[sd-script]

伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『貞山公治家記録』の成実記述(元和・寛永)

慶長19年(47歳)から寛永13年(69歳)の政宗逝去まで。『伊達治家記録』宝文堂版の3・4巻分。

1614慶長19年:47

  • 1/21:忠宗→成実書状。献上物(白鳥一羽)への御礼と成実知行加増への祝い。
  • 7/17:成実→政宗書状受け取り、返書。下向についての連絡。政宗はこの時娘婿松平忠輝の高田城普請のため越後にいた。江戸へ行く予定だったが、体調不良により将軍家からも休養を薦められたため、近く仙台へ帰ることを伝える。/【大坂冬の陣開始】
  • 12/13:政宗→成実書状。仕寄についての書状。/【大坂冬の陣講和】

1615慶長20/元和1年(7/13改元):48

  • 【大坂夏の陣:〜5/8落城】
  • 8/8:伊達長次郞政隆死去(26)。子松丸(このとき2歳・清次郞重隆)跡を継ぐ。
  • 10/14:片倉景綱死去(59)。小十郎重綱跡を継ぐ。

1616元和2年:49

  • 4/17:家康死去(75)。
  • 4/22:成実→政宗蝋燭200梴献上。返書政宗→成実。家康の死と葬儀について。
  • 5/21:成実→忠宗へ馬薬・馬薬の書物を献上する。返書忠宗→成実。献上物への御礼と、政宗の様子を告げる。「政宗は、非常に機嫌良く下向した。詳細は直接聞けると思うが、言動にも表れているので、聞くように」
  • 7/19:忠宗→成実。忠輝の事について。この前に成実は忠輝のことについて忠宗へ問い合わせていた。
  • 7/22:忠宗→成実。忠輝の事について。

1617元和3年:50

  • 1/29:成実→忠宗、官位昇進の祝儀として、太刀馬代を献上する。返書忠宗→成実、祝儀の御礼と政宗の下向について記す。
  • 12/13:忠宗と秀忠養女振姫との婚礼。申の刻(午後四時)松平長門・米沢中納言の屋敷前にて、成実・大條薩摩実頼、振姫の輿を受け取る(記念誌では9/13と記載)。
  • 12/18:政宗秀忠に拝謁して別所貞宗他を賜る。成実も御目見得する。

十二月十三日甲辰。公方(秀忠)御養女源振姫御年十一嗣君(忠宗)へ御婚礼、申刻(午後4時)御城より御入輿、土井大炊助殿利勝・渡辺山城守殿茂・伊丹喜之助殿康勝を差副らる。大御番組頭丸毛兵左衛門殿奥方支配として相附けらる。長門侍従秀就朝臣松平長門守・米沢中納言景勝卿の屋敷前に於て、伊達安房殿成実・大條薩摩実頼御輿を請取り奉らる。大炊助殿より成実へ太刀目録を遣さる。成実も大炊助殿へ太刀目録進上せらる。振姫、実は播磨宰相源輝政卿池田三左衛門尉の御女、英勝院殿の御養女なり。大神君御在世の時、嗣君へ御縁約仰出さる。今度公方御養女とし玉ひて嫁せしめらる。
去る慶長十二年、英勝院殿御腹に、大神君の姫君誕生し玉ふ。此姫君を嗣君へ御縁約仰出さるの所に、同十五年閏二月に廿二日四歳にて早世し玉ふ。英勝院殿甚だ御悲嘆に就て、其年七月、水戸中納言頼房卿御八歳の時、英勝院殿御養子に仰付けらる。其後輝政卿の御娘を御養女に仰付られ、又嗣君へ御縁約仰出されしなり。

十八日巳酉。公・嗣君御登城、今度御婚姻の御礼仰上らる時に、公方より御脇指別所貞宗を公に賜ふ。御腰物長光・御脇指大鼓磬貞宗を嗣君に賜ふ。(中略)此時、伊達安房殿成実・伊達安芸定宗等、公方若君へ御目見仰付られ、各御時服下し賜ふ。安芸殿は馬一匹献上せらる。安房殿等献上品は知らず。

