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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『正宗公軍記』2-7:大内備前御訴訟相済み御目見申され候事

『正宗公軍記』2-7:大内兄弟の件が落着したこと

原文

同年三月廿三日、玉の井の合戦見候て、帰り候小十郎は、大内備前・片平助右衛門罷出でられ候を、相待たるる由にて、二本松へ罷越し候て、逗留致し候所に、四月五日の晩に、かち内弾正と申す者、大内備前甥にて候が、片倉小十郎宿へ参り候て、大内備前、今夜本宮へ参り候、明日は片平助右衛門、手切申すべき由申すに付いて、片倉小十郎同道にて、本宮へ罷越し候。備前に、六日の朝面談候所に、備前申し候には、助右衛門も御奉公仕るべき由、堅く申合せ候へども、少しの儀出来、兄弟間に罷成り候拙者に、腹切らすべしと申すに付いて、漸々相退き参り候由、申され候。総別、助右衛門、御奉公仕るまじき覚悟に候を、備前身上の為計りを以て、助右衛門御奉公と申され候や、大内参られ候上は、助右衛門も御奉公仕られ候か。又片平の地を、会津より盛替へられ候か、如何様、只今の分にては、差置かるまじく候。兄弟の分別違ひ候由、小十郎と両人の噂を申し候。大内罷出で候て、無人数なりとも、一働申さず候ては如何に候間、阿児ヶ島へ働き申すべき由申合せ、白石若狭・片倉小十郎・我等三人の人数を以て、阿児ヶ島へ働き申し候へども、内より一人も罷出でず。此方より仕るべき様これなく、引上げ候。又翌日働き申し候へども、塩の松の内に居り候石川弾正と申す者、相馬へ身持替へ、白石若狭知行の内へ手切仕り、火の手見え候間、若狭は、働の中途より帰り申され候。我等小十郎計り働き候へども、何事なく打上げ候。小十郎、八日に大森へ帰り申され候。大内備前は、米沢へ伺候仕り、御目見え申したき由申され候條、我等家中遠藤駿河と申す者差添ひ、米沢へ相登らせ申し候。
石川弾正、四月十四五日時分、白石若狭抱の西と申す城へ草を入れ、其身も罷出で、しごみ居り、朝早々、内より一両人罷出で候ものを、草にて討たれ、城中より出会ひ候所に、弾正助合ひ、内より出で候衆を追込み、城へ取付き攻め候。鉄炮頻に聞え候間、白石若狭、助合ひ候を、弾正見合せ引退き候所へ、駈付け合戦候て、若狭打勝ち、首二十計り討取り申し候。成実も、二本松にて鉄炮を承り、早打を仕り候へども、遠路故遅れ候て、罷帰り候所へ駈付け候。若狭悦び候て、宮森へ我等を召寄せ、殊の外、馳走候て罷帰り候。此石川弾正と申す者は、もと、塩の松の主久吉と申し御大名の家中にて候。大内備前と傍輩にて候。久吉、無徳に付いて、家中の者共、相談を以て追出し候。大内備前親、其頃、伊達を頼入れ、石川弾正親は、田村清顕公を頼入れ候。其以後、伊達御洞弓箭の砌、大内備前も、田村清顕を頼入れ候。御近所に居申され候間、別して御奉公仕り候所に、片平助右衛門家中と、田村右馬頭家中岩城殿御弓箭の時分、野陣に於て喧嘩御座候。右馬頭殿、家中を御成敗なされ候様にと、申上げられ候へども、御合点なきに付いて、御恨に存じ、翌年より会津・佐竹を頼入れ候て、弓箭に罷成り候。石川弾正は、相変らず田村御奉公仕り候。左様候へども、正宗公、塩の松を御取りなされ候間、石川弾正知行は、皆塩の松の内にて候。田村さへ、御名代正宗公へ相渡され、御子候はば、田村へ御越し申しなされ候様にと、御約束に候間、石川弾正も知行に付き、正宗公へ御奉公仕り候様にと、清顕公御意を以て、相付けられたる者に候。其外にも、寺坂・山城・大内・能登を始めとして四五人、塩の松の者にて、久吉家中に候。引退き田村へ御奉公仕り候者は、何れも伊達へ相附けられ候。其者共、白石若狭給主に相附けられ候。石川弾正一人直に召仕はれ候。本領共に、前々の如く返下され候事。
天正十四年霜月に、清顕公御遠行以来、三春の本城には、御北様御座なされ、御女儀様故、去乍ら万事の差引は、田村月斎・同梅雪・同右衛門大輔・橋本刑部少輔、此四人に候。其頃、正宗公御夫婦中然なく候。内々御北様御恨に思召され候。月斎・刑部少輔、縦ひ御夫婦中然なく候とも、正宗公を頼入れず候ては、田村の抱、なるまじき由分別に候。梅雪・右衛門大輔、御北様は、相馬義胤の伯母に御座候。御女儀なりとも押立て、相馬を頼入れ候はば、正宗公へ違ひ申し候とも、田村は苦しからざる由、分別致し候。上には、伊達を頼入れ候様にて、底意には、相馬へ申寄られ候。其手より月斎方、梅雪方と底意は二つに別る。上は押並べて、伊達御奉公と申す様に候。然る所に、大越紀伊守と申す者、田村一家にて、相馬義胤には従弟にて候。田村にて二番の身体に候。此者、相馬へ申合せ、内々繰仕り候。其外にも、田村中に相馬の牢人、城を持ち程の者、四五人も御座候間、皆相馬方に候。一番の大身梅雪の子息田村右馬頭と申し候て、小野の城主に候。此両人、相馬へ申合され、ある時、月斎・刑部少輔、若狭に物語申され候は、大越紀伊守、相馬へ申合せ、逆心歴然に候間、大越紀伊守を相抱へたき由申され候。其通り、米沢へ申上げられ候。然る所に、正宗公より、某所へ御書下され御用候間、使を一人上せ申すべき由、仰下され候間、則ち上せ申し候。御意には、大越紀伊守を相抱へたき由、月斎・橋本刑部申上げ候。無用の由御意なされ候へども、若し不図相抱へ候はば、田村の急時になるべき由、思召され候。又月斎かた絶え候事も如何に候。田村は二頭を引立て候様に、御持ちなさるべく候由思召し候。然候へば、紀伊守其方を以て、御奉公立を申上げ候。御油断もうさざる様に知らせ候て、然るべき由仰付けられ候。兼ねて我等家中に、内ヶ崎右馬頭と申すもの、大越紀伊守に久しく懇切に候。紀伊守より使には、大越備前と申す者、幾度も右馬頭方へ参り候條、状を越し、少し用所御座候間、大越備前を差越さるべきの由申遣し候。則ち備前参り候間、我等田村の様子相尋ね、腹蔵なく物語り申し候て、正宗公仰越され候通り、申し理るべき由存じ、備前に会い候て、田村の様子相尋ね候へば、一圓相包み候て申さず候條、大事の儀を直に申す事、気遣に存候て、右馬頭に其様子物語致させ候て、備前罷帰り候。夫より大越紀伊守、三春への出仕を相止め、誠に引籠り罷出でず候間、田村四人の年寄衆より、紀伊守へ使を相立て、如何様の儀を以て罷出でず候。存分候はば、有の儘に申さるべき由、申理られ候へば、初めは何角申候へども、頻に仔細を尋ねられ候て、後には成実より三春へ出仕候はば、相抱へらるべく候間、出仕無用の由、御知らせ候故、罷出でず候由申すに付いて、田村四人の衆より我等所へ申越され候は、大越紀伊守出仕申し候はば、相抱へらるべく候條、罷出で候事無用の由、御知らせに付いて、罷出でざるよし申し候。如何様の儀を承れ、左様に紀伊守所へ申越し候やと、申越され候條、我等挨拶には、いかで左様の儀申すべく候や、田村御洞何角六ヶ敷候間、如何様にも相勤められ候様にと存じ候。六ヶ敷事知らせ申すべき儀に之無く候う由、返答申し候。左候へば、四人の衆、紀伊守所へ申され候は、理の通り、成実へ申理り候へば、努々左様の儀申さず候由、理られ候間、出仕致し然るべき由、申され候所に、内ヶ崎右馬頭を以て、左様御知らせ候由、申さるるに付いて、重ねて我等所へ、紀伊守申候通りを承り候條、田村衆への挨拶には、右馬頭に様子承り候へば、其事は、久しく紀伊守殿へ懇切に御座候。世上に於ては、紀伊守殿、御心替り候様に申候間、左様の御存分候はば、三春の出仕御無用に候。御生害なされ候か、相抱へらるべき儀計り難きの由、自分御意見には申し候。成実より、左様には申されず候。大越備前承り違ひに之あるべき由申じ候間、其通りを田村衆へ返答申し候所に、田村の四人の衆申され候は、左様に候はば、内ヶ崎右馬頭と大越備前と相出し、対決致させ、然るべき由承り候條、尤も備前相出でられ候はば、右馬頭も差越し申すべき由返事申し候。三月初めに鬼生田と申す所へ、大越備前罷越し候間、田村より検使御座候かと尋ね候へば、御検使は参らず候由申し候間、御検使これなく候はば、右馬頭出し申すまじき由、申し候に付いて大越備前も罷帰り候。其後、田村へ拙者使を差越し、此間右馬頭出し申すべく候へども御検使を差添へられず候由承り候間、相出し申さず候。重ねて備前に検使を差添へられ、相出され然るべき由、申越し候へば、田村衆も満足申され、検使両人、備前に差添へ鬼生田へ罷出で候間、右馬頭も罷出で候。対決申し候事は、備前申し候は、其方を以て、成実御断には、三春へ出仕申すまじき由、御知らせに候と申し候。右馬頭申し候は、御存分違ひ候はば、出仕御無用の由、自分に意見申し候所に、御出仕なされず候はば、逆心御企て候と相見え候。只今にも御存分違ひ申さず候はば、三春へ御出仕なさるべく候。三春に於て、御相違はあるまじき由、申し候て帰り候。斯くの如く御洞六ヶ敷候故、田村に於て各打寄り、伊達を頼入るべく候や、如何様に仕るべき由、相談の所に、常磐伊賀と申す者申し候は、御相談に及ばず候。清顕公御存命の砌、御名代正宗公へ渡し申され候間、御思案に及び申さず候。去乍ら各御分別次第と申し候條、誰も別に申出づべき様これなく、何れも伊賀申す通り、尤もの由落居申し候。去乍ら上には伊達へ付き、内々は過半相馬へ相引け候。其仔細は、相馬に牢人格の表立ち候衆は、多分相馬衆に候。梅雪右衛門大輔、内々相馬へ申合せ候間、相馬牢人衆と申組まれ候。仙道佐竹・会津の牢人、何れも梅雪・右衛門大輔へ懇に候。其様子を、石川弾正、もと傍輩に候間、存の前に候間、当然清顕公御意を以て、正宗公へ御奉公仕り候ても、夫々身上大事に存じ、其上御北様相馬義胤の伯母にて、正宗公御夫婦間然なき故、御恨に思召し候を、弾正存じ候て相馬へ申寄り、四月七日に手切仕り候。

