欲しい。この宗碧は特別に取立てたものであるので、どのようなことがあっても、許して毎日いらだちを感じており、今日まで側に置いていた。その上、今日のことは、うちうちのことであるならば、どんなことを入っても、結局そのときのふざけとして片付けるが、今日の能見物は庭に数百人の見物人が集まっている。私の国の内であれば、長袴なしで、気楽に見学するけれども、このように身分の高い者から低い者までみな礼義正しく行っているのは、私を重んじるが故のことでないことがあろうか。国の者たちも恥ずかしく思い、私も乱れたことのないように心遣いをしていたが、叶わなかった。また、今日の見物人の中に、様々な国の者が一人ずつはいるだろう。このようなことをそのままにしておいたなら、それらのものたちが国に帰り、いつだったか奥州へいったときに、政宗の親類の安房守という人の所で能があったときに、すべて行儀正しいように振る舞っていたけれども、そばにいた年配の相伴坊主が子息の宗勝の能のとき、『殿や殿や、あの子供の能を見て泣かないのはおかしい』などといかにも心安くいっていたけども、その通りだ、人は聞いたり見たりするのとはそれぞれ違うものだ。官位は中納言だろう。身分に見合わないなどといろいろ言われるのは、口惜しいことである。ただいまの腹立ちはそのことであり、饗応の主には何の障りもない。なので、私の機嫌が悪いはずもない。みなもこころをほどき、気遣いすることなく、能を見るがいい」と使いを介してみなへ仰ったので、そこにいたものはみな、有り難いことであり、御言葉はもっともであると感動なさった。その後政宗は元々の場所へお戻りになり、ますます御機嫌良く、一日中能を御覧になり、夜になってお帰りになることになった。
ここで大変不思議なことだとみなが思ったことなのだが、日が暮れたところ、側近く仕えている者や、小姓頭たちをおよびになり、「どうしてだろうか、今日夜、火事が起こるのではないかという予感がする。館の主の家臣たちはみなくたびれているだろうから、こちらから言いつけて、用心を強くさせよ」と何度も仰った。出発するときに、御自身で鎖の間の炉のうちをお取りになり、水などをかけ、わざわざ数寄屋へお入りになり、炉の中をごらんになり、その上、佐々若狭をお呼びになり、「どのようにかわからぬが、今夜火事がおこるのではないかと思う。おまえはここにのこり、それぞれの爐中に水をかけさせて、帰ってこい」とご命令され、城にお帰りあそばされた。
みな気を付けて、なるほどなるほどと火事の用心をし、少しでもあたたかなところには水をかけるようにしたのだが、その暁、水をよくかけておいた囲炉裏から火が出て、安房守の屋敷は残らず燃え、並んだ町も数多く燃えてしまった。みな大変に驚き、滅多にないことだと、舌をふるって言い合った。
次の日、すぐに政宗は御自分で指図をして、もう一度工事をやり直すように仰り、日頃取り立てていた宗碧を奉行衆にご命令になられ「日頃の取立てで、哀れに思ったため、命は助ける。人里離れた島へ流せ。しかし食い扶持などは不便の内容に」とご命令になり、また「成人した子をその島の近所の城代に預けおけ。女房たちは親類にあずけよ」と御命じになった。このように事が終わった後、30日も経たぬうちに、予想外のことがあり、宗碧親子は処刑された。天の命令であるとみな鳥肌を立てて恐れて言わぬ者はなかった。

感想

寛永11年2月23日に行われた、新築成実屋敷の饗応での出来事、及びその翌日の火事についての記事です。この日はいわゆる「御成」であり、朝から茶の席・長袴を着ての能見物がありました。
この日は様々なことが起こりました。
この能会は、様々な国から来た数百人の見物人がいたことが政宗の言い分からわかります。普段ならば長袴を着ることもなく、気軽に見るけれども、この能会は皆が長袴を着けており、フォーマルなものとして行われたようです。この能舞台が臨時のものか常設のものかははっきりとはわかりませんが、数百人が見られるということから、かなり大がかりなものであったことがわかります。
そこで、宗碧という相伴衆が酔っ払ってか機嫌を取ろうとしてか、ひどくみっともない様子をしたため、政宗は怒り、宗碧を殴打したあと、部屋に籠もってしまいました。政宗は亭主(成実)には関係ないと言ったあと、ふたたび能会は進みます。
そこでまた事件が起こります。
帰ろうとした政宗は火事が起こるのではないかと考え、念入りに火の用心をさせます。佐々若狭らにも命じ、また成実の家臣たちにも強く言い、用心をさせました。
しかし、その翌日の明け方、なぜか消したはずの囲炉裏から火が出て、成実屋敷は焼失してしまい、廻りの町をも燃やしてしまいました。
正直、この火事に関しては何があったんだかよくわかりません。
怪異なのか、政宗の逆説的な命令で館を燃やしたのか。町まで燃えるとなると大ごとです。何があったんでしょうね。
この事件があったあと、28日に政宗が成実を召して、自ら新しい屋敷の指図をしています。

この記事は他の書物にもかかれており、『政宗記』10-1:成実所振舞申事や、『木村宇右衛門覚書』20にも類似記事があります。
『政宗記』10-1はこちら↓
sd-script.hateblo.jp
こちらは亭主(=成実)側の記録らしく、どのように用意していたか、またこの事件を思い出しての成実自身の感慨などの記述が詳しいです。

『木村宇右衛門覚書』ではさらに宗碧を殴打するまでに政宗と成実がそれをどうにか紛らわそうとしてか、イヤミを言っているシーンなどもあり、非常におもしろいです。とにかくこれは非常に大変な事件だったようです。
(この記事はまた後日アップしたいと思います)