1618元和4年:51

  • 6/4:政宗→成実書状。宗綱病死につき、供養のため高野山に登った茂庭了庵綱元のことについて連絡。
  • 6/13:政宗が、石川昭光・成実・宗則・定宗・猪苗代正益・高屋快庵・小野宗碧・錦織休意・名村長吉・富塚信綱を饗応する。
  • 6/22:政宗→成実。鷹狩りの獲物の雲雀を9羽送る。
  • 6/29:成実→政宗。柚。
  • 8/19:成実→政宗。柚1鉢献上。
  • 9/8:成実→政宗。鶴一羽・鮭三尺・王余(魚のカレイ)十、柚一折。
  • 9/17:成実→政宗。白鳥一羽献上。翌日鉄砲訓練で入手した菱食を一羽遣わされる。
  • 11/13:成実・定宗・原田甲斐に茶を饗する。

1619元和5年:52

  • 1/1:仙台城に於いて祝儀あり。一番座として出席。

1620元和6年:53

  • 5/17:幕府より江戸城普請を命じられ、成実を名代に任命する書状を送る。
  • 5/19:亘理より上り、普請名代を了承。
  • 5/21:政宗→成実書状。帷子5重を遣わす。
  • 5/25:成実、江戸へ出発。大條薩摩実頼なども同時に上府。
  • 6/3:一行、江戸へ着く。
  • 6/10:家光、普請場を訪れ、上意を直接告げる。
  • 6/18:成実→政宗書状。家光の普請場訪問の詳細を報告。
  • 7/10:家光再び訪問。政宗→本多上野介正純へ御礼の書状を送る。
  • 7/13:政宗→成実書状。普請について注意を促す書状。
  • 9/1:政宗→成実書状。鮭一尺遣わす。亘理から成実がかねてから申し付けておいた初菱食が届いたことへの御礼。雨の心配など。
  • 9/6:政宗→忠宗・津田へ書状。普請に満足している様子を告げる。
  • 9/20:政宗→成実書状。普請がまもなく終了することに喜びを告げる。亘理留守居から黒鶴が献上された事への御礼。下向した際の面談の約束。
  • 10月:普請成就に際して、家光、大倶利伽羅広光を忠宗に賜う。成実もお目見えし、時服を賜る。普請場石壁13町余り、枡形一カ所。使用した人夫42万3079人、費用黄金2676枚5両3分。

1621元和7年:54

  • 1/1:政宗在国。仙台城にて祝儀有り。成実一門第2席として出席。
  • 2/13:江戸屋敷類焼について、家光より銀子500貫目、忠宗へ100貫目賜はる。/政宗→成実書状。その御礼名代として、成実に上府を依頼する。

1622元和8年:55

  • 8/21:最上の改易が決まり、仙台藩へ城接収の命下る。申の刻(午後4時)政宗→成実・定宗書状。接収使として任命する旨。成実ー野辺沢城、定宗ー清水城、大條ー東根城などを担当。

1623元和9年:56

  • 特記なし

1624元和10/寛永1年(2月晦日改元):57

  • 2/20:家光の初の御成、能などを催す。成実→政宗鴨30・鶴1羽・白鳥1羽献上。
  • 3/12:成実→政宗、鷹狩りで得た雁一羽献上。

1625寛永2年:58

  • 1/1:政宗在国。仙台城にて祝儀あり。一門第2席として出席。
  • 10/11:政宗→成実書状。鉄砲の名手である成実配下の萱場源兵衛の派遣を依頼。
  • 10/21:政宗、秀忠の鷹狩りに参加する。
  • 12/8:成実→政宗書状。鮭子籠3尺献上。政宗→成実返書、献上への御礼と鷹狩りの様子を報告。