語句・地名など

総別:おおよそ、万事

現代語訳

同天正16年3月23日、玉の井の合戦を見て、帰った小十郎は、大内定綱と片平親綱がやってくるのを待つために二本松へやってきて、逗留していたところ、4月5日の晩に、鍛治内弾正という、大内備前の甥が、片倉小十郎の宿所にやってきて、大内定綱は今夜本宮へ来ます。明日片平親綱が手切するだろうことを言ってきたので、片倉景小十郎が付き添って本宮へやってきた。備前に6日の朝面談し、備前が言うには「助右衛門も来るようにと固く約束していたのだが、少し不都合が起き、兄弟ゲンカになり、私に切腹させようというので、ようやく退却してきたところです」と言った。
おおよそのところ、助右衛門は寝返るをすることはできないと覚悟していたのに、備前の身の上のためだけを思って、助右衛門も寝返ると言っていたのだろうか。定綱が申す以上、助右衛門も奉公するのだろうか。または片平の地を、会津から帰られるのか、どのような状態であるか、今の時点ではわからなだろう。兄弟の考えが違うことを、小十郎と2人の噂をした。
定綱は、少人数であっても、ひと働きせずにいてはどうだろうと思い、阿久ケ島へ戦闘仕掛けることを約束し、白石若狭・片倉小十郎と私3人の兵で、阿久ケ島へ戦闘をしかけたが、中から1人もでてこなかった。こちらから出来ることもなく、引き上げた。翌日また仕掛けたけれども、塩松領内にいた石川弾正という者が、相馬へ寝返り、白石若狭の領内へ戦闘を仕掛け、火の手が見えたので、若狭は戦闘の途中であったが、帰った。
私と小十郎だけで戦をしかけたが、何ごとも起こらず、引き上げた。小十郎は8日に大森へ帰った。定綱は米沢へ参上し、面会したいと言ったので、私の家臣遠藤駿河というものを付き添えさせ、米沢へ行かせた。
石川弾正は4月14,5日ごろ、白石若狭の領地、西という城へ草を入れ、自分自身もやってきて、忍んでいた。朝早々と中から2人出てきた者が草の手によって討たれ、城中からでてきたところに、弾正は助け合い、うちから出てきた者たちを追い込み、城へ取り付き、攻めた。鉄炮の音がしきりに聞こえてきたので、白石は助けようとしたところ、弾正はそれを見て退いた。そこえへ駆けつけ合戦となったが、若狭が勝ち、頸20ほどを討ち取った。
成実も二本松で鉄炮の音を聞き、急いでやってきたが、遠かったので遅れてしまい、若狭がかえってきたところへ駆けつけた。若狭は喜んで、宮森へ私を呼び、非常にもてなして帰った。
この石川弾正というのは、もと塩松の主久吉という大名の家臣で、大内定綱と同輩であった。久吉が、特がなかったため、家中の者たちは相談をして久吉を追い出した。備前の親はそのころ伊達を頼って、石川弾正の親は田村清顕を頼った。その後、伊達家の中で戦が起こったとき(中野宗時事件)大内備前も田村清顕を頼った。近くであったので、とくに奉公していたところ、片平助右衛門の家臣と、田村右馬頭の家中が岩城の戦のとき、野陣で喧嘩となった。右馬頭は定綱を成敗するようにといったが、合意が得られなかったので、恨みに思い、翌年から会津・佐竹を頼み、戦になった。石川弾正は相変わらず田村に仕えていた。しかし、政宗が塩松をお取りになったので、石川弾正の領地はみな塩松の中にあった。田村は名代を政宗に渡し、もし小友が生まれたら、田村氏を嗣がせようと約束されたので、石川弾正も領地について政宗へ仕えるようにと清顕が命令してお付けになった者である。其外にも、寺坂・山城・大内・能登を初めとして4,5人、塩松のもので、久吉の家臣であった。引き続き田村へ仕えようというものはみな伊達へつけられた。そのものたちは白石宗実のところにつけられた。石川弾正ひとりが直臣として召し抱えられた。本領も前のように戻して返された。
天正14年11月に清顕がお亡くなりになって以来、田村の本城には北の方が折られ、女性であったので、すべての差配は、田村月斎・田村梅雪・田村右衛門大輔・橋本刑部少輔の4人が行っていた。そのころ、政宗夫妻は仲がよくなかった。うちうちにそのことを北の方は恨みに思っていた。月斎と刑部少輔は、たとえ夫婦の仲が良くなくとも、政宗をたよらずには、田村の城を保つことはできないと思っていた。梅雪と右衛門大輔は、北の方は相馬義胤の伯母であるので、女性であっても盛り立てて、相馬を頼るならば、政宗に背いたとしても、田村は大丈夫だと思っていた。
表面上は伊達を頼るように見せかけ、本心では相馬へ言い寄っていた。そのため、月斎方と梅雪方と本心が2つに分かれた。表面上はみな、伊達に仕えようといっていた。そこへ大越紀伊守という者、田村の一族で、相馬義胤の従弟であった。田村では2番目に力を持っていたものであった。この者は相馬と話し合い、内密に操っていた。その他にも田村領には相馬の浪人で、を持つほどの人が4,5人もおり、みなかれらは相馬方であった。1番の重臣は梅雪の子で、田村右馬頭といって、小野の城主であった。この2人が相馬と言い合わせて、あるとき、月斎と刑部少輔が若狭に行ったところによると、大越紀伊守は相馬へ言い合わせ、寝返ろうとしているのは歴然なので、大越紀伊守を生け捕りにしたいと言った。その通り米沢へ申し上げた。そこへ、政宗から、私のところへ書状が来て用事があるというので、使いを1人寄越すようにと仰せになったので、すぐに送った。政宗は、大越紀伊を捕らえたいと月斎と橋本刑部が言ったのは、無用のことであると思うが、もし意図せず捕らえたならば、田村の危機になるだろうとお思いになった。また月斎の味方が居なくなったのもどうか。田村は2人の頭を引き立てているのでなりたっているとお思いであった。なので、紀伊守を使って奉公している。油断せぬようにとしらせ、そのように仰せ付けられた。
かねてから、私の家臣の中に、内ヶ崎右馬頭という者が、大越紀伊と長く親しくしていた。紀伊守から使いには大越備前という者が何度も右馬頭のところへ来ていたので、書状をおくり、少し用があるので、大越備前を呼んでこいと言い遣わした。直ぐに大越備前がやってきたので、私は田村の様子を尋ね、洗いざらい話したところ、政宗の言ってこられたとおり、断ろうとしていると思い、備前にあって、田村の様子を尋ねたところ、すべて包み隠してなにもいわなかった。だいじなことを直に話すことを、心配したのかと、右馬頭にその様子をかたらせたところ、備前は帰った。
それから大越紀伊は三春へ来るのを止め、城に引き籠もり、出てこなくなったので、田村の4人の家老衆から紀伊へ使いを立て、どのようなことがあってでてこないのか、思うところがあるならば、ありのままに言うべきだと言ったところ、はじめは何かといっていたが、しきりに詳細を尋ねられて、あとには成実が三春にやってきたら、捕らえられるので、出仕無用であるとしらせたので、出てこない様子を言った。
田村の4人の衆から私のところへ「大越紀伊が出仕したならば、捕らえられるから、行くことは無用であると知らせがきたので、やってこない理由を言った。どのようなことを聞き、そのように紀伊のところへ遣わしたのだろうか、と言ってきたので、私たちは「どうしてそのようなことをいうだろうか。田村の家中は何かと難しい状態であるので、どのようにも勤められるようにと思う。難しいことを知らるべきとは思っていない」と返答した。すると、4人の衆は紀伊へ「言っているとおり、成実のところへ言って断ったならば、ゆめゆめそのようなことは言わないと断ったので、出仕するべきである」と言ったところ、内ヶ崎右馬頭を介してそのように知らせたことをいうと、再び私のところへ、紀伊が言ったとおりのことを聞いた。田村への連絡には、右馬頭に様子を聞いたので、そのことは長く紀伊と親しくしている。世間に於いては紀伊は心変わりしたかのようにいわれているが、そのように思われるのであれば、三春の出仕は必要ない。殺されるか、捕らえられるかわからないということを私の意見として言った。成実からはそは言わなかった。大越備前は之を聞き、間違っていると思ったので、そのとおりを田村衆へ返答したところ、田村の4人の衆は「層であるのなら、内ヶ崎右馬頭と大越備前を連れてきて、対決さるのがよいのではないか」と聞いたので、もっとも、備前が出てきたならば、右馬頭も送られてくるだろうと返事した。3月初めに鬼生田と言うところへ、大越備前はやってきた。田村から検分の者が来たのかと聞いたところ、検分の者は居ないと言ったので、検分の者がいないのであれば、右馬頭を出すことはないというと、大越備前も帰った。
その後、田村へ私の使者を送り、このまえ右馬頭を出すべきであるといったが、検分の者が付き添っていなかったと聞いたので、出さなかった。再び備前に検分の者を添えて、出されるべきであると言って使わしたら、田村衆も満足し、検使が2人備前に付き添い鬼生田へやってきたので、右馬頭もやってきた。
対決することは、備前が言うには、その方を介して、成実が言ってきたのは、三春へ出仕するなと言うことを知らせに来たと言った。右馬頭は、思っておられるのと違うので、出仕むようであると私に言ってきたところ、出仕なされないのであれば、裏切りを企てているとおもわれたのだろう。いまでも思っておられることが違うのであれば、三春へ出仕するべきである。三春において、間違いはないということを言って、帰った。
このように、家中は難しいため、田村においてそれぞれがいいあって、伊達を頼むべきか、どのようにするべきか話し合っているところに、常盤伊賀という者は相談しなくていいと言った。清顕が生きていた頃、名代は政宗にお渡しになったので、考えることはない。しかしながら、それぞれ道理次第と言ったので、誰も取り立てて言い出すことなく、いずれも伊賀の言うとおり、もっともであると落着した。しかしながら、表面上は伊達につき、内心は半分以上田村へ引き付けられていた。その詳細は、相馬に牢人の表立っている者は多くは相馬衆であった。梅雪・右衛門大輔はうちうちに相馬へ言い合わせているので、相馬の牢人舅言い組んでいた。仙道・佐竹・会津の牢人は、いずれも梅雪・右衛門大輔と親しくしていた。その様子を、石川弾正はもと同僚であったので、思う前に当然清顕の意志で政宗へ仕えるとしても、それぞれ身上を大事に思い、そのうえ北の方は相馬義胤の伯母にて政宗夫妻が仲良くなかったので、恨みに思っていらっしゃるのを、弾正は知って、相馬へ言い寄り、4月7日に手切した。

