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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇

原文

一、有年、伊達安房成実若林の屋敷新宅出来、吉日を選び太守公被為成候。朝は御茶の湯過候て、鎖の間にて色々飾り薄茶を終わって書院に出御、外舞台にて御能作法のごとく、大夫に唐織と箔の物太刀折紙、惣役者つみ銭百貫、太守公御長袴召させられ候故惣侍長袴也。書院上座真中に御着座、御敷居の内に石川民部殿伊達安芸殿伊達武蔵殿白川殿岩城殿、次の間に御一家御一族、御挨拶の為、御縁側に松前市正法橋衆衣体衆、見付のの御際に宿老衆、一間ほど引き下がって年寄衆に茂庭周防奥山大学、書院の座とまりに石母田大膳片倉小十郎、少引き下がって大身衆段々伺候す。どなたまでも御作法正敷御事にて御能始まる。此頃伊達兵部殿千勝と申侍りしが、其日能二番鵺と小袖曾我めされ候。宗碧とて京方の者なれども御伽の衆に御取たて御知行百貫被下年老たるものなれば、別而御不憫におぼしめし、其日も朝の御茶の湯相伴仕り、沈酔やいたしけん又天命やつきけん、御座敷の縁側に中座して能を折折誉めけるが、千勝殿いたいけなる能をみて太守公御側近くさし出て、千勝殿御能扨も扨もしほら敷御事かな。あれを御覧して御誉めあれかしと申上る。太守公聞こしめし笑はせ給ひて見事能する也、其方は年寄役にただ物ほめ候へと仰られ、御一門衆に御向かひ、宗碧か為体今朝数寄屋にて少被下たる酒に酔い、さし出ておのおの御覧候前にてむさと申度ままの事申也。年ほど無念なるものはなし。酒までも弱くなる事不憫なりとの給ふ。成実御意のごとく年の寄るほど万口惜しき事御座なく候。此頃は殊の外衰へ見へ申候など御座興になる。しかあれどもなをさし出てとやかく申せとも、それぞれに御あしらひ酒に酔いたるな、しばし陰にたち休息して出よとの給ふ。なを御側近く参り、まったく御酒には被下酔申さぬ由申上る。酒に酔わすば乱心するかと笑わせ給ふ時、又申上るあの御子の御能御覧候て泣かせられぬは強き御心なりと申上る。聞こしめさぬふりにて御挨拶なけれは、や、殿殿あれを見あれ、さりとては心強き御人かなと申候へば、俄に御気色かわって御側なる御腰の物とらせられ御座を立たせ給ひながら、宗碧が天辺を鞘まま二つ三つしたたかに打たせられ、近頃空け尽くしたる奴かな、所から悪しければ首は助くる、座敷追ったてよとの給ひて入らせ給ふ。宗碧黒衣の衣装たちまち色変して立ち退く。其の後御家老衆を以て御亭主始め御一門衆へ仰訳也。唯今は近頃無礼見苦しくおぼしめし候はん事拠なし。さりながら予が存る所聞給へ。宗碧と申者は各々も御存のごとく、別而不憫を加へ取立てのものなれば、如何様の事申も常は赦し、荒き風にも当たらぬ様にと側近く召し使ふ所に、今日の仕方は乱心したると見えたり。あるいは野山又は密なる所にての事ならば、日頃愛したる者なれば、目先もちかふ間愛し置候事も候はんつれども、けふは国にをゐては晴がましきもよほし、芝居の白洲に数百人とり入候もの、たとえば一ヶ国のもの一人づつは有べし。然れば天下の目晒のみる所にて聞かぬふりにてあるならば、かのもの共国元へ帰り、いつぞや奥州へ下りし時、政宗親類に伊達安房とて有しかたへ振舞の時能ありし。尤其身も中納言にへあかり一門家老作法正敷様には見えけれども、伽する坊主いかにも親しく子供衆の能するを、座興とはおもへども尾籠の至り、其まま愛しをかれたるはかねてさようの仕掛と見えたり。