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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

出奔の理由についての『蒲生軍記』Wikipedia記述の謎

困ったときのWikipedia。たしかにあれ便利です。自分が知らないことちゃっちゃと調べるには便利。しかしよく見るとはてな?となる記述もある。

伊達成実(Wikipediaより引用)
出奔の理由についても、家中での席次を石川氏に次ぐ第二位とされた上に禄高も少なくされたことへの不満が原因であるとする説、秀次事件への政宗の連座を避けるために嫌疑の内容を自らが被って隠遁したとする説などがある。また軍記物においては、秘密工作実行のために政宗の命を受けて出奔したと描くようなものもある(『蒲生軍記』)。

前々からこれとても不思議でした。どこに載ってるの?と。

蒲生関係軍記はいくつかあります。

  • 蒲生氏郷記』:群書類従巻389・第21輯
  • 蒲生氏郷記』:改定史籍集覧第14冊
  • 『蒲生軍記』:国史叢書36
  • 『氏郷記』:改定史籍集覧第14冊

が主なもの。それぞれ異本・写本があるのと、似た書名なので、氏郷系の一般概説書・小説内の引用などでも混同されてどの史料のどこにかいてあるものかがよくわかりません(多分小説家さんでは直接史料にあたらず孫引きとかしてる人も多い模様)。

で、上のを確かめるために、国史叢書版の『蒲生軍記』を読んでみたのですが。

『蒲生軍記』解題:黒川真道による(意訳)
蒲生氏郷・秀行・忠郷の三代の事績を記したもの。
最初蒲生氏の由来から、氏郷が織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えて栄進し、文禄4年石田三成の讒により、遂に卒去に及ぶこと、其の子秀行封を襲えること、またその子亀千代封をついで下野守忠郷と称し、寛永4年会津にて卒去せることなどまでを記す。元禄8年岡西惟中自序して同年版行す。
岡西惟中は、医師にして俳人、一有と号す。後、一時軒と改む。もと因州鳥取の人大阪に出でて医を業とす。傍ら俳諧をよくする。医を杉田望一に、俳諧を西山宗因に学ぶ。書を能くした。元禄5年8月10日没す。年54。(大日本人名辞書より)

…どう読んでも、そんな記述は微塵もない…。
氏郷を中心とした三代記なので、政宗はもちろん出てきまして、悪役として活躍するのですが、成実は名生城人質のときに出てはくるものの、重実とかかれていたり、盛実と書かれていたり(で、人質時の事も『政宗記』ほど詳細は書いておらず、人物としてではなく名前だけの登場です)。
成実の出奔時期はいつだったかにしても、もちろん氏郷の死後なのですが、そこらへんは秀行や忠郷の描写のみで、政宗ましてや成実の記述なんてさっぱりないのです。もちろん文脈としても成実のことに触れるような部分も全くなし。とりあえず、国史叢書版の『蒲生軍記』にはありません。
どの氏郷関係軍記に成実の出奔(秘密工作説や連座隠遁説)に触れたところがあるのか、本気で知りたいので、どうか上のWikipedia記述に心当たりがある方、どうかお教えくださいませ。
まさかまったく記述がないのにでっちあげでもないでしょうし…。
Twitterの政宗botとかで、石川家の席次に不満説と並んで書かれていたりして、まるで同じくらいの説のように見えるようになっているのですが、席次不満説(こちらは治家記録や伊達家家中史料各種にも一応載っている)とは信憑性的にはレベルの違う説だと思いますので、ちょっと気になります。

あ、でも『蒲生軍記』のここ萌えました(笑)。

(氏郷の見舞いに秀吉がきたとき)「政宗は平生不和なりしか共、此時錫一千雙送られけり。」

錫…スズ…? 一千双…?双ってことは2個セット×1000…? 形状が想像できないのですが…。
嫌がらせなのか、本当にお見舞なのか、よくわかりませんが面白いです。