感想

大内定綱・片平親綱の内応が落着したこと・清顕亡き後の田村家の内情について書かれています。
大内・片平と田村との確執など、いろいろな事情が入り乱れていたことがわかります。

『正宗公軍記』2-6:玉の井へ敵地より草を入れ候事

『正宗公軍記』2-6:玉の井へ敵地から草を入れたこと

原文

天正十六年三月十二三日の頃、成実抱の地、玉の井と申す所に、高玉より山際に付いて、西原と申して四五里、玉の井より隔て候所へ、はい草を越し候所に、玉の井の者共、兵儀なく遠追ひ候て、罷出で候を見申し候間、押切を置き、討取り申すべきたくみ仕り、三月三日*1に、玉の井近所高玉への山際に、御座候矢沢と申す所へ、草を仕るべき由相談に候。其地までは、大内備前・助右衛門も御奉公には究り候へども、味方への手切は申されざる時に候間、片平・阿古ケ島の人数、高玉へ廿二日の晩に相詰め候。兼ねて敵地に申合せ候て、草入れ候はば、告げ申すべき由申合せ、差置き候もの、廿二日の晩、本宮へ参り候て、今夜玉の井へ草入れ候由、告げ申し候に付いて、我等も罷出で、本宮・玉の井の人数を以て、廿二日の朝、草さがしと申し候所に、草も参らず候間、偽を申し候やと申し候て、引籠り申し候所に、昼ばひに二三十人、玉の井近所迄参り候間、出合せ二三十人の者引上げ候間、台渡戸と申す所にて追付き合戦仕り候。前廉、遠山を見申し候間、矢沢の小森の蔭に、人数二百程隠し置き、そろそろと退口になり候。玉の井の者共、敵の足並悪しき由存じ候て、強く懸り候間、敵、崩れ候て足並を出し退き候。押切の者共、待兼ね候て、早く出で候間、押切らず候へども、味方崩れ合戦始まり候。川迄押付けられ候て、二三人討たれ候。味方、川にて相返し候所に、高玉太郎右衛門、敵味方の間に、馬を横に乗り候間、志賀三之介と申す者、我等歩小姓、兼ねて鉄炮を能く打ち申す者に候。川柳に鉄炮打懸け、相待ち申す所へ、太郎右衛門、小き川一つ隔てて、横に馬乗通し候所を、二つ玉にて打ち候間、一つの玉は馬の眉の揉合に当り、一つは太郎右衛門臑に当る。則ち馬を打返し候。夫を競にて懸り候間、敵も則ち引退き候。太田主膳と申し候て、大切の者に候。殿を仕り引退き候間、敵も崩は申さず候。小坂を乗上げ候を、又三之助、上矢に後の輪を打懸け、二つ玉にていぬこ所を打出し、主膳、うつむきになり、其身小旗を抜き、弟采女にささせ、我等必ず崩るべく候間、其身相違なく、主膳に成替り、殿を仕り、物別させ候へと申付け、引退き候て、頓て死去申し候。其草調儀は、高玉太郎右衛門・太田主膳両人、物主にて入れ候草にて候間、両人引退き候と、則ち崩れ候。追討に仕り、首百五十三討取り申し候。大勢打ち申すべく候へども、山間にて地形悪しく候間、散々に逃げ申し候條、少し討ち候。其夜は、宿へ罷帰らざる候者共これある由、後に承り候。右の者共、鼻をかき塩漬に致し、米沢へ上げ申し候。

語句・地名など

押切:おしきること、まぐさで作った仕切り
昼這:昼に送る草の者
前廉:まえかど、前の方へ
足並:行列のまとまり具合
揉合:意味不明。眉の場所?

現代語訳

天正16年3月12,3日の頃、成実が抱えている領地、玉の井というところに、高玉からやまぎわにそって、玉の井から4,5離れている西原というところへ、這草を送ったところ、玉の井の者たちは小競り合いなく遠くから追って、やってきたのをみたので、仕切りを置いて、討ち取ろうという企みがあって、3月3日に玉の井に近い高玉への山の際にある矢沢というところに、草の者を送るべきか相談した。その地までは大内定綱・片平助右衛門も寝返りするように決まっていたが、味方への手切はできないでいたので、片平・阿久ケ島の軍勢、は22日の夜に高玉に集まった。
以前から敵地に言い合わせて、草の者を送っていたので、告げるべきであるといい、差し置いた者が22日の晩、本宮へ来て、今夜玉の井へ草を入れたことを告げたので、私も出発して、本宮・玉の井の手勢を連れて、22日の朝、草さがしをしていたところ、草も来なかったので、嘘の情報だったのだろうかと飯、引きこもっていたところ、昼這に2,30人、玉の井の近くまで来たので、出会って、2,30人の者が引き上げた。すると台瀬戸というところで追い付き、合戦となった。
前の方へ遠くに山が見えたので、矢沢の小森の陰に、200人ほどの兵を置き、そろそろと引き上げることになった。玉の井の者たちは敵の足並みが悪いことを知り、強くやりかかったので、敵は崩れ、並んで退いた。押切の者たちは待ちかねて早くでてしまったので、押しきらなかったが、味方が崩れ合戦が始まった。川まで押しつけられて、2,3人討たれた。
味方は川で勢いをかえしていたところ、高玉太郎右衛門は敵味方の間に、馬を横から乗りながら、私の徒小姓の志賀三之助という者が、かねてから鉄炮の盟主であった。川柳に鉄炮を打ちかけ、待っているところへ、太郎右衛門は小川をひとつ隔て、横に馬を乗り回しているところをふたつの玉で討った。ひとつの玉は馬の眉のもみ合いにあたり、ひとつは太郎右衛門の臑に中る。すぐに馬を返した。それを競って取りかかったので、時計も急いで退却した。
太田主膳という、大変軍功のある者が殿を引き受け、退却していたので、敵は崩れなかった。小さな坂を乗り上げたのを、三之助がまた上の矢のうしろの輪をうち、ふたつ目の玉でいぬこところをうち、主膳はうつむきになり、その旗を抜き、弟の采女にささせ、私はきっと崩れるので、おまえは間違いなく主膳に代わってしんがりを勤め、何もなく終わらせよと言いつけ、引き上げたが、やがて死んだ。
この草調儀は高玉太郎右衛門・太田主膳の2人が指示していれた草であったので、2人が退いたところ、すぐに崩れた。追い討ちになり、頸153を討ち取ったので、大勢討ちとれると思ったが、山間であり、足下が悪かったので、ちりぢりになって逃げたので、少ししか討つことができなかった。その夜は宿に帰ることができなかった者たちが多かったと後になって聞いた。この者たちは鼻を切って塩漬けにし、米沢へお送りした。