さなくは空けものを愛す人か、音に聞きたると見たるは格別違うぞと、とりどりにいわれんは口惜しき事なりと、是をもっての義也。亭主も心に懸けられず、各々もさように存ぜらるべし。こなたに機嫌悪しき事なしと仰訳候へば、いづれも至極の御意なりとてやがて出御、終日能終わって帰り給ふ時、火の用心肝要也と被仰付、鎖の間にしばし被成御座、佐々若狭石田将監被召出、何と哉ん火事出んと、ややもすれば胸にたたす。内衆は此ほどの草臥に今日振舞過隙明たると油断有べし。両人は御跡に止まり、屋敷中用心よく申付帰るべしと残しをかる。さるによって両人心の及ぶ所は見届け、そこそこに不寝の者をきて帰る。明方近き頃、置囲炉裏の火よく消し水をかけ子細なしと置たる所より、火底の板に焼けぬけ燃へあかり、成実の屋敷残らず並びの町二三町消失也。太守公さればこそ不思議なれ、城へ帰り候ても火事といふ様にはかり思ひ、随分用心しての上にも焼け候事は天命也とて、翌日より御自身指図あそばされ作事御取立て也。扨又前に申たる宗碧事、御側ちかく被指置たる御慈悲に身命は御助け、陸近き島に流し、物をも心安く被下様にいたし、妻子は其島近所の城主に飢へここへぬ様に宛行預け置べしと奉行衆に被仰付、かくて三十余日経ぬ内に宗碧天命尽きたる印には、宗碧が兄道巴とて生心つきたる茶の湯好くもの有。一年江戸にをゐて、御婿上総守殿両上様へ御茶御上候付、御路次数寄屋の物数寄は政宗へ御頼候へと御内意によって頼み申度旨、上総守殿被仰候。これによって日々御通ひ路次御取立て、すでに御手水前の石共、袖すりの木御植へさせ、明日の事に申べしとて御帰の跡へ道巴御見舞申上る。上総の守殿道巴に方々見たるか、其方は茶の湯の心あれば木などの曲がりたるなどよく見よとの給ふによって、御路次へ参り、此石悪し此木の植へ所悪しきなど申て、石三つ四つ直し申也。木も一二本植へなおす。翌日太守公御出御覧して、是は上総の守直し給ふかと問ひ給へば、道巴が業なりと申。何者なれば上総殿の路次といひ、我等植へさせたる木を直す事推参至極、にくきやつかな是非つれて参れ、木石の悪き子細を尋ね晴れなきにをゐては、見せしめのため路次に獄門にかけて木を直させんと御腹立ち給へば、行衛なく逃げ失せぬ。尋ね給へども見えず、此意趣はれんれん探し出してとおぼしめせども、兄弟といひながら宗碧は御国にはかりさしをかるるものなれば、さのみ御祟りもなき所に、かの道巴が子供を宗碧所に数年隠し置、今度妻子御預けの時此ものは甥にて他国の者なりと知るる。道巴口惜しくおぼしめす事は、存の前にてかやうに御後ろ暗き事口惜しくおぼしめし、宗碧親子道巴が子供御成敗也。天罰逃れがたしとみな人申あへり。前に申安房殿屋敷にをゐて色々不思議なる事有と後に人々申也。太守公御成の一日前に路次の掃除最中に、いつく共なく鳶二つ中にて組あひ、路次の木の中へ落ると等しく二つながら死にけり。又其夜鼬いくつといふ数しらず、書院広間の庭に出て駆け歩き食いあひて、塀の控へ柱に伝わり屋根に上がり、天水桶の水をすくひたて浴びなどして、西隣の屋敷をさして行き去りぬ。又楽屋にて桜井八右衛門翁表を箱の蓋の上に飾り、いつものごとく神酒を供へ候所に、脇にたて置たる役者の刀、五六腰転びかかりぬけたり。大夫心に今日道成寺のあるに気の毒なりとて、行水などして観念し、すでに大夫幕際にかかり、面箱持ちの立ち上がり出る跡を見れば、なるほど凝りたる血吊橋の方へ四五ヶ所こぼれて見ゆる。大夫みて外へ行たるほどに、内に怪我はあらじと心に思ひ出たると也。宗碧が仕合、屋敷の火事後に人是を不思議といふ也。
*此ヶ条相違無御座候。私も其日罷出御能見物仕候。安房殿やしきにての物怪は不存候。舞台にて血こぼれ申候儀は、桜井八右衛門直咄承候事。