1626寛永3年:59

  • 5/5:政宗→成実書状。秀忠が27、8に出発するので、自分は18日に京都に向けて出発することを告げる。(政宗は在江戸)「親子の仕合」
  • 8/24:成実→政宗。御機嫌伺いとして菱食1羽献上。
  • 9/3:成実→政宗。鶴3羽献上。
  • 9/6:二条城へ行幸があり、政宗出席。
  • 9/25:成実→政宗、官位昇進の祝いとして馬代銀1枚献上。

1627寛永4年:60

  • 1/1:政宗在国。仙台城にて祝儀あり。成実一門第2席として出席。宗実15歳の出席が見える。
  • 2/26:成実→政宗。鯛献上。政宗→成実返書。翌日の鷹狩りのことと、会津仕置(この年1/4の会津宰相忠郷の死亡と、会津の領土の今後について)について秀忠より聞いたことを述べる。

1628寛永5年:61

  • 3/27:成実・宗実・石川民部宗昭など→政宗3月26日の家光の御成についての祝いを送る。政宗返書。
  • 11/9:下向途中郡山駅に宿泊。成実→政宗。道中機嫌伺いとして肴2種献上。政宗返書。
  • 此の年:成実へ領地加増。宇多郡のうち10か村、200貫文加増。1226貫804文になる。

1629寛永6年:62

  • 1/1:政宗在国。仙台城にて祝儀あり。成実一門第2席として出席。宗実も出席。
  • 閏2/11:政宗→成実書状。昨日横川で対面できなかったため、夜名振の仮屋にくるよう依頼。翌日鹿狩り。
  • 5/2:政宗→成実書状。成実・石川に6日茶の饗応の旨告げる。
  • 5/6:政宗、成実・石川民部宗昭を茶の饗応。

1630寛永7年:63

  • 特記なし

1631寛永8年:64

  • 1/1:政宗在国。仙台城にて祝儀あり。成実一番座として出席。宗実も子息一席として出席。

1632寛永9年:65

  • 1/24:秀忠江戸城に於いて薨去(54)。
  • 1/30:政宗・忠宗→成実返書。秀忠逝去について告げる。

1633寛永10年:66

  • 1/16:成実→石母田宗頼書状。軍役人数の報告を提出。伊達成実人数覚書(伊達家文書2-939)。

1634寛永11年:67

  • 1/1:政宗在国。仙台城にて祝儀あり。成実一門第2席として出席。宗実も子息一席として出席。
  • 2/23:成実屋敷新築祝いの饗応。其の夜火事。【宗碧殴打事件&成実屋敷火事】

寅の刻(午前4時)数寄屋で茶の饗応。水仙と梅。
巳の刻(午前10時)表での能9番。成実→大夫時服2重、総役者に一万匹。政宗→成実時服10、夜着1。成実→政宗黒毛馬1・綿100把・板物30端献上。
子の刻(午後12時)政宗帰宅。
夜寅の刻(午前4時)成実邸より出火。肴町1町裏向かい延焼。政宗は火事と聞き「安房殿宅なるべし」といい、井上九郎兵衛を遣わす。佐々若狭によって、仙台屋敷へ移るよう伝える。

  • 2/24:政宗→成実書状。成実邸火事についての見舞い。28日の饗応への誘い。
  • 2/28:政宗、成実を饗応する。屋敷を作るよういい、絵図をかいて与えた。
  • 3/16:忠宗→成実書状。口切の茶・雁2羽献上についての御礼。
  • 7/7:成実→政宗。機嫌伺いとして使い。宗実→成実書状。

