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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

原文

『木村宇右衛門覚書』26:天正一三年仙道本宮の合戦のこと

『木村宇右衛門覚書』26:天正一三年仙道本宮の合戦のこと 原文 一、有時の御咄には、仙道本宮一戦の時、何としたる事にや有けん、味方悉く敗軍して、茂庭佐月などを始め歴々の者共討死、先手町場へ窄み入ついて出候へば、追い込まれ追い込まれ木戸を三度ま…

『正宗公軍記』2-10:相馬義胤、田村の城取損じ候事附石川弾正、御退治の事

『正宗公軍記』2-10:相馬義胤が田村の城を取り損ねたことと、石川弾正を退治したこと 原文 相馬義胤、築山に御座候て、弥弥田村衆申合され、右より御北様へ御内談と相見え、五月十一日、義胤より御使の由申し候て、相馬の家老新館山城・中村助右衛門と申す…

『正宗公軍記』2-9:石川弾正逆心仕り、相馬へ忠節の事

『正宗公軍記』2-9:石川弾正が相馬へ寝返ったこと 原文 田村の衆、相馬へ申合の衆も、伊達御忠節の衆も、石川弾正逆心仕り候間、正宗公御出馬なさるべき由、存ぜられ候へども、一切其沙汰これなきに付いて、月斎・刑部少輔、白石若狭を頼み、米沢へ申上げら…

『正宗公軍記』2-8:会津・須賀川衆、本宮へ働き、人取橋に於て合戦の事

『正宗公軍記』2-8:会津・須賀川の者たち、本宮へ赴き、人取橋において合戦が起こったこと 原文 右の段は、石川弾正逆心の次第、田村御洞の様子書記し候。安積表の事は、四月五日の晩、大内備前、不図懸入り候て、会津衆、安積へ罷出でられ、須賀川衆と申合…

『正宗公軍記』2-7:大内備前御訴訟相済み御目見申され候事

『正宗公軍記』2-7:大内兄弟の件が落着したこと 原文 同年三月廿三日、玉の井の合戦見候て、帰り候小十郎は、大内備前・片平助右衛門罷出でられ候を、相待たるる由にて、二本松へ罷越し候て、逗留致し候所に、四月五日の晩に、かち内弾正と申す者、大内備前…

『正宗公軍記』2-6:玉の井へ敵地より草を入れ候事

『正宗公軍記』2-6:玉の井へ敵地から草を入れたこと 原文 天正十六年三月十二三日の頃、成実抱の地、玉の井と申す所に、高玉より山際に付いて、西原と申して四五里、玉の井より隔て候所へ、はい草を越し候所に、玉の井の者共、兵儀なく遠追ひ候て、罷出で候…

『正宗公軍記』2-5:大内備前、御下へ参りたく御訴訟申上げ候事附同人苗代田へ再乱の事

『正宗公軍記』2-5:大内備前、政宗の配下になりたいと訴えてきたことと、苗代田への再びの襲撃のこと 原文 天正十五年、最上・大崎は御弓箭に候へども、安積表は先づ御無事の分にて、何事もこれなく候間、苗代田・太田・荒井三箇所は、成実知行致し候。敵地…

『正宗公軍記』2-4:黒川月舟身命相助けられ候事附八森相模御成敗の事

『正宗公軍記』2-4:黒川月舟斎が命を助けられたことと、八森相模を成敗なされたこと 原文 黒川月舟逆心故、大崎の御弓箭、思召され候ようにこれなきに付いて、内々月舟御退治なされ、大崎へ御弓箭なさるべき由、思召され候へども、佐竹・会津・岩城・白川・…

『正宗公軍記』2-3:下新田に於て小山田筑前討死附伊達勢敗北の事

『正宗公軍記』2-3:下新井田において、小山田筑前が討ち死にしたことと伊達勢敗北のこと 原文 氏家弾正は、伊達の御人数遣さるべき由、御意候へども、今に村押の煙さきも見えず、通路不自由故、何方よりの註進もこれなく、今や今やと相待ち、二月も立ち候間…

