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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

【他家から見た成実像】-片倉・留守・石川・白石の眼から-

昨日、いつもお世話になっております、成実三昧の武水しぎのさん主催の伊達史料オフに行ってきました。つってもまあ史料コピー読みつつぐだぐだ萌え話してただけなんですけど(笑)。私が本家の世臣家譜と亘理世臣家譜が見たかったのですが、亘理世臣家譜がどうも状態悪いため図書館で貸し出してくれない、全コピー(著作権規定でね)もできない…ということなので、途方にくれていたところ、助け船を出していただきました。楽しかった…!!(笑)
で、たらたらといろいろ読んではぐだぐだと萌え話や考察をしていたのですが、他の一門領地の史料に登場する成実記述をちらほら発見しましたのでおもしろかったところをちょいと上げてみます。

『片倉代々記』ー小十郎親子

やー成実の登場率の高さが萌えます。ホントここの二人仲いいですよね。腐った意味じゃなく。ちょいちょい気軽に立ち寄ったり、二人で相談して政宗に奏上したとか書いてあるとニヤニヤします…。
で、重綱の元服のことについての雑談(真偽の程は知らない)をこんな感じ。

  • 成実の烏帽子親は「景綱が請うた」

→おそらくこれは政宗が「やってやってよ」的に頼んであって、小十郎から頼んで、成実が承諾…なのでは?(多分政宗がやるには身分差ありすぎる。そして身分の低い片倉家への後ろ盾に(当時)一門筆頭である成実になってもらうことで、風当たりを減らす目的?)

  • 成実が烏帽子親しておきながらどうして「成」もしくは「実」を偏諱しなかったか。なのにどうして音は「しげ」か。

→成実との従属関係ではないから、偏諱はなし。特に「実」は上杉との経緯からもおそらく無理。でも庇護関係(後見人的な?)はあるから、音だけ同じ字「重」にした? 重綱は後年四代綱村とかぶってしまったため諱を「重長」に変えていますが、「重」の字は片倉家にとってはそれなりに重みがあるものだった? のかな?

わりと有名な「(くじ引いて)私白石さんと組むより成実様がいいです。かえてください。かえてください!」(<窪田合戦の「頻の訴訟」…)(くじひく意味があったのか…はじめっから希望制にすればよかったのに、どうしてくじわざわざつくった…笑)エピもありますが、これは白石さんと組みたくなかったのか、成実と組みたかったのかどっちだ。…後者希望(笑)。
このエピは政宗に対してわがままを言える小十郎/わがままを聞きいれる政宗/仲いいこじゅしげ*1…と三様に萌えますよね。
成実の出奔時だって石川さん・留守さんと小十郎が探したことになってますが、おそらく実際に捜索担当したのは小十郎でしょうし。
梵天丸時宗丸が資福寺で一緒に勉強して、それを小十郎が見守ってた…というような、いわゆるご学友設定はまあ妄想だろうな、と思うんですが(大好きだけど)、まあ終生仲いいのは確かですよね。
【結論】というわけで『片倉代々記』の成実は非常にかっこよく、いい人に書かれていますよ!(笑)

『水沢市史』ー留守政景おじさんとこ

政宗の治績を記した『貞山公治家記録』には政宗と政景の親しい様子が見出される。政宗のあるところ、つねに政景があった。慶長三年、政宗の重臣だった成実が出奔した主な理由は、政宗の政景への信頼のあつさにたいする成実のひがみであった。

え、ええっ!!?? そこ断言?(笑)「ひがみだったのだろう」じゃなく!(笑)
てか定説となっている成実のひがみ(笑)説*2でも、一番の鉾先は一応自分を差し置いて一門筆頭になった石川さんだというのが定説だと思うのですが!(笑)留守さんだっけか!(笑)
留守さんは成実の次、三席です。留守さんご自身は別に成実と仲いいとか悪いとかなかったと思うのですが(個人的には仲は悪くないと思います…)、おそらく家中の認識では、「あいつうぜえ」「一回出てったクセに大きな顔すんな」「ウチは3番目だけど、ウチの殿様の方が御屋形様の信頼厚いぜ」…て認識があったのがありありと…わかりますよね…。
「政景は政宗の片腕だった」…て文があったのですが、片腕って言い方が相応しいのは小十郎ぐらいでは…うん…。成実も片腕とは私も思わないし…。