感想

玉の井での競り合いについてかかれています。
敵ながら、高玉太郎右衛門や太田主膳の戦いぶりを書き残すところが成実らしいと言えます。

*1:廿の字脱カ

『正宗公軍記』2-5:大内備前、御下へ参りたく御訴訟申上げ候事附同人苗代田へ再乱の事

『正宗公軍記』2-5:大内備前、政宗の配下になりたいと訴えてきたことと、苗代田への再びの襲撃のこと

原文

天正十五年、最上・大崎は御弓箭に候へども、安積表は先づ御無事の分にて、何事もこれなく候間、苗代田・太田・荒井三箇所は、成実知行致し候。敵地近く候へども、御無事に候間、何れも百姓共を返し在付け候。苗代田は阿児が島・高玉敵地にて、近所に候間、古城へ百姓共集め差置き候間、田地を仕り候。大内備前、我等所へ申され候は、不慮の儀を以て、正宗公御意に背き候て、斯くの如きの身上に罷成り候。小浜を罷退き候時分、会津三人の宿老衆、異見申され候は、何とも塩の松の抱なり難きに、其上正宗公、岩津野の地を召廻られ、地形を御覧なされ候由承り候、定めて御攻めなされ候か。近陣なさるべく候由、思めされ候と相見え申し候。左様に候はば、近陣候てはやはや二本松への通路なり難く候。尤も取られ候ては、小浜を引退き候事なるまじく候間、会津宿老松本図書助跡絶え候。此知行、明地に候間、下され候様にと申し候て、会津の宿老に仕るべき由申され候條、罷退き候所に、知行の事は申すに及ばず、御扶持方なりとも下されず、餓死に及び候体に御座候間、正宗公御下へ、不図伺候致したく候。少々御知行をも下され、召仕はれ候様にと、成実を頼み入れたく候。去乍ら御意に背き、斯様申上げ候とも、御耳にも入るまじく存じ候間、某弟片平助右衛門御奉公仕り候様に、申すべく候間、夫を以て、某をも御赦免なされ候様にと、申され候に付いて、片倉小十郎を以て、拙者申上げ候趣は、大内備前儀は、召出され然るべく候。其仔細は、清顕公御遠行此方、田村無主に候間、内々区々の様に承及び候。大内備前、本意を仕りたき由存じ候て、弓箭の物主にも罷成り候はば、如何に存じ候。其上、片平の地は、高玉・阿児が島よりは、南にて御座候間、片平助右衛門御奉公に於ては、右の両地は持ち兼ね、会津へ引退き申すべく候。左様候へば、高倉・福原・郡山は、御味方の儀に候間、御弓箭なされ候とも、御彼って一段能く御座候。備前に御知行を下され、召出され、然るべき由申上げ候へば、御意には、大内口惜しく思召され候へども、去年輝宗公、御果なされ候砌、佐竹・会津・岩城御相談を以て、本宮へも御働なされ候。此御意趣、御無念に思召され候間、御再乱なさるべく候由思召し候條、尤も片平御奉公に於ては、大内事、御赦免なさるべく候條、具に申合すべき由御意に候。右使仕り候者を以て、大内備前へ、追て早々申越さるべく候由申遣し候。斯様の儀、白石若狭へ知らせ申さず候ては、以来の恨を請候儀、如何に存じ候とて、若狭へ物語申し候へば、若狭、一段然るべく候。塩の松百姓、大内備前譜代に候間、万事気遣申し候。御下へ参り候へば、大慶の由申し候間、拙者も左様に存じ候て、米沢へ申上げ候由申し候。然る所に、大内備前より申し候は、彼の一儀洩れ候事遺憾候。只今会津に於て、其隠なく申廻り候。此分に候はば、切腹仕る儀も計り難き由申越し候。拙者挨拶申し候は、別して他言申さず候。白石若狭、只今は小浜に居られ候間、其方御奉公の品、彼方へ申さず候ては、取成ならず候間、白石若狭に物語り申し候。若狭、其口へも物語り申され候由と存じ候由申越し候。其後白石若狭、我等に申され候は、大内備前、我等を頼み罷出でたき由申され候由、若狭物語に候間、一段然るべく候。罷出でられ候へば、御為に然るべき由挨拶申し候。白石若狭分別は、大内備前は、覚の者に候。田村間近く候間、数年佐竹・会津御加勢なく、自分に弓箭を取候事、度々合戦候て、勝ち候事、正宗公も御存じ候間、若し塩の松を返下され候儀も、計り難く候間、若狭指南を以て、御奉公申され候か、左様に之なく候はば、会津に於て切腹申され候様にと存ぜられ、告げ申され候由見え候。夫故其年中は、大内罷出で候事相留め候事、其年の押詰に、大内備前気遣仕り、会津を御暇申請け、片平の城へ罷越され候。
天正十六年戊子二月十二日、片平・阿古ヶ島・高玉三箇所の人数を以て、大内備前、苗代田へ未明に押懸け、古城に居り候百姓共、百人計り打果し、本内主水と申す者、物主に差置かれ候を、切腹致させ、放火再乱申され候間、太田・荒井の者共も、又玉の井へ引籠り候。同二月末、大内備前、成実所へ申され候は、去年の申合せ、巷説にて切腹に及び申すべき体に候間、迷惑に存じ候て、会津への申分に、御領地へ手切仕り候。此上も免許申し候て、米沢への御奉公なされくれ候様にと、度々申され候へば、拙者挨拶には、何方へも手切申されず、成実知行所へ手切申され、本内主水に切腹致せられ候間、成実申繕に罷成るまじく候。誰ぞ頼み申され然るべき由申候へば、右より使は、本内主水親類の者仕り候。彼の好身共、玉の井に差置き、境目の彼の者共、我等へ訴訟申し候は、玉の井の百姓共、二本松右京殿譜代の者に候間、草を入れ申すにも、告げ申すべしと気遣申し候。其上片平助右衛門御奉公申され候へば、一廉の事に候。阿古が島・高玉も持ち兼ね申すべく候間、大内備前兄弟御馳走申し、然るべき由申付けて、重ねて米沢へ、小十郎を以て申上げ候所、御意には、苗代田打散らし候事、口惜しく思召され候へども、片平助右衛門まで、御奉公仕るべき由申候間、召出さるべく候。若し片平助右衛門御奉公仕らず候はば、大内計り召し出さるまじき由、御意候條、其通り申遣し候所に、助右衛門御奉公落居申候て、近所の村四五箇所望書立て越し申し候間、米沢へ申上げ候へば、大内備前には、保原を下され、助右衛門には望みの所御印判下され、小十郎越し申され候間差し越し候。其後片平助右衛門もうさるるに、瀬上丹後御勘当申し候へども、某婿に致し、名代渡し申すべき由約束仕り候條、御赦免なされ候様にと申され候。其通り申上げ候へば、御意には中野常隆親類迄も、口惜しく思召され候。其上、眼前の孫にて、召出さるまじく候由仰せられ候。其通申越し候へば、片平助右衛門申され候は、左様に候はば、御奉公仕るべく候。御印判戴き候も、上げ置き申すべき由申され候に付いて、二十日計りも事延び、漸々瀬上丹後事、御前相済み、片倉小十郎も二本松へ罷越し、備前・助右衛門罷出で候を、相待ち申すべき由、我等に申合せ候。

語句・地名など

分別:推量、物事をわきまえること

現代語訳

天正15年、最上と大崎とは戦になっていたが、安積方面はおおよそ平穏であり、何ごともなかったので、苗代田・太田・荒井の3箇所は成実が知行していた。敵地に近かったが、何ごともなかったので、みな百姓たちを返し、戻らせた。苗代田は阿久ケ島・高玉が敵地で、近くにあったので、古い城に百姓たちを集め、置いていたので、田を作らせていた。
大内備前定綱が私のところへ「思わぬことで政宗の命令に背き、このような身の上になりましてございます。小浜を退いたときに、会津の3人の家老衆は、なんとも塩松を抑えることは難しい。そのうえ岩角の地をまわり、地形をごらんになったと聞く。きっと攻めるだろう。近くに陣を惹こうと思っていると思うと言った。そうであるならば、近くに陣を惹いて、早々と二本松への道は通りにくくなります。尤も取られたなら、小浜から退くことは出来ないでしょうから、会津宿老の松本図書助の跡継ぎが絶えて、空地になっていたので、これをくだされ、会津の宿老になるようにと言われたので、退いたというのに、知行のことはもちろん、扶持もいただけず、餓死しそうな様子でございます。なので、政宗の配下で、御側近くお仕えしたいと思う。少々領地をくださり、仕えさせてくださいますようにと、成実を頼りたい。しかしながら、命令に背き、このようにもうしあげても、お耳にはいらないだろうと思いますので、私の弟片平助右衛門もお仕えするように致しますので、それでどうか私をお許しくださいますように」と言ってきたので、片倉小十郎を介して、私は「大内備前のことは、家臣にする方がいいと思います。どうしてかというと、田村清顕がお亡くなりになって以降、田村は主がいない状態であり、内部はバラバラのようになっていると聞きました。大内備前は心から仕えたいと思っていると思い、戦の侍大将にもなるならば、どうでしょうか。そのうえ、片平の地は高玉・阿久ケ島よりは南ですが、片平助右衛門がこちらに仕えるのであれば、このふたつの地は保ちかねて会津へ退却するのではないだろうか。そうなれば、高倉・福原・郡山は味方であるので、戦になったとしても、一段よくなるでしょう。備前に領地を与え、家臣とするべきです」と言った。すると、政宗は内心では大内のことを口惜しく思われていたが、去年輝宗公がお亡くなりになったとき、佐竹・会津・岩城が相談して、本宮へ戦をしかけられた。このことを大変無念に思っているだろうから、再び戦がおこるであろうと思われていた。使いの者にこの通り伝え、大内定綱にすぐにこちらへくるようにといい遣わした。このことは、白石若狭へ知らさなかったら、その後恨みを受けるのではないかと思ったので、若狭にこのことを話したところ、若狭はこの件は層であるべきでしょう、塩松の百姓は大内備前に代々つかえていたので、すべてのことについて心配していた。定綱が政宗の家臣となるなら、大喜びであると言ったので、私もそう思い、米沢へ申し上げたことを言った。
そうしているところに、大内備前から、この寝返りのことが噂になっており、大変残念である。いま会津においてすべてがばれている。それが正しいのなら、切腹させられることもあるかも知れないと言ってきた。私は誰にも言っていないと返事をした。白石若狭はいま小浜を収めているので、定綱が寝返ることについて、白石若狭に伝えなくては無理であったので、白石若狭に言った。若狭はそちらへも話したのだと思うと言って送った。その後、白石若狭が私に言ったところによると、大内備前が私を頼りこちらへ来たいといったので若狭は話したので、その件はそうであったのでしょう。こちらへやってきたら、無駄になるであろうと言ってきた。若狭の考えとしては、大内備前は頭の良い者である。田村の近くにあるので、数年佐竹や会津の加勢なく、自身でいくさのしており、たびたび合戦をして勝っているのは、政宗も御存知のと折りである。なので、もし塩松をお返しなされることもあるかもしれないので、若狭の指示でお仕えするのか。そうでないとしたら、会津にて切腹させられるだろうと思い、告げたということのようだった。そのため、その年のうちは大内定綱は移っていることは出来なかったので、その年の年末に、定綱は心配して、会津へ暇をもらい、片平の城へ移った。
天正16年2月12日、片平・阿久ケ島・高玉の3箇所の兵で、定綱は未明に苗代田へ押しかけ、古城にいた百姓たちを100人ほど討ち果たし、大将として差し置かれていた本内主水という者を切腹させ、放火し再び戦となったので、太田・荒井のものたちも、また玉の井へ引きこもった。同じ2月末、定綱は「去年のお約束は、噂になってしまったので、切腹になりそうになったので大変だと思い、会津への言い訳にあなたの領地に戦闘をしかけました。どうかお許しいただいて、米沢にお仕え出来るようにお願いしますと何度も私のところにいってきたので、私は「他の所でなく、私の領地へ戦闘を仕掛け、本内主水に切腹させたので、私はもうとりもちをすることはない。だれか他の人間を頼むように」と返した。
すると、使いとして、本内主水の親類の者がやってきた。かれの親しいものたちは、玉の井に於いて、境目のかの者たちが私に「玉の井の百姓たちは、二本松右京どのに代々仕えていたものであるので、草をいれるにも、密告されるかと心配である。そのうえ、片平助右衛門が寝返ると言うことなら、それはすごいことです。阿久ケ島・高玉も保ちかねるだろうから、大内備前兄弟の面倒を見てやるべきです」とのことを言ってきた。
再び米沢へ小十郎を介して申し上げたところ、苗代田をうち散らしたことは口惜しいと思われたが、片平助右衛門まで内応するのであれば、召し抱えるべきで、もし片平助右衛門がネガらないのであれば、定綱だけ召し抱えはしないとお思いになられたので、その通り言って送ったところ、助右衛門は納得したので、近くの村4,5箇所を望むという場所について列挙して送ってきたので、米沢へ申し上げると、定綱には保原、助右衛門には望みの所を与えると印判状を送られ、小十郎が送ってきたので、私が送った。その後片平助右衛門が言うには、瀬上丹後がいま勘当されているが、私の婿にし、跡継ぎにするよう約束していますので、お許しになってくださいますようと言った。その通り政宗に申し上げると、中野常隆の親類までも腹立たしいと思われ、そのうえ、丹後は孫であるので、召し抱えることはできないと仰った。その通り伝えたところ、片平助右衛門はそうしてくださるなら、お仕えする。印判いただいたけれども、これはいったん置いておくと言ってきたので、20日ほど伸びて、ようやく瀬上丹後のことが片付いた。片倉景綱も二本松へやってきて、備前と助右衛門がやってくるのを待とうと私に約束した。