1635寛永12年:68

  • 9月:幕府に伊達氏家中知行高並びに家族書上覚書(伊達家文書3-1238)を提出。

「伊達安房守:母妻子御座なく候。越前守弟養子約束仕り総羅得共、只今手前へ引き取り申さず候。但し25,6と覚え申候」

1636寛永13年:69

  • 1月:江戸城堀改修の普請の命下る。
  • 4/18:政宗、保春院を詣でる。午後郭公の声を聞くために北山・西山・(のちの)経ヶ峰を訪れるが、声を聞くこと叶わず。「心細き様子なり」杖を立て、奥山大学に墓所の場所を告げる。その後、茂箇崎山へも行くが、郭公は聞けず、帰宅。
  • 4/19:茂庭石見綱元了庵宅で饗応。顔色悪く、食も進まず退出する。(→『政宗記』によるとこの日にも仙台城廻りの林へ出て、郭公を探した(が見つけられず)という。)
  • 【ここから先は政宗の最期の江戸行き】→6/23葬儀参列までの成実の動向は文末枠内参照
  • 4/20:若林を出発。岩沼にて朝食、白石にて夕食、宿泊。途中増田にて郭公が鳴くのを聞き喜ぶ。
  • 4/21:片倉家養子三之助と対面。出発後、町外れにて小十郎重綱と対面。讒言により謹慎していた小十郎を励ます。

「明日天下に御大事出来るとも、御先懸承り、其の方に先をさせ、成実に一方の団を取らせ、三人力を合する程ならば、時ならぬ花を咲かすべし。能く息災に国の留守せよ。我等は日増しに病気重く覚ゆ。もはや逢わぬ事もあるべし」といい、鳴いた。小十郎も声を上げて泣いた。

  • 4/22:郡山駅に着。顔色が悪く、薬を服用する。朝食は食べなかった。
  • 4/23:矢吹の原にて鷹狩りをする。白河駅に着。
  • 4/24:船生に宿泊。
  • 4/25:今市に到着。家康21回忌に当たるため、装束を着用の上、日光を参詣する。伊丹播磨守康勝案内する。本堂の脇から奥の院へ関段を上ったが、上一階にいたったところで、転ぶ。播磨守の案内を断り、感慨にひたり落涙する。足か手の大指からすこし出血したのを紙で結ばせ、観覧した後今市の宿へ帰る。志賀栗毛が変死。
  • 4/26:梅宮で朝食をとり、栃木で宿泊。
  • 4/27:久喜で宿泊。
  • 4/28:平塚で迎えにきた忠宗と合流。未下刻(午後3時)江戸藩邸に着。忠宗は食事を出すが、あまり食べられない。
  • 4/29:松平伊豆守信綱上使として訪問。登城のことを告げる。
  • 4/30:宗実→政宗飛脚来る。
  • 5/1:江戸城へ登る。家光と面会。
  • 5/2:家光の命により驢庵法印が来診。
  • 5/3:驢庵法印の薬を飲む。
  • 5/4:普請の指示をだす。
  • 5/7:南次郞吉らから殉死願いを出され、それへの返書を送る。
  • 5/8:この日より武田道安の薬を服用。
  • 5/10:忠宗の命により、石母田・牧野・津田・古内から茂庭・奥山へ連名の奉書。政宗病気のために国からの上府を禁ずる。見廻・挨拶のため古沢・中島・石田などを上府させるべしと告げる。
  • 5/13:本多忠勝・酒井讃岐・柳生宗矩が上司として訪れる。驢庵通安の治療が上手くいかないため、江戸中の医師を集め相談し、京都の医師なども探しており、見つかり次第派遣すると告げる。

このころ、政宗の病気をしり、仙台藩の藩士が江戸のあちこちに寄宿していた。利根川において人止めを実施し、押し返していた。しかし多くの藩士が忍んで登っていたという。

  • 5/16:今大路道三法印の薬を服用し、やや効果あり。食事を二度食べる。
  • 5/17:容体悪化する。
  • 5/18:焼火の間へ来出。しかしこれ以後は来出が不可能となる。加藤十三郎殉死の願いを提出、政宗返書。