語句・地名など

鎖の間:六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室。
薄茶:抹茶の一種。製法は濃茶と変わらないが、古木でない茶の葉から製したもの。また、それでたてた茶。濃茶より抹茶の分量を少なくしてたてる。
法橋衆・衣体衆:僧侶衆
天水桶:防火用に雨水を貯えておく大桶。昔は屋根の上・軒先・町かどなどに置き、雨樋の水を引いた。

現代語訳

ある年、伊達安房成実の若林城近辺の屋敷が新築され、吉日を選び政宗が御成なされた。朝は茶の湯を過ごし、鎖の間にていろいろと飾り、薄茶を終わった後、書院に出、外舞台で能を行った。正式な作法通り、大夫に唐織りと箔の物太刀・折紙を与え、すべての役者に100貫を与えた。
政宗が長袴を着られたので、すべての家臣たちが長袴を着けた。書院の上座の真ん中に政宗がお座りになり、敷居の内に、石川民部・伊達安芸・伊達武蔵・白川・岩城らの一門衆が、次の間に一家・一族の者たちが居並んだ。挨拶のため、縁側に松前市正ら僧侶衆、目付の際に宿老衆が、一間ほど下がった所に年寄り衆と茂庭周防・奥山大学、書院の座とまりに石母田大膳・片倉小十郎がおり、少し下がって大身衆が一段一段列になって並んでいた。どの人であっても作法の通りにして、能会が始まった。この頃、後の伊達兵部宗勝は千勝と呼ばれていたが、その日能を二番、鵺と小袖曾我をなさった。
宗碧という京の方の者であるが、御伽衆に取り立てられ、知行100貫を与えられていた者がいた。年寄りなので、特別に気の毒だと思われ、その日も朝の茶の湯の相伴をした。酷く酔ったのか、それとも天命が尽きたのか、座敷の縁側の真ん中に座り、能をそのときそのとき誉めていたが、千勝丸の幼くかわいらしい能を見て、政宗のそばちかくまで出てきて、「千勝殿のお能は大変優美なものである。あれを見てお褒めになられますように」と申し上げた。
政宗はそれをお聞きになり、お笑いになって、「能は見事である。おまえは年寄りの役目としてただものを褒めていろ」と仰られ、一門衆に向かって、「宗碧のていたらくは、今朝数寄屋にて少し与えた酒に酔い、でしゃばってみなの見ている前にてむさ苦しく、いいたいことそのまま言っている。年を取ることほど無念なものはない。酒までも弱くなることは気の毒であるなあ」と仰った。成実は「仰ったとおり、年の取ることほどすべてにおいて口惜しいことはない。このごろはとくに衰えてしまっている」と冗談を言われた。
しかし、それでも宗碧はなおでしゃばってとやかく言ったが、政宗はそれぞれに挨拶をいい、「酒に酔わないように。しばらくかげに出で休んでこい」と言った。宗碧はなお側近くに居り、「まったく酒には酔っては居ません」と言った。「酒に酔わないのであれば乱心するか」とお笑いになったとき、また「あの御子息の能を御覧になって、お泣きにならないのは強きお心であります」と言った。政宗は聞こえなかったふりをして、返事をしなかったが、「や、殿、殿、あれを見なされ、それにしても心強い御方ですなあ」と言ったところ、急に政宗の様子が変わり、お側にあった刀をお取りになり、お立ちになりながら、宗碧の頭を鞘をつけたまま2,3回強く殴打した。
「もううつけつくしたのか、このような場であるから、首は助けてやる。座敷から出ていけ」と仰って、お部屋におこもりになった。宗碧の黒い衣はたちまち色が変わり、その場を退いた。
その後、家老衆を介して饗応の主人である成実をはじめ一門衆へ言い訳をされた。