感想

会津でも冷遇され、逃げ場所のなくなった大内定綱が伊達を頼ってきたところです。成実も景綱も大内定綱・片平親綱兄弟のために尽力しているところ、なんと会津への言い訳とは言いながら、成実の領地に攻め入りました。
親綱の治めている片平は非常に重要な土地であったため、政宗も片平親綱も内応するのでなければという条件を付けています。親綱の方は親綱の方で政宗と堂々渡り合っており、面白いところです。

『正宗公軍記』2-4:黒川月舟身命相助けられ候事附八森相模御成敗の事

『正宗公軍記』2-4:黒川月舟斎が命を助けられたことと、八森相模を成敗なされたこと

原文

黒川月舟逆心故、大崎の御弓箭、思召され候ようにこれなきに付いて、内々月舟御退治なされ、大崎へ御弓箭なさるべき由、思召され候へども、佐竹・会津・岩城・白川・石川打出でられ、本宮迄相働かれ候間、大崎弓箭取組まれ候はば、又々、右の各々御出馬あるべき由、思召され候て相控へられ候。翌年大内備前、苗代田の百姓寄居候を打散らし、手切を仕り候に付いて、仙道の弓箭ふたたび乱れ候て、会津まで御手に属せられ、関東の御弓箭思召され、大崎の事、御言にも仰出されず候。然る所に、秀吉公、小田原へ御発向候て、会津をも召上げられ候。大崎・葛西、森伊勢守拝領申され、罷下られ候條、黒川月舟、伊達上野婿に御座候故、懸入り身命を相助けられ候様にと、御訴訟申し候に付いて、上野より正宗公へ、此由を披露申され候へば、御意には、大崎へ御弓箭の時分、月舟逆心仕り、数輩の諸軍勢討死仕り候間、是非月舟首を召上げらるべく候。早々上置申すべきの由、仰付けられ候。上野、種々御訴訟申され候へども、罷成らず、秋保の境野玄蕃に仰付けられ、相渡され候。上野、米沢へ参り、大崎御弓箭の時分、月舟恩賞を以て浜田伊豆・田手助三郎・宮内因幡参り、身命恙なく相退き候。夫は只今申立つる所にもこれなく候。月舟事は、御存じの如く、私舅にて御座候間、某知行一宇、差上げ申すべく候。月舟命の儀、御助け下され候様にと、頻に訴訟申され候に付いて、御意には、月舟事は、偏に口惜しく思召され候へども、上野首尾に、身命助けられ下され候由仰出され候。上野、境野玄蕃手前より月舟を請取り、別府へ罷返され候。満足尋常ならず候。其後、月舟は、御訴訟申され、少し堪忍分を下され、仙台に屋敷も拝領致し、御前へも折々罷出でられ候。八森相模、桑折に於て、月舟へ強ひて異見申し候御耳に相立ち、其上、正宗公の御指小旗の御紋を、其身の小旗の紋に仕り候故、深く口惜しく思召され、妻子共に、北国へ差越され、上郡山民部に相渡され、相模を始めとして、妻子まで死罪仰付けられ候。

語句・地名など

折々:ときどき、機会があれば

現代語訳

黒川月舟斎の寝返りによって、大崎の戦が思われたように上手くいかなかったので、内々に月舟斎を退治され、大崎へ戦を仕掛けようと思われていたが、佐竹・会津・岩城・白川・石川が出陣し、本宮まで兵を進めたので、もし大崎とも戦になったとしたら、またこの者たちが出陣してくるだろうとお思いになり、お控えになった。
翌年、大内定綱は苗代田の百姓があつまっていたのを蹴散らし、手切をしたので、仙道の情勢は再び乱れ、政宗は会津まで手にいれ、関東への出陣を思われた。大崎のことは口にも出すことがなかった。
そうしているところに、秀吉が小田原に向かって出発し、会津をも召し上げられた。大崎と葛西は森*1伊勢守拝領し、やってきた。伊達上野政景は月舟斎の婿であったので、政景のところに駆け込み、命を助けてくださるようにと政宗に訴えたので、上野から政宗へこのことを行ったところ、政宗は大崎へ戦をしかけたときに月舟斎が裏切り、味方の多くの兵が討ち死にしたので、どうしても月舟斎の頸を召し上げるべきである、早くそうしろとご命令になった。上野はいろいろと訴えたけれど、無理で、秋保の境野玄蕃に命令し、身柄を渡された。
上野は米沢へ来て、大崎との戦のころ、月舟斎のお陰で浜田伊豆・田手助三郎・宮内因幡が来て、命に別状はなく、退く音ができた。それはいま言うことではない。月舟斎のことは御存知のように私の舅でございますので、その知行をすべてさしあげるべきで、月舟斎の命はどうかお助けくださいますようにと頻りに訴えされたので、心の裡では月舟斎のことは大変口惜しくお思いであるけど、上野の扱いとして、命を助けるようご命令になった。
上野は境野玄蕃のところから月舟斎の身柄を受け取り、別府へお返しになった。大変満足した。その後、月舟斎は政宗に訴え、少しの堪忍分の知行をもらい、仙台に屋敷ももらい、政宗の前にも機会があるごとにやってきていた。
八ツ森相模は、桑折の城に於いて、月舟斎へ強く意見したことが政宗の耳に入り、そのうえ政宗の旗指物の門を、かれ自身の小旗の紋にしたので、政宗は大変不快に思い、妻子ともに北国へ送られ、上郡山民部に渡され、八ツ森相模をはじめとして、妻子まで死罪を命じられた。

感想

月舟斎のその後について書かれています。
何度も出てきているように、月舟斎の娘竹乙が留守政景に嫁いでおり、2人は婿と舅の仲でした。政景の尽力によって月舟斎は助けられ、その後は政宗の前にも出向く程になったようです。
一方で、八ツ森相模は政宗の旗指物の紋を使っただけで妻子まで死罪になっています。戦国の常識はきついですね。