『正宗公軍記』2-2:氏家弾正、義隆を恨み奉り、伊達へ申寄り御勢を申請け一揆起し候事

『正宗公軍記』2-2:氏家弾正、義隆を恨み、伊達へ言い寄り、援軍を受け、一揆を起こしたこと 原文 氏家弾正所存には、扨々移り替る世の中にて、刑部一党、伊達を賴入り、義隆へ逆心を存立て候砌は、拙者一人御奉公を存じ詰め、名生の御城籠城たるべく候間、…

『正宗公軍記』2-1:大崎義隆御家中叛逆を企て義隆公を抱へ置く事

『正宗公軍記』2-1:大崎義隆の家臣たちが反逆を企て、義隆公を留め置いたこと 原文 天正十四年丙戌、二本松・塩の松御弓箭落居の上、八月、米沢へ御帰陣なされ候所に、大崎義隆御家中、二つに割れ候て、正宗公へ申し寄り候。根本は其頃、大崎義隆に、近習の…

『正宗公軍記』1-5:佐竹義重公・岩城常隆公・石川昭光公・白川義近公仰合され、須賀川へ御出馬、伊達一味の城を御攻め候事附右合戦に付伊達加勢遣され、観音堂に於て、茂庭左月を始め討死、成実手柄の事

『正宗公軍記』1-5:佐竹・岩城・石川・白川が須賀川へ出陣し、伊達の城を攻めたことと、観音堂での軍で茂庭左月らが討死したこと、成実が手柄をたてたこと 原文 霜月十日の頃、佐竹義重公・会津義広・岩城常隆・石川昭光公・白川義近仰合され、須賀川へ御出…

『正宗公軍記』1-4:二本松義継降参の事附輝宗御生害の事

『正宗公軍記』1-4:二本松の畠山義継の降参の事と、輝宗が殺されたこと 原文 九月廿六日、正宗公、小浜の城へ、御馬を移され候所に、二本松義継より、拙者親実元方へ、仰せられ候は、代々、伊達を頼入り候て、身上相立て候へども、近年、会津・佐竹・岩城よ…

『正宗公軍記』1-3:青木修理御味方仕り、塩の松、御手に入り候事

『正宗公軍記』1-3:青木修理が味方になり、塩松が手に入ったこと 原文 天正十三乙酉七月初に、米沢へ、拙者、使を上げ候て、猪苗代の儀、相違仕り候て迷惑に存候。会津に御敵は御座なく候間、大内備前を御退治なされ然るべく候。御尤に思召され候はば、備前…

湯浅常山『常山紀談』政宗関係記事

『常山紀談』とは 江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文25巻、拾遺4巻、それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」1巻よりなっている。著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山。 出典: フリー百科事典…

『名将言行録』「伊達政宗」

『名将言行録』とは 『名将言行録』(めいしょうげんこうろく)は、戦国時代の武将から江戸時代中期の大名までの192名の言動を浮き彫りにした人物列伝。幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させ…

『正宗公軍記』1-2:大内備前、別心の事附会津義広御表裏に依り御弓箭を起す事

『正宗公軍記』1-2:大内定綱、反逆のことと会津義広の態度の相違により戦になったこと 原文 天正十三乙酉、大内申上候は、雪深く普請も成り難く候間、御暇申請け、在所へ罷帰り妻子を召連れ、伺候申すべく候。其上数年、佐竹・会津御恩賞相請け候御礼をも、…

『治家記録』寛永11年2月23日条

『治家記録』寛永11年2月23日条 原文 廿三日庚辰。天気好、寅の刻(午前4時)伊達安房殿成実宅へ御出、数寄屋に於て御茶饗し奉らる。亭主御花を望み申し、水仙花と梅を出さる。水仙は長く、梅は短く伐て出されしを、公山礬是弟梅是兄といへる事ありと仰せら…

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇 原文 一、有年、伊達安房成実若林の屋敷新宅出来、吉日を選び太守公被為成候。朝は御茶の湯過候て、鎖の間にて色々飾り薄茶を終わって書院に出御、外舞台にて御能作法のごとく、大夫に唐織と箔の物太刀折紙、惣…

『木村宇右衛門覚書』・目次

『木村宇右衛門覚書』について 仙台伊達家から昭和26年に仙台市へ寄贈された伊達家寄贈文化財の中にあった一資料である。江戸時代には「木村氏覚書」「木村宇右衛門書立」と称されることもあった。上中下巻の3巻からなる。 内容は伊達政宗が晩年に小姓の木村…

