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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

【情報募集】成実の最上義光評について

私は、伊達政宗関連小説では永岡慶之助先生の『伊達政宗』(当時青樹社刊・今は文春文庫版等)が一番好きなのですが、こないだ織部の本出されて、上京ついでに東京で探してみたら、『最上義光』『伊達政宗と片倉小十郎』があったので早速買ってみました。政宗と小十郎のヤツは前に読んだことあった(笑)。で、問題は『最上義光』です。駒姫が秀次の側女になったことに対して、の部分でこんな箇所がありました。

現に、直情の伊達成実などは、書状をもって政宗に対し、「天下のあざけりに候」と報じている。保春院によって伊達家と縁がつながるだけに、天下の笑い者になった、義光の卑屈さに我慢がならないようであった。相手が関白であろうとも、断然峻拒すべきである、と成実は言っているのだ。

  • 『最上義光』学陽書房人物文庫p162より

小説はフィクションとして楽しむためにあるものなので、別にエピソードにいちいち出典がなに!とか言うべきではないと思っていますが、永岡先生は結構きちんと出典史料とか書いてくださるし、ノンフィクションぽく書状とか史書ネタとかを書かれる方ではないので、こんな書状あるんだ…? どこに…? と思ったわけです。
成実は『政宗記』の中でも、義光を評して「無双の佞人」(『政宗記』7「政宗敵対給大将衆の事」)と言っていて、竺丸を頭領に据えようとした(が竺丸は死去した)そして義姫も最上への内通により、政宗を毒殺しようとした…と書いています。
で、上の様な書状があるんだ〜と思い、手元にある伊達政宗文書を一応チェックしてみたのですが、多分見つからなかったのです…。
この書状がどこにあるもので、どうすれば読めるか、ご存じの方いらっしゃいましたら、ご一報いただけませんでしょうか? 
掲載の書名や、未翻刻のものであれば、何処に残っている文書であるかお教えいただきたいのです。批判したいとか、揚げ足取りたいとかそういうのではありません。単にこういうのがあるなら自分で読みたいだけなのです。

『政宗記』の義姫(とそれに連なる最上氏に関する)記述は、史実というよりも、公式見解というか、こういうことにしておきます、という当事者達の了解のようなところがあると思われます。諸説ある、竺丸ー小次郎ー秀雄がどうつながるのか?という謎もあり、義姫をめぐる記述は公式記録そのとおりではないだろうと私は考えています。そして成実は長尾ー上杉呼称の事でもわかるように、真実を書いてくれるまっ正直なライターではありません。単に義光の性格を嫌っていたのか、義光をそう見なし定説を流布することで義姫ー小次郎事件の真相を隠蔽しようとしたのか、それとも義光ー成実の間に何かあったのか、それはわかりませんが、そういう成実の思考を探る上で、上記の文書が存在するなら、是非読んでみたいのです。
御存知のかたいらっしゃったらご一報お願いします。よろしくお願いします。

【追記】この書状のことかどうか知らないのですが、逸話サイトか伊達関連のスレかなんかで「駒姫が処刑されて、政宗もしょげているときに成実が最上ざまあwwみたいに書いてた」みたいな書き込みを見た覚えがあるのですが、これ関連…? 

【20120614追記】Twitter上にて、藤理様、ハル様、しぎの様のご協力により、
・「天下のあざけりに候」は『成実記』、「天下の嘲弄尋常ならず候」『伊達日記』群書類従版、そして『政宗記』には記載なし。
・「駒姫の処刑に政宗がしょんぼりしているのに成実はザマアwwってpgrってる」という通説に関しては、おそらくですが、「最上義光歴史館」の駒姫の項(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=103062)や、逸話サイト「戦国ちょっといい話・悪い話」を義光と成実でand検索して出てくる記事のコメント欄など(http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%B5%C1%B8%F7%A1%A1%C0%AE%BC%C2)などによってインターネット上にて流布したものと思われる。
・永岡先生の記述の「書状」は未だ確認できず。
ということが確認できました。お三方、ご協力どうもありがとうございました。

個人的には、成実の持つノブレス・オブリージュ意識的に、幼い娘を権力者の言うがままに差し出す義光の行動が許せなかったのだろうな…と感じます。で、書きぶりから、多分世間の人たちも非難していた…という感じなのでしょうね。
上記のコメントのような「ざま見ろ」「悪し様」「pgr」という感じには私は思いませんでした。このことによって「無双の佞人(心がよこしまでこびへつらう人)」(『政宗記』)という評価が確定したのは勿論あるでしょうが。成実は秀次事件と同時期に妻子を亡くし、その後もうけた二人目の室と子どもも幼くして亡くしているので、子どもを保身に利用しようとした(と成実は認識した)義光に点がからいのかもしれません。

【20140115追記】

  • 『政宗記』の義光記述「泉田安芸重光が斎藤孫右衛門を介して政宗に伝えた義光評」ーー『政宗記』3巻より。

義顕(光)は政宗母儀方の伯父にておはせども、輝宗代には度々軍なりしが、政宗へは和睦を入、近頃は懇にておはす。尓りといへども我家の大身を多く滅し、或いは御子両人迄死罪に行ひ、以の外なる悪大将なり。

  • 『政宗記』の義光記述「政宗に対し家老が言った義光評」ーー『政宗記』3巻より。

家老の面々「義顕手の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略嫌疑なく、一左右を聞玉ひ尓るべし」と申す。