*1:木村

『正宗公軍記』2-3:下新田に於て小山田筑前討死附伊達勢敗北の事

『正宗公軍記』2-3:下新井田において、小山田筑前が討ち死にしたことと伊達勢敗北のこと

原文

氏家弾正は、伊達の御人数遣さるべき由、御意候へども、今に村押の煙さきも見えず、通路不自由故、何方よりの註進もこれなく、今や今やと相待ち、二月も立ち候間、朝暮気遣い致し候。然る所に、二月二日、松山の軍勢、打出川を越し、先手の衆段段、室山の前を打通り、新沼に懸り中新田へ相働き候。下新田の城葛岡監物、其外加勢の侍大将には、里見紀伊・谷地森主膳・弟屋木沢備前・米泉権右衛門・宮崎民部・黒沢治部、此者共籠り候て、伊達の人数、中新田へ押通り候はば、一人も通すまじき由、広言を申し候へども、流石多勢にて打通り候間、出づべき様もこれなく、抑をも置かず候て、打通り候跡の室山の城へは、侍大将古川弾正・石川越前・葛岡太郎左衛門・百々左京亮籠め置き候。川南には、桑折の城主黒川月舟籠る。城主飯川大隅といふものなり。両城、道を挟み候故、伊達上野・浜田伊豆・田手助三郎・宮内因幡、四百騎余りにて、室山の南の広畑の所に相控へ候。先手の人数、中新田近所へ押懸かり候間、内より南條下総と申す者、町枢輪より四五町出て候所を、先手の人数、一戦を仕り、内へ押込め付入り致し、二三の枢輪町構迄放火仕り候。下総、本丸へ引籠り堅固に持ち候。敵の城共数多打通り候條、跡を気遣に存じ候て、小山田筑前下知仕り、総手を川上へ段々にまとひを相立て候。氏家弾正は、俄の働にて、中新田迄とは存ぜず、取る者も取敢ず罷出で付入りに仕り、方々焼払ひ引上げ候間、伊達の人数も押加へず引上げ候。其頃、日も短く、殊に深雪にて、道一筋に候間、伊達の人数、急に引上げ候事もならず候て、七つさがりになり候。下新田の衆、通りし勢を返すまじき由、申遣し候へども、伊達勢、ものとも存ぜず、出で候人数を、追入れ追入れ通り候。上野・浜田伊豆の人数へ打添ふべき由存じ候所に、跡の人数、疾に引上げ候間、室山より罷出で、二重の用水堀の橋を引き候故、通り候事ならず、新沼へ引返し候跡に於て、下新田衆に合戦候所に、切所の橋を引き候由承り、味方諸軍勢足並悪しく候へども、小山田筑前、覚の者に候間、引返し合戦候故、大崩はこれなく候。筑前返し合せ戦ひ、敵を追散し、歩の者一人側へ逃げ候を物討仕るべく存じ候て、其者を追懸け、十四五間脇へ乗り候所に、深田の上に雪降り積り、平地の如く見え候所へ、追懸け馬をふけへ乗入れ、馬逆になり候故、筑前二三間打貫かれ候て馬に離れ候。筑前、手綱を取り引上げんと致し候へども、叶はざる所を、敵、見合せ打返し、筑前を討たんと懸かり候間、手綱を放し太刀を抜いて切合ひ候。敵、後ろへ廻り、筑前片足を切つて落され、則ち倒れ候。去りながら太刀を捨てず切合ひ候。老武者の殊にて、息をきり打出し候太刀も弱り候間、四竈の若党走り寄り、首取らんと仕り候を、太刀を捨て引寄せ、脇差を抜き只中を突止にして、両人同じ枕に臥し候を、跡より参り候者、首は取り候。敵方の者共、川より南に相控へ、軍破れざる前は、川をも越さず居候ひしが、味方負色になり候を見合せ、川を越し下新井田衆へ加はり候故、日は暮れ懸り、小山田筑前討死故、味方敗軍仕り、数多討たれ申し候。切所の橋を引かれ、新沼へ引籠り、軍勢共籠城致し候。
小山田筑前討死の朝、不思議なる奇瑞候。宿より馬に乗り十間計り出で候所に、乗りたる馬、時の太鼓は、早やおそきおそきと物をいひければ、筑前召連れ候者、興を醒まし申し候。筑前聞いて、今日の軍は勝ちたるぞ、目出度と申し候。討死以後、其馬を敵方へ取る。見知りたる者候て申し候は、此馬は、一年、義隆御祈祷の為、箟嶽の観音へ神馬に引かせられ候御馬の由申し候。義隆聞召し、其馬を引寄せ御覧候へば、誠に神馬に引かせられ候御馬の由覚えられ候。何方を廻り、筑前乗り、此軍に討死仕り候や、神力の威光あらたの由、何れも申し候。義隆、筑前指物を最上義顕へ遣され候。義顕、彼の筑前は、兼ねて聞及び候名誉の覚えの者に候由仰せられ、黒地に白馬櫛の指物を、出羽の羽黒山へ納められ候。冥加の者の由申す事に候。
上野介・浜田伊豆、先の人数を引付けたく存ぜられ候へども、早や口*1は暮れ候。川を越し北に備へ候間、桑折室山より出で候はば、退兼ぬべき由存ぜられ候。月舟は上野舅に候間、上野より使者を以て申され候は、爰許引退きたく存じ候。異議なく御退かせ預かりたく候と申し候所に、月舟より挨拶には、尤も貴殿御一人引退かるべく候。其外罷りなるまじき由申され候。重ねて上野申され候は、浜田伊豆始めとして一両輩、同備の衆御座候を相捨て、拙者一人罷り退くべく候や、とても拙者を相通さるべく候はば、彼の方々も相退かれ預かるべく候。左様なるまじきに於ては、討死に相極め候由申され候。左候へば、月舟の伯父八森相模申し候は、上野殿を始めとして、討果し弓矢の実否相付け然るべく候。大崎は洞区口に候。正宗公は大身にて御座候間、終に月舟の身上相助くべきの儀にもこれなく候。仕るべき事を控へ、滅亡詮議なきの由、頻に異見申し候へども、月舟、流石婿を討果し候事、痛はしく存ぜられ、左様に候はば、其許に相備へられ候衆、何れも上野同心相退けらるべく候由、申され候に付いて、引退かれ候所に、中新田衆切れ候て、横に引かれ候故、思の外、新沼へ籠城を致され候。
新沼籠城の衆、五千に及び候間、新沼小地にて食物もこれなく、餓死に及び候体に候。正宗公内々御人数をも遣され引出されたく思召し候へども、仙道へ御気遣にて、左様にもならせられず候。新沼の衆申し候は、室山を押通り向ふ敵を切払ひ、松山へ引退くべき由申候所に、深谷月鑑申され候は、桑折・室山両地、退口狭く候。左様候とも、地形能く候はば苦しからず候。大河を越し候砌、双方より仕懸け候はば、手も取らず、犬死を仕るべく候間、先づ様子を見合せられ然るべき由、申され候に付いて相延し候。
百々の鈴木伊賀・古川の北江左馬之助、中途へ罷出で、新沼へ使を越し、大谷賀沢呼出し候て申し候は、泉田安芸・深谷月鑑両人を、人質に相渡され候はば、諸軍勢は引退かすべき由申し候。大谷賀沢引籠もり、其由申し候へば、泉田安芸家中湯村源左衛門と申す者申し候は、中々に多勢切つて出て、討死は覚悟の前にて候。諸軍勢を退かせ候て、安芸一人、末には介首を切られ申すべく候間、死後迄の恥辱に罷成り候條、安芸合点申さるまじき由申し候。月鑑申され候は、我等共両人証人に渡り、諸軍勢相収め申す事は、正宗公迄御奉公に罷成り候間、是非証人に渡り申すべく候。安芸殿は、何と思召し候と申され候、又源左衛門申し候は、貴殿の御心中、疾に推量申し候由にて、口論仕り候所に、安芸申され候は、源左衛門申す事無用に候。我等は人にも構ひ申さず、一人にても人質に相渡り申すべく候。諸勢を相助け申すべき由申し候て、其通り、鈴木伊賀・北江左馬之助所へ申断り、右より月鑑は人質に相渡るべき由申され候間、両人共に、二月廿三日に新沼を出て、蟻ヶ袋と申す所へ参られ候間、諸勢松山へ引退き候。浜田伊豆・小成田宗右衛門・山岸修理、米沢へ伺候致し、大崎弓箭の様子申上げ候。御意には、今度余りに深働仕り、越度を取候。重ねては氏家弾正に仰合され、桑折・室山二箇所の城を取らせられ、弾正に打加はり候様に、なさるべしとの御意にて御座候。
最上より義顕御使者として、延沢能登と申す衆を、蟻ヶ袋へ差越され候。能登、永井月鑑へ会ひ候て、何と談合申され候や、月鑑は深谷へ帰り候。泉田安芸一人、小野田へ同心申し候。小野田の城主玄蕃・九郎左衛門両人に、安芸を渡し申され候。其夜、能登・安芸へ罷越し申され候は、貴様引取り申す事は、相馬・会津・佐竹・岩城申合され、伊達殿へ弓箭を取り申すべき由にて、相馬より使者として橡窪又右衛門と申す者差越され候。貴殿御好身の衆、仰合され候て、逆心をなさるべき由申され候。安芸申し候は、某は主君の奉公に一命を捨て、新沼籠城候諸軍勢を相助け申し候。御弓箭の儀は存ぜず候。拙者首、早々召取られ下され候様にと、頼入る由申候へば、能登申し候は、安芸申す様比類なき儀に候由、褒美申され候。安芸存じ候は、此様子、正宗公へ御知らせ申したく存じ、齋藤孫右衛門と申す者、忍使に米沢へ相登らせ候て、具に申上げられ候。最上義顕公は、正宗公御伯父にて候へども、輝宗公御代にも、度々、御弓箭に候。然れども、近年は別して御懇に候。去りながら、義顕公は、家の足下兄弟両人迄、切腹致させたる大事の人にて、油断ならず候。正宗公、二本松・塩の松の御弓箭強く候て、佐竹・会津・岩城・石川・白川、御敵に候故、右の諸大名仰合され、今度伊達へ御弓箭をなされ、長井を御取りこれあるべき由、思召し候所に、結句大崎に於て、伊達衆討負け、諸勢の人質として、泉田安芸を最上へ相渡され候間、此砌、米沢への手切と思召され、最上境鮎貝藤太郎と申す者申合せ、天正十五年三月十五日に、鮎貝藤太郎手切仕り候。正宗公聞召され、時刻を移しなるまじく候條、則ち御退治なさるべき由、仰出され候。家老衆申上げ候は、最上より御加勢これあるべく候。其上又、最上へ申寄候衆も、御座あるべく候間、様子御覧合せられ、御出馬然るべき由申上げ候所、尤も申す所拠なく候へども、左様に候はば、米沢を出で候事なるまじく候間、此節、鮎貝に於て、是非を相付けらるべき由御意にて、則ち出発せられ候所に、最上より一騎一人も、御助これなき故、藤太郎、頻に御人数残され候様にと、最上へ申上げ候へども、遺されず候。其上正宗公、米沢を御出で候由、藤太郎承り、則ち最上へ引退き候故、長井中仔細なく候。
深谷月鑑は、相馬長門殿御為めには、小舅にて候。下新田に於ても、月鑑の者共は、無玉の鉄炮を打ち候由、正宗公聞召され、左様の儀もこれあるべく候。深谷は大崎境目に候。相馬殿へも縁辺に候間、逆心の存分計り難き由、思召され候て、秋保摂津守と申す者に預け置かれ、切腹仰付けられ候。
氏家弾正親参河は、子供にも違ひ、大崎義隆へ御奉公仕り、名生の城に居候て、城を抱き義隆へ御奉公仕り候。正宗公氏家弾正に御疑心なされ候所に、弾正申上げ候は、親参河、義隆へ奉公仕り候間、御尤に存ぜられ候。去りながら私に於て、異議を存ぜず候由、度々起請文を以て申上げ候に付いて、聞召し届けられ候故、御横目を下され候様にと申上げ候。夫に就いて、小成田惣右衛門、岩出山へ差越され候。其以後、氏家弾正病死申し候に付いて、惣右衛門、岩出山の城主の如く、同前に万事申付け相抱へ候所に、関白秀吉公、小田原御発向なされ、大崎・葛西を、木村伊勢守拝領仕られ候間、小成田惣右衛門も岩出山より罷下り候。

語句・地名など

七つさがり:ななつすぎ、午後四時頃/空腹
突き止め:突き刺してうごかなくさせる
時の太鼓:時刻を知らせる太鼓
区々なり:ばらばらであること、小さいこと
なかなか:ちゅうとはんぱに