『石川氏一千年史』ー石川昭光おじさんとこ

「成実の出奔は文禄三年七月」

→成実の出奔は文禄四年or慶長三年が通説ですが、石川さんとこの記録では文禄三年。(四年に誓詞提出の際に確実にいるので、三年出奔はあり得ないけど)

「相模の国太田にいた」

→いったん高野山に入って、行方不明になったあと、「相模の国糟谷」(『治家記録』/『亘理世臣家譜』など)もしくは「相模の国下郡」(『片倉代々記』)が定説。
でも亘理世臣家譜にも「ところどころ流浪遊ばされ」とあるので、もしかしたら糟谷にずっといたわけでもなかったのかも。

そして石川さんとこに偶然こんなすごい記述が!

→詳しくはこのエントリ【成実は政宗臨終に間に合ったか?】をお読み下さい。

『白達記』ー鏡に映った姿は/白石宗直

『白達記』は白石宗実さんから始まる、登米伊達氏のとこの記録。私もしぎのさんに教えていただくまでまったく知らなかった人なのですが、すごい興味深いのです。
宗実さんには息子が居なかったので、娘婿の梁川宗直さんが跡を継ぎます。しかし和賀一揆の責任をとらされ、政宗に登米を与えられ入部。政宗と不和状態に。で、宗直さんの父宗清さんはそもそもが稙宗の子。つまりは宗直は成実の従兄弟なのです。
ですが、大坂の陣で、二人が衝突したとの記述があるのです。

白石家の小旗持ちが先陣を命じられていた成実家の小旗持ちをおい抜かしたところ、成実は「出過ぎだ、引っ込むように」と言った。白石側は戦時において格好や行儀をするなどおかしいと反論。成実は「今日の先陣はこちらなのに、それを無視するからには政宗公に申し上げるほかない」白石「お好きなように」白石家家臣「我が家の旗は宗実の代より他家の後ろにたったことはない。ご記憶にあるはずです」と主張。
論争が高じてお互い刀の柄に手をかけ、内乱となりそうになったが、白石家家臣の必死の取りなしでどうにか収まった。

こ、この傲慢な姿を見よ!(笑) 成実「殿に言いつけるぞ?」が脅し文句! しかも刀を抜きそうに!てことはかなり興奮した口論になったはず…。本人である成実著の『政宗記』、その影響が強すぎる『治家記録』には到底出てこない記述…!! ある意味震えます。

そして政宗は。

宗直が臨終に際して、許してくれ、詫びたいといってきてもがんと聞き入れない政宗。宗直が死去した報告を受け、政宗は「もし宗直が生きていたら、このようにしてやろうものを」と手にした鶉を引き裂いた。
寺の和尚はあまりにも政宗の怒りが激しいので、棺が暴かれることを心配して以外を境内に隠しうめ、空の棺を登米に送り、葬った。本当の墓の所在は寺の境内のどこにあるのか不明。
政宗は登米から「伊達」の姓をとりあげ、一門から省き、一家に落とした。

この苛烈な怒りはなんでしょう…。宗直さんが政宗にとっていかに腫れ物だったかがわかるエピソードです。成実(というか大森伊達家がね)もある意味政宗にとっては腫れ物だったのですが、成実が帰参後牙を折り、政宗への臣従を明確にし、政宗全肯定の旗を全力で振る方(顕彰の為の書を書き、政宗に都合の悪い事実を隠蔽するライター)に行ったのに対し、宗直は反骨心をもちつつずっと腫れ物でいた…というのがわかって、本当におもしろい。
政宗から見て同じ立場である宗直と成実に対する態度の違い、そして二人の選んだ立ち位置の違い、でも共通する、一門衆であることの難しさ、中世から近世への主君ー家臣概念の変化などを考える上で、とても興味深いです。

あとどの本から写メったのかド忘れたんですが、
「慶長二年冬領内に伊達成実の変起るや…」て記述があり、吹きました…。
伊達成実の変…!! なんかの政変のようだ…!!