『名語集』42:伊達安房屋敷にて宗碧を手討にす、同屋敷失火

『名語集』42:伊達安房の屋敷にて宗碧を手討にする、同屋敷の火事 原文 一、或時、伊達安房守殿にて、ことごとく作事出来し、日がらを以て、貞山様を御申入れられ、朝は御数寄屋、さてそれより御書院に於て、いづれも御親類衆・大身・小身、みなみな長袴な…

『伊達日記』126:白石攻め

『伊達日記』126:白石攻め 原文 政宗公は岩出山迄は御下成らせしめられ。北目に御在陣候て七月廿四日白石の城へ御働候。甘糟備後城主に候間若松へ引取られ備後甥北城式部居候朝城外を打廻り。御働引上られ候。八つ時分又城廻りを御覧成られ。別而改普請仕所…

『伊達日記』125:家康の返し

『伊達日記』125:家康の返し 原文 一義顕。政宗。南部信濃以下奥の大名衆。景勝退治のため国々へ御下候。家康小山迄御出馬の所上方にて謀叛起。伏見の城又京極若狭殿御座候大津の城にも籠置かるる由申来候付而家康江戸へ御引返候。 語句・地名など 現代語訳…

『伊達日記』124:関ヶ原前夜

『伊達日記』124:関ヶ原前夜 原文 一家康公。政宗公御入魂の故か。政宗娘を上総殿へ御取合成られ度思召。宗薫を以御内証に候。四人の大名衆聞召され。秀吉公御他界の砌五人の大名衆申合仕置き仕べき由仰置かれ候所。各相談無く縁初の儀覚悟の外由仰られ。宗…

『伊達日記』123:秀吉の死

『伊達日記』123:秀吉の死 原文 一秀吉公御違例に候処。次第に重候故諸大名衆をめされ。御病気つよく候間。御他界も候はば秀頼公にたいし逆意存まじき由誓紙仕るべき由仰出され候に付。熊野牛王に血判いづれも成られ候を。大峯にをさめ申すべき由御意にて。…

『伊達日記』122:秀吉の贈り物

『伊達日記』122:秀吉の贈り物 原文 一御普請場へ日々成せしめられ候。十月始寒時分惣の大名衆へ風をふせぎ候への由にて。長持に紙絹を御入町場を御廻り候て移に下され候。政宗は物ずきを仕候へども紺地の金襴。袖は染物にすりはくの入候を御付。すそは青地…

『伊達日記』121:慶長伏見地震

『伊達日記』121:慶長伏見地震 原文 慶長元年太閤様伏見の向島と申処に御城御構候。御普請過半出来候処に。閏七月十二日夜半時分大地震にて御城の天守御殿共に破損し。御城の内にて男女五十人余打殺され候。向島は宇治川立廻地形下所にて候故。猶以普請衆数…

『伊達日記』120:秀次事件

『伊達日記』120:秀次事件 原文 秀吉公御在陣の内若君様御誕生なされ候。秀次へ聚楽御渡候を内々秀吉公御後悔にもをぼしめし候哉。治部少見届御中を表裏候由見へ候。秀次公山へ綱を御張唐犬をあつめ鹿を御くはせ候而五日十日御山に御座候。御謀叛の御談合の…

『伊達日記』119:蒲生騒動

『伊達日記』119:蒲生騒動 原文 一会津蒲生氏郷殿御遠行候而家老蒲生四郎兵衛。藤三郎殿をとり立申候所。飛騨殿小姓頭に召遣され候和田利八右衛門と四郎兵衛公事を仕披露及ばず候付。秀吉公御意にて和田利八右衛門を切腹仕候。蒲生四郎兵衛は嶋津兵庫頭へ預…

『伊達日記』118:秀吉の帰還

『伊達日記』118:秀吉の帰還 原文 一伏見御城文禄二年より御普請なされ候。名古屋に御在陣の内秀次公聚楽御城に御留守にて候。秀吉公直に伏見御城へ御帰陣成られ候。先天下は秀次へ相渡し分にて候。唐海道駿河訖の大名衆相付られ候迄にて。御仕置抔は秀次公…