現代語訳

氏家弾正は、伊達の軍勢を遣わせるようとご命令があったが、まだ村を押さえる様子もなく、通路も不自由であったので、何らかの連絡もなく、今か今かと待ち、ふた月も経ったので、1日中心配していた。そのところに2月2日、松山の軍勢が出発して川を越え、先鋒の兵がじょじょに室山の前を通り、新沼にかかり、中新田へ動いた。下新田の城主葛西監物、そのほか加勢の士大将として里見紀伊・谷地森主膳・弟八木沢備前・米泉権右衛門・宮崎民部・黒沢治部、このものたちが籠もり、伊達の軍勢が中新田へ押し通ったならば、1人も通さないことを広言したが、さすがの多勢にて通っていったので、城から出てくる様子もなく、押さえも置かなかったため、通った跡の室山の城へは、侍大将の古川弾正・石川越前・葛西太郎左衛門・百々左京亮を置いた。川の南には、桑折城主黒川月舟斎が籠もった。城主は飯川大隅というものであった。両城は道を挟んでいたので、伊達上野・浜田伊豆・田手助三郎・宮内因幡、400騎あまりをつれ、諸山の南の広畑に控えた。先鋒の兵が中新田の近所へ押し掛かったので、内から南條下総という者、町枢輪から4,5町でて来たところを、先鋒の兵は一戦を行い、内へ押し込め、付けいり、2,3の枢輪と町構まで火を放った。下総は本丸へ籠もり、固く籠城した。敵の城々を多く通っていったので、後ろを心配して、小山田筑前が命令し、総軍を川上へ徐々に陣をたてた。氏家弾正は急な戦闘であったので、中新田までとは思わず、取るものも取りあえず出陣して付けいった。あちこち焼き払い、引き上げたところ、伊達の兵もそれ以上は攻めず、引き上げた。その頃、日も短く、特に雪が深かったので、道は一筋になって伊達の兵は急に退くこともできず、七つ過ぎになった。
下新田の衆は通った軍勢を返さないよう言い遣わしてきたが、伊達勢はものとも思わず、出てきた兵を追い入れ追い入れ通った。伊達上野・浜田伊豆の兵へ合流しようと思っていたところに、あとの兵がすばやく引き上げたので、室山から出て、二重の用水堀の橋を落としたので、通ることが出来ず、新沼へ引き返したところで、下新田衆と合戦になったところ、難所である橋を落とされたことを聞き、味方の軍勢の足並みがわるくなったが、小山田筑前は賢い者だったので、引き返し合戦をしたので、大崩れはしなかった。筑前は引き換えして戦い、敵を追い散らし、徒歩の者が1人そばへ逃げてきたのを取り付こうと思い、その者を追いかけ、14,5間脇へ乗ったところ、深い田の上に雪が降り積もり、平地のように見えたところに追いかけ、馬を深い田に乗り入れてしまい、馬は真っ逆さまになったので、筑前は2,3間うち貫かれて馬から離れてしまった。筑前は手綱を取り、引き上げようと思ったが、出来なかったところを、敵は見て引き返してきて、筑前を討とうとやってきた。手綱を放し、太刀を抜いて斬り合った。敵は後ろへまわり、筑前は片足を切って落とされ、たちまち倒れた。しかしながら太刀を捨てずに斬り合った。老武者であったので、息は切れ、振るった太刀も弱っていたが、四竈の若い武者が走り寄り、頸を取ろうとしたのを、太刀を捨てて引き寄せ、脇差を抜き、身体の芯を突き刺して動けなくさせ、2人同じように倒れたところ、あとから来た者が頸を取った。
敵方の者たちは川から南に控え、戦が始まる前は川も越えず居たのが、味方の敗色がこくなったところを見て、川を越えてきて下新井田衆へ加勢したので、日は暮れ掛かり、小山田筑前が討死したため、味方は負け、たくさんの兵が討たれた。難所である橋を落とされ、新沼へ引き籠もり、軍勢は籠城した。
小山田筑前が討ち死にした朝、不思議な兆候があった。宿所から馬に乗り、10間ほど出てきたところに、乗っていた馬は時の太鼓はもうおそいおそいとものを言ったので、筑前の家臣たちは驚いた。筑前はこれを聞いて今日の戦は勝ちであるぞ、めでたいと言った。討死したあと、その馬は敵方へ渡ってしまった。見知った者がいて、いうには、その馬は一年義隆が祈祷し箟岳観音へ神馬としてお送りになったものだといった。義隆はそれをお聞きになり、その馬を引き寄せてごらんになったところ、まことに神馬になる馬であったので、覚えていた。何処をまわって越前がのり、この戦にて討死したのだろうか、神力の威光ははっきりとしているとみな言った。義隆は筑前の差し物を最上義光へ遣わした。義光、かの筑前はかねてから名の知れた名誉の者であることを言い、黒地に白馬櫛の指物を、出羽の羽黒山へ納められた。神仏の恵みを受けた者であると言った。
上野介・浜田伊豆は、先鋒を引き付けようと思ったが、既に日はくれていた。川を越え、北に備えていたが、桑折の室山からでてきたならば、退却しかねると思った。月舟斎は上野の舅なので、上野から使者をもって「われわれは退却したいと思っている」と伝えた。問題なく退却させたいと言ったところ、月舟斎からの返事は「あなただけひとり退却しなさい。その他の者たちは駄目だ」と言った。上野はさらに「浜田伊豆はじめとして、同じ備えの同僚たちも全員棄てて、私ひとりが退く訳にはいきません。私を通してくれるのであれば、他の人たちも退かせてくれるべきである。そうでないのであれば、討ち死にする」と言った。
すると月舟斎の伯父八森相模は「上野殿をはじめとして、討ち果たし、戦の勝ち負けを付けるべきである。大崎は家中がばらばらであります。政宗は大名であるので、最終的に月舟斎の身の上を助けるべきときでも、おそらくしないでしょう。するべきことをやめ、滅亡するのは仕方ない」と頻りに意見したが、月舟斎はさすがに婿を討ち果たすことは痛ましく思われ、そうなったら、そこに備えられた兵は何れも上野と供に退却するべきだと言ったので、退却したところ、中新田衆が切れて、横に惹かれたので、想定外に、新沼で籠城することになった。
新沼籠城の兵は5000に及んでいたが、新沼は小さなところで、食べるものもなく、餓死になりそうになった。政宗は内々に兵を送り、連れ出そうと思われたけれども、仙道方面への心配があり、それはできなかった。新沼の衆がいうには、室山を通り、向かう敵を切り払い、松山へ退くべきと言ったときに、深谷月鑑斎が「桑折・室山の土地は退き口が狭い。そうであっても地形がよいときは難しくないが、大川を越えるとき、双方から仕掛けられたら、手もとらず、犬死にをするだろうから、とりあえず様子を見るべきである」と言ったので、延期された。
百々の鈴木伊賀・古川の北江左馬之助は中途へ行き、新沼へ使いを遣わせ、大谷・賀沢を呼び出して、泉田安芸・深谷月鑑の2人を、人質にして渡されたならば、諸軍勢は退却させると言ってきた。大谷・賀沢は籠城し、その旨を言ったところ、泉田安芸の家臣湯村源左衛門と言う者が、中途半端に多勢で切って出て、討ち死にするのは覚悟の上である。諸軍勢を退却させ、安芸1人、のちには頸を切られるだろうから、それは死後までの恥辱になるだろう。安芸はそれを受け入れるべきではないと言った。
月鑑斎は私たち2人は人質になり、諸軍勢を収めることは政宗への奉公になるので、是非人質になるべきである。安芸はどのように思っていらっしゃるのかと言った。また源左衛門は、あなたの心のうちはとっくにわかっているいい、と口論になったときに、安芸は源左衛門の言うことは無用である。私は人にはかまわず、1人であっても人質になり、諸軍勢を助けると言った。鈴木伊賀と北江左馬之助のところへ断ってきた。もとから月鑑斎は人質になると言っていたので、2人とも2月23日に新沼をでて、蟻ヶ袋というところへいき、諸勢が松山へ退却した。浜田伊豆・浜田伊豆・小成田宗右衛門・山岸修理は米沢へ帰って大崎合戦の様子を申し上げた。政宗は、今回あまりに深入りし、失敗した。再び氏家弾正に申合せ、桑折・室山2箇所の城を取らせ、弾正に加わるようにしろとのご命令があった。
最上より義光の使者として延沢能登という者を蟻ヶ袋へ遣わした。能登は長井月鑑と会って、なんと話し合ったのだろうか。月鑑は深谷へ戻った。泉田安芸1人が小野田へ連れて行かれ、小野田の城主玄蕃・九郎左衛門の2人に安芸は引き渡された。
その夜、能登は安芸のところに来て「あなたを引き取りするのは、相馬・会津・佐竹・岩城が言い合わせ、伊達へ戦をしようということで、相馬から使者として橡窪又右衛門という者が送られてきた。あなたの兵も言い合わせて政宗を裏切るべきである」と言った。安芸は「主君への奉公に一命を捨てて、新沼に籠城している軍勢を助けた。戦のことは知らない。私の頸を早く召し捕ってください」と頼んだので、能登は「安芸の言い様は比べる者がないほど素晴らしいことである」と褒めた。安芸はこの様子を政宗に知らせたいと思い、斎藤孫右衛門という者を忍びの使いとして米沢へ送り、詳細をお伝えなさった。最上義光は政宗の伯父であるけども、輝宗の時代にも度々戦になっていた。しかし最近は特に親しくしていたが、義光は家中の家臣や兄弟を2人とも切腹させるような酷い人で、油断するべではない。政宗は二本松と塩松の戦にて圧勝し、佐竹・会津・岩城・石川・白川が敵となり、右の諸大名は言い合わせ、今回伊達へ戦を仕掛け、長井を取ろうというのだろうと思われたので、結局大崎に於いて伊達衆は負け、諸税の人質として泉田安芸を最上へ渡されたのである。このとき、米沢との合戦になると思われ、最上境の鮎貝藤太郎という者と言い合わせ、天正15年3月15日に、鮎貝藤太郎は手を切った。
政宗はこれをお聞きになり、時がたっては行けないと思われ、すぐに退治しなくてはと仰せられ、家老衆は、最上から加勢があるはずだと言った。そのうえまた、最上へ言い寄った者たちも居る様子をごらんになったので、出陣するべきと申し上げたところ、根拠がなかったので、そうなるなら、米沢を出ることはすべきではないので、このとき、鮎貝において、勝敗を付けるべきとお思いになり、直ぐに出発された。すると、最上からは1騎1人も助けはなく、藤太郎は頻りに兵を遺してくださるようにと最上へ申し上げたが、遺すことはしなかった。そのうえ政宗が米沢を出発したと藤太郎は聞き、直ぐに最上へ退却したので、長井領内は問題なかった。
深谷月鑑斎は、相馬長門義胤の小舅であった。下新田においても、月鑑の者たちは玉の入っていない鉄砲を打っていたと政宗はお聞きになりり、そのようなこともあるだろう、深谷は大崎との境目であり、相馬とも近いので、裏切る可能性があるだろうとお思いになったのか、秋保摂津守という者に預けられ、切腹を仰せつかった。
氏家弾正の親参河は、子どもとも争い、大崎義隆へ仕え、名生の城に居て、城を保ち、義隆へ奉公した。政宗は氏家弾正に疑いなさったときに、弾正は「私の親の参河は義隆へ奉公しているので、お疑いになるのは尤もでございます。しかしながら、私は寝返る気はありません」と度々起請文をもってさし上げ、目付役をおつけになさいますようにと言ったので、それについて、小成田惣右衛門が岩出山へ遣わした。その後、氏家弾正が死んだので、惣右衛門は岩出山の城主のように、同じようにすべてを命令し、城をかかえていたところに、関白秀吉が小田原を出発なされ、大崎・葛西を木村伊勢守に拝領したので、小成田惣右衛門も岩出山より戻った。

感想

これは成実の文章全体に言えることなのですが、死んだ家臣・傍輩について、非常に詳しく書いています。このときの戦には成実は参加していないと思われますが、それでも詳しく書いています。
執筆の動機に、鎮魂もあったのではないかと思います。