「変」は原則として体制内の権力闘争で、その最終目的は政変を伴った既存体制内の権力掌握で、あまり兵が動員されない事件レベルの闘争。

「乱」は既存体制に対抗する武力闘争で、その究極の目標は自らの支配する新体制の創設や革命で、それなりに兵が動員される内戦レベルの闘争。

「変」は必ずしも軍事闘争である必要はないが、「乱」は必ず軍事闘争でなければならない。

だ、そーです。それにしても各家の伝承で言及される出奔年代はばらっばらですね…。もうちょっと法則性有るかと思ってたのに…orz まったく類推できない…。時期で何が原因か推測するしかないのに、時期も結局あやふや…。

まとめ

まあどこの家中も「ウチの殿様が政宗公に一番重用されてたよ!」な意識の戦いが…。天和の訴願(亘理伊達氏断絶の危機に瀕して、亘理家中が本家に送った『ウチの殿様はこんなに政宗公に貢献したのに!』な訴状→聞き入れられて家は存続しました)もものすっごい「ウチの殿様すごい!」なんですが、亘理がすごいのかと思っていたのですが、これは…どこの家も同じなのですね…。もちろん政宗公は敬うのですが、やっぱ直接お殿様が一番!みたいな意識が。そして一門衆はそれぞれ独立した殿様なので、お互いの対抗意識も強かったのだろう…と。

そして成実像がひどい(笑)。
個人的に、若年期の成実とか小十郎は「政宗に重用されてることを傘にきて、好きなように振る舞っている」と思われていたところはあっただろうなあ…となんとなく思っていたのですが、多分その予想は外れていない…!!と確信を持ちました(笑)。
大河でも重用されてる小十郎に綱元や他の家臣が文句を言ってるとこありましたね。で、出奔しようとしていた小十郎を喜多がひきとめる的な。あと政宗に相談せずに、勝手に軍紀違反者を処刑してる成実のシーンもあった…。あのエピソードの元ネタはどこなんだろう…。
そういうことを防止するための小十郎&成実の意図的な接近およびさらなる重用が(おそらく)政宗によって仕組まれていたのだろうなあと。まあこの二人は実際仕事出来たと思うので、おそらく余計激しい…嫉妬はね…あっただろうと。でもそういうのを「なんか文句有ります?」て感じで見下げてる小十郎&成実がいそうです。とくに後の方の人…。
どうでもいいですが私は伊達家の老臣にだけはなりたくありません…。絶対「あいつら頭堅くてナー」とか馬鹿にされてそうで…。政宗にもどーでもいーとか思われてそうで…。

私はまあ『政宗記』等の著者としてのライター成実がとても好きで尊敬はしているのですが、内部(家中とか)にいては見えない、こういう他の人から見た成実像を重ね合わせると、実際に存在した成実という人がよりはっきり浮かび上がってくるような気がして、とても楽しいです。
もちろん、これらの書はリアルタイムの書ではないので史料批判や検討が必要なのですが、「家中の人はこう思っていた」「この時代にはこういう認識になっていた」そして「こういう風に思いたがっていた」ということがわかるので、とてもおもしろいですね。
私は、個人的に実際どうだったかよりも、どうして人はそう思いたがったか、そう書き記したか、の方が興味がある*3ので、真実追究の手はおろそかになりがちで、そこはまあ反省しております(笑)。
でも興味深いですね。

*1:まあこういう論拠があるので、私は小十郎と成実が争ってる創作にはちょいと違和感が。多分小田原の対立がそういう関係の論拠なのだろうけど、私は逆に気にせずに自分の思っていることを言い合える仲と認識してます。身分差はあるけど、気の置けない友人関係的な。成実の小十郎評はとっても上から目線ですが、最大級に褒めてます。

*2:恩賞が少ないのを不満に思った、一門第2席に置かれたことを不満に思った…等々。

*3:伝説の生成過程とかが好きなんですよね…