「ただいまの言動はこのごろ礼義がなく、見苦しく思われることは仕方ない。しかしながら私の思うところを聞いて下さい。宗碧と言う者は、皆様も御存知の様に、特に気の毒に思い、取り立てた者であるので、どんなことを言っても普段は許し、世間の荒い風にもあたらぬようにと、側近く召し使っていたところに、今日の様子は乱心したかと思った。野山や、または内々の所でのことであったならば、日頃愛情を傾けていた者なので、目先も近いほど愛したこともあったけれども、今日は国に於いて、晴れがましき催しであり、芝居の白洲に数百人もの人が集まっている。その中には、一国のものが一人ずつは居るだろう。なので、天下の衆目が集まっているところで、聞かなかったふりでそのままにしておいたなら、その者たちは国元に帰り、『いつぞや奥州へ言ったとき、政宗の親類の伊達安房というところで振る舞いのとき、能があった。政宗は中納言にまで出世し、一門・家老たちも作法正しくしているように見えるけども、伽をしていた僧侶はいかにも親しげに子供が能をするのを、冗談とは思うけれども、礼義をわきまえないことしきりで、そのまま寵愛して側においておるのは、いつもこのような感じなのだなと思える。そうでなければうつけものを愛す人なのだろうか、噂で聞くのと、見るのではかなり違うぞ』といろいろといわれるのは口惜しいことであると思っての事である。主人も気にせず、みなもそのように思ってくれ。おまえたちに対して機嫌が悪いわけではない」と仰ったので、みなこの上ないお考えであると思った。
やがて政宗は現れ、一日中能が行われ、終わってお帰りになるとき、火の用心が大事であると仰られ、鎖の間にしばらく居られ、佐々若狭・石田将監を呼び出され、「なぜだろうか、火事になるのではないかと、もしかしたらという予感がする。この屋敷の者たちは今回の支度でくたびれ、今日の振る舞いが終わり、隙があるから油断があるだろう。二人は後に止まり、屋敷中の用心をよく言いつけて帰れ」と置いていった。そのため、若狭・将監の二人は気がつくところはすべて見届け、至るところに寝ずの番を置いて帰った。
明け方が近い頃、置き囲炉裏の、火をよく消し、水をかけ、問題ないと思っていた所から、底の板が火があがり、燃え上がり、成実の屋敷は残らず燃え、並びの町2,3町も焼失してしまった。
政宗は「やはりそうだったか、不思議なことだ」と城へお帰りになっても火事のことばかりを思い、あれほど用心したのに火事になってしまったのは天命であると言って、翌日から御自身で指図され、工事を行われた。
さて前述した宗碧の事だが、御側近く仕えていたため、慈悲を以て命はお助けになり、陸の近い島に流し、何事も問題ないようにして、妻子は島の近所の城主に、飢えたり凍えたりしないように扶持を与えて預けよと奉行衆にご命令になった。30日過ぎないうちに、宗碧の天命が尽きた理由には、宗碧の兄で、道巴という、中途半端に茶の湯を好く者があった。1年江戸に於いて政宗の婿である上総守忠輝殿、両上様へお茶を献上したため、路次数寄屋のしつらえは政宗へ頼めとのお心であったので、政宗に頼みたいと上総守殿は仰られた。
このため、日々お通いになる路次作りをされ、すでに手水前の石や袖すりの木を植えさせ、明日には完成させようとお帰りのところに道巴が見舞いに来た。上総守は道巴に「あちこちを見たか。おまえは茶の湯の心得があるなら、木などの曲がり具合などよく見よ」と仰られたので、路次へ来て、「この石は悪い、この木の植えた場所は良くない」などと言って、石を3,4つ直した。木も1,2本植え直させた。