*1:日か

『正宗公軍記』2-2:氏家弾正、義隆を恨み奉り、伊達へ申寄り御勢を申請け一揆起し候事

『正宗公軍記』2-2:氏家弾正、義隆を恨み、伊達へ言い寄り、援軍を受け、一揆を起こしたこと

原文

氏家弾正所存には、扨々移り替る世の中にて、刑部一党、伊達を賴入り、義隆へ逆心を存立て候砌は、拙者一人御奉公を存じ詰め、名生の御城籠城たるべく候間、岩手山を引移り、御切腹の共仕るべき由存じ詰め候所、案の外、義隆、某を御退治なさるべき御企、是非に及ばず候。此上は、某、伊達を賴入り義隆を退治し申し、命を免れたく存じ候て、弾正家中に、片倉河内・真山式部と申す者に申付け、米沢へ相上せ候。片倉小十郎を頼入るべき由申上げ候所、不慮に刑部、義隆を生捕り、伊達御忠義変改仕り、義隆を取立て申すべき所存に付いて、某、滅亡に及ぶべき体に候條、正宗公御助勢下され候はば、大崎容易く、正宗公御手に入るべき由、申上候に付いて、則ち小十郎、其由披露申候へば、正宗公、年来義隆へ御遺恨の儀といひ、刑部一党の親類共、御忠節違変仕り候事、口惜く思召され候。彼是以て、氏家弾正引立つべき由仰出され候。小十郎、則ち弾正使河内式部に御意の通り申し渡し候。両人喜び候て、急に岩出山へ罷下り、弾正に御意の通り聞かせ候へば、弾正、尋常ならず大慶申し候。名生の城は、義隆、新井田へ御越以来、明所となり候を、義隆の御袋御東と申せし御方と、御台と御子庄三郎殿を、人質の如く名生の城に抑へ置き、御守りには弾正親参河・伊庭惣八郎とを相副へ差置き候。
弾正所存には、不慮の儀を以て、譜代の主君に相背き、伊達へ御奉公仕る事、天道も恐しく存じ、流石主君の御子庄三郎殿を某御供申し、正宗公へ参り、傍輩になり奉るべき事、天道にも違ひ、仏神三宝にも放さるべき事を感じて、新井田の御留主居南條下総所迄、庄三郎殿を送り奉り候。二人の御方は、義隆にも庄三郎にも、放させられ候て、明暮の御歎にて御座候。御自害と思召し候も、流石左様にも罷ならず、御涙のみにて候。
天正十五年丁亥正月十六日、大崎へ大人数仰付けられ候。大将には、伊達上野・泉田安芸両人仰付けられ候。其外栗野助太郎・永井月鑑・高城周防・宮内因幡・田手助三郎・浜田伊豆、軍奉行として小山田筑前、御横目として小成田惣右衛門・山岸修理、其外諸軍勢共、遠藤出羽居城松山へ着陣仕られ候。大崎にて御忠節の衆は、氏家弾正・湯山修理亮・一栗兵部・一廻伊豆・宮野豊後・三の廻の富沢日向、何れも岩出山近辺の衆より外は、義隆奉公に候條、松山よりは手越に候間、此人数へ打加はるべき地形これなく候。松山に於いて、伊達上野・浜田伊豆・泉田安芸、其外何れも寄合ひ評定には、今度大崎弓箭月舟、御味方に候はば、幸四竈尾張も申寄られ候間、岩出山へも間近く候て、然るべき儀に候へども、黒川月舟逆意仕られ郡城へ入り、伊達勢押通り候はば、川北の諸山に籠り候衆、参りあはさせ防ぐべき由存じ候由、相見え候間、働き候儀も、調儀と候はんと評定に候。遠藤出羽申し候は、新沼の城主上野甲斐は私妹婿にて、御当家へ代々御忠節の者にて御座候間、室山に押を差置かれ、中新田へ打通られ候とも、別儀あるまじき由申し候。上野申され候は、左様に候とも、中新田へ二十里余の道に候。敵の城を後に当地を差置き、押通り候事、気遣の由申され候へば、泉田安芸所存には、上野殿久しく吾等と間さなく候。其上、今度大崎への御弓箭の企、某申上げ候て、御人数相向けられ、月舟事は上野介舅に候。彼といひ是といひ、今度の弓箭御情入るまじき由存じ候間、出羽申し候所尤に存じ候。氏家弾正、岩出山に在陣仕り、伊達勢の旗先を見申さず候はば、力を落し、義隆へ御奉公も計り難く候間、室山には押を置き、打通られ然るべき由申し候間、是非に及ばず、中新田へ働に相極め候。
黒川月舟逆心仕り候意趣は、月舟伯父に黒川式部と申す者、輝宗公御代に、御奉公仕り候飯坂の城主右近大夫と申す者の息女契約候て、名代を相渡すべき由、申合され候へども、息女十計りの時分、式部三十計りに候間、未だ祝言もこれなく候、右近大夫存分には、殊の外年も違ひ候。式部年入り候て、其身隠居も早くこれあるべく候。正宗公へ御目懸にも上げ候て、彼の腹に御子も出来、名代共相立て候様に申上げ候はば、家中の為に能くこれあるべき由思案致し、違変申し候に付いて、黒川式部迷惑に存じ、月舟所へも参越さず後へ引切り申し候。此恨、又月舟は、大崎義隆へ継父に候。義隆御舎弟義康を、月舟の名代続にと申され、伊達元安の婿に致され候て、月舟手前に置かれ候間、義隆滅亡に候へば、以来は其身の身上を大事に存じ、逆心を企てられ候と相見え申候。

語句・地名など

現代語訳

氏家弾正は「さて移り変わる世の中であるので、刑部一党が伊達を頼み義隆を裏切ろうとしていたときは、私ひとりでも奉公をし、名生の城に籠もろうと岩出山から移り、切腹の供をしようとまで思い詰めていたが、想定外に義隆が私を退治なさるよう企てをなさったとあらば、仕方ない。この上は私は伊達を頼り、義隆を退治し、生き延びたいと思う」と思ったので、弾正家臣に片倉河内・真山式部という者に申し付け、米沢へ行かせた。
片倉小十郎を頼むよう言っていたところ、予想とちがって刑部が義隆を生け捕り、伊達への寝返りの約束を破り、義隆を取り立て申し上げると思ったため、私は滅ぼされるだろうと思ったので、政宗がお助けしてくださるならば、大崎領はたやすく政宗の者になるだろうと申し上げた。すぐに小十郎がそのことを申し上げたところ、政宗は常日頃から義隆へ恨みを持っていたといい、刑部の一味の親類たちが裏切りの約束を違えたことを口惜しく思われていた。かれこれあって、氏家弾正の味方をすると仰った。小十郎はすぐに弾正の使いである河内式部にご命令のとおり言い渡した。2人は喜んで、急いで岩出山へ戻り、弾正にご命令の通り聞かせたところ、弾正は大変悦んだ。名生の城は義隆が新井田へ着て以降、空き城となっていたところを、義隆の母御東の方と、正室と子息庄三郎を人質のように名生の城へおさえ置いて、首尾には弾正の父参河・伊庭惣八郎とをつけてさしおいた。
弾正は思ってもみなかったことで、代々仕えた主君に背き、伊達へ寝返ることは、天の神も怖ろしく思い、さすがに主君の子である庄三郎をお伴いたし、政宗のところに連れて行き、同じ身分になるのは、天の道に背き、仏神の三宝にもみはなされるべき事であると思い、新井田の留守居役である南條下総のところまで庄三郎をお送りした。2人の女性は義隆とも庄三郎とも離されて、1日中嘆き悲しんでおられた。自害しようと思っても、さすがにそのようにはできずに、泣かれるばかりであった。
天正15年1月16日、政宗は大崎へ大軍勢を送られた。大将として伊達上野・泉田安芸の2人に命じられた。そのほか栗野助太郎・永井月鑑・高城周防・宮内因幡・田手助三郎・浜田伊豆、いくさ奉行として小山田筑前、目付役として小成田惣右衛門・山岸修理、そのほか諸軍勢共、遠藤出羽の居城である松山へ着陣した。大崎で寝返ったのは、氏家弾正・湯山修理亮・一栗兵部・一廻伊豆・宮野豊後・三の廻の富沢日向など、いずれも岩出山近辺の者遺骸は、義隆に仕えていたものであったので、松山からは通るのも難しい狭い通路であったので、この兵に加えるべき場所はなかったのである。松山にて、伊達上野・浜田伊豆・泉田安芸、そのほかみなが集まった話し合いでは、今回の大崎の戦は月舟斎が味方ならば、幸い四竈・尾張も言い寄ってきたので、岩出山へも距離が近くて、然るべきことであるが、黒川月舟斎が心替えをして、城へ入り、伊達勢がおし取ったならば、川北の山々に籠もっている兵が集まってきて、防ぐだろうと思い、そう思えたので、戦闘を仕掛けるのも、工作をしなくてはならないと話し合いになった。
遠藤出羽は「新沼の城主上野甲斐は私の妹の婿でありますので、伊達家へ代々忠節を誓っている者でありますので、室山に押さえを置かれ、中新田へ通られようとも、何か問題があることはない」と言った。上野は「そうであっても、中新田へは20里あまりの距離である。敵の城を後ろにしてその地を差し置き、押し通ることは心配である」と言ったところ、泉田重光は「上野介は長らく私たちと親しくしていなかった。そのうえ、今回の大崎への戦の企ては、私が言って兵を向けられた、月舟は上野介の舅である。あれこれといい、今回の戦に情けを入れるべきではない」と思ったので、出羽の言っていることがもっともだと思った。氏家弾正は岩出山に在陣し、伊達勢の旗先を見ないというならば、力を落とし、義隆へ再び仕えるかもしれないので、室山には押さえをおいて、押し通るべきであると言ったところ、仕方なく、中新田に戦を仕掛けることになった。
黒川月舟斎が伊達に逆らった理由は、月舟斎の伯父に黒川式部という者がいた。輝宗公の代に仕えており、飯坂の城主右近大夫という者の娘と婚姻の約束をして、跡継ぎとするように約束していたのだが、娘が10ばかりの頃、式部は30ぐらいになっていたので、まだ祝言もあげていなかった。右近大夫は思っていたより年齢差があるし、式部は年も取っているし、隠居も早いだろう。娘を政宗の妾にでもあげ、子が生まれたらそれに跡を継がせようと思ったら、家中のためにもそれがいいと思いはじめ、約束を破ったため、黒川式部は大変不快に思い、月舟斎の所へもこず、縁を切ったのである。その恨みの上、月舟斎は大崎義隆にとって継父であった。義隆の弟義康を月舟斎の跡継ぎにといい、伊達元安斎元宗の婿にして、月舟斎をそばに置かれたので、義隆が滅亡するのなら、将来の身の上をおおごとに思い、寝返りを計画したのだと思われた。

感想

氏家弾正の立場と素性について書かれた章です。
伊達上野こと留守政景と、泉田重光との確執や、氏家弾正の寝返りへのためらいなども描かれ、ドラマチックな場面です。