翌日、政宗がお越しになり、御覧になり、「これは上総守がお直しになったのか」と問うと、道巴がしたことであると申し上げた。「上総の守の路次であり、私が植えさせた木を直すなど、無礼の極みであり、何者のつもりであるか。憎いやつである。是非連れて来い、木や石の悪いという理由を聞き、ハッキリとした答えがないのであれば、路次に獄門にかけて、木を直させよう」と腹をお立てになったので、行方知れずになって、逃げて消えた。行方をお尋ねになっても見つからず、このときのわだかまりは長く続き、探し出したいと思っていたが、兄弟とはいえ、宗碧は国元にばかり置いていたので、それほどお怒りもなかったところ、この道巴が子供を宗碧の所に数年隠しおいており、今回の妻子がお預けになったとき、この者が甥で、他国の者であったと知った。道巴にたいして口惜しくお思いになる理由は、このように後ろ暗い事を口惜しくお思いになり、宗碧親子と道巴の子供を処刑なさった。天罰からは逃れがたいと人はみな言い合った。
前述した安房屋敷においていろいろと不思議なことがあったとのちに人々は言った。政宗の御成の一日前に、路次の掃除をしている最中に、どこからともなくトンビが二つ飛んできて、くみあい、路次の木の中に落ちると、二つとも死んだ。またその夜イタチが数えることが出来ないほど多く、書院広間の庭に出て、走り、歩き、食い合って、塀の控え柱を伝わって屋根に上がり、防火用の桶の水をすくいたてて浴びるなどして、西隣の屋敷を向かって行き去った。
また楽屋にて桜井八右衛門、翁の面を箱の蓋の上に飾り、いつものように神酒を供えていたところ、脇にたておいていた役者の刀、5,6本倒れて、抜けた。大夫は、今日は道成寺があるのに気持ちが悪いと、行水などをして心を静め、大夫が幕際にかかり、面箱持ちが立ち上がって出ていったあとを見ると、たしかに固まった血が吊り橋の方へ、4,5ヶ所こぼれているのが見えた。大夫はこれを見て外へ行ったのは、内にけが人はないだろうと思ったためである。
宗碧の出来事、屋敷の火事のことは、のちに人々は不思議なことだと言った。
*この条のことは間違いないことである。私もその日屋敷に行き、能を見物したのである。安房殿の屋敷でのおかしな事は知らない。舞台にて血こぼれが有ったことは、桜井八右衛門の話を直接聞きました。

感想

寛永11年2月に、若林城のそばにできた成実屋敷での出来事を書いた記事です。
この記事は他の書物にも書かれており、『政宗記』10-1:成実所振舞申事、『名語集』42にも記事があります。
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それぞれは筆者が違い、視点が違うのがこの記事のおもしろさになっています。
『政宗記』『名語集』では、饗応が行われたこと、政宗が宗碧について激怒したこと、政宗の弁明、火事の話題に続き、遠島になった宗碧が一ヶ月後に処刑されたところで終わっていますが、木村宇右衛門は他にも屋敷におかしな事件が起きたことを述べ、宗碧の兄道巴がそもそも政宗の怒りを買っていたことを記し、終えています。特に謎の血痕については、「直接聞いた」と注に述べるほどです。
『政宗記』では若林の町についてと、政宗の弁明、それに対する成実本人の感慨が中心で、『名語集』では宗碧事件を中心に、そして『木村宇右衛門覚書』では木村宇右衛門が見聞きしたことが加えられています。
こういう事件があったこと、政宗がどう語ったかはほぼ共通しており、こういう事件があったことは事実だと思われますが、それぞれの記事から違う事情が伝わってきて非常におもしろいです。