この間、毎日多いときは二度上使あり。上使があるときは政宗は必ず裃を着て対面したため、家光は上使の派遣も自粛するべしと命じた。政宗はこれまでの感謝のため対面を希望する旨を告げ、家光は御成を決める。幕府より江戸中の寺社へ政宗快癒の祈祷を命じた。

  • 5/20:土井利勝・本多忠勝より翌日の御成があることを告げられる。
  • 5/21:柳生宗矩が家光が東海寺へ外出の際に、密かに訪れる予定であることを告げる。朝早く表へ出、行水、月代の手入れなどをして待っていた。調子はさらに悪くなり行水なども医師から留められていたが、入念に支度し、浅黄の袷・帷子上下を着て、待っていた。/昼すぎ御座の間にて土井利勝・柳生宗矩に左右を、本多忠勝に背中を支えられながら家光と対面する。家光は立ち上がり、政宗に近づいて病状を訊ね、養生することと、きっと治るから祝儀に何を望むか決めておけ、どんなことであっても用事があればなんでも言うようにと上意があった。/家光はその後、石母田・中島・小十郎・佐々を呼び、政宗の養生について注意深く心を配るよう命じた。家光は忠宗にも言葉を与える。/家光が帰ったあと、内藤外記・柳生宗矩が戻り、政宗の態度を褒めると、手を合わせて「有り難きことだ」と感謝した。
  • 5/22:家光御成の御礼として石母田大膳が老中に参上する。途中土井利勝に会い、御礼言上する。針治療の医師が派遣され、焼火の間にて針治療が行われる。

もう食事はとれなかった。

  • 5/23:正室めご姫、千菊姫からの対面の希望があったが、却下する。未の刻侍女小川を使いとして、伽羅・巻物など形見分けとして送った。この日小康状態になり、老侍女小川らを呼び、年若い者を下げ、秘蔵の文書などを処分し、座敷の整頓をした。侍女中が「なにか言い残すことがあれば」というと「家光との対面も果たし、忠宗という子もあり、心残りはない。徳川の家の為に奉公忠孝をつくすべき」と言った。そして奥向き女中たちのその後などを言い置いた。/夜になって静かに入浴し、服を着替え、髪を結い直して眠りについた。ふと目覚めて時間を問い、「秋の夜のように長く思える。畳の上で死ぬとはおもわなかった」とつげて再び眠る。/また時を訊ね、もうすぐ曙である、と答えると、機嫌良く小便に行き、帰ってから西方に向かい合掌した。忠宗は快庵と看病した。
  • →このあたりは『木村宇右衛門覚書』に詳しく書かれている。
  • 卯の刻(午前6時)政宗、薨去。
  • 松平伊豆・本多忠勝ら上意として参上。3日魚物の店を閉めさせ、7日間見世物鳴物の自粛を命じた。/遺体は束帯を着せられ、戌の刻(午後8時)仙台へ下る。酒井から殉死止めの命令が下るが、覆される。
  • 5/24:久喜で一泊。
  • 5/25:見物人多く群がる。堀普請の免除を告げられる。
  • 5/26:土井より忠宗への跡目相続滞りないことを告げられる。
  • 5/27:宇都宮・喜連川を通る。
  • 5/28:芦野駅へ着。
  • 5/29:郡山着。
  • 6/1:本宮・二本松・八丁目を通り福島駅着。
  • 6/2:白石城着。
  • 6/3:覚範寺に着。
  • 6/4:経ヶ峰に葬る。この後24日までに殉死者多数。
  • 6/23:雨が少し降っていたが徐々に晴れに。熱さ甚だしい。未明に棺を覚範寺から出し、未下刻(午後3時)葬儀終了。/成実は馬に引かれ、子息・一門衆7番として参列。正室めご姫落飾し、陽徳院となる。

4/20の仙台出立から6/23の葬儀参列までの間に成実の記述はなし。『政宗記』には白石での小十郎との別れ・増田での郭公目撃・日光参詣・家光御成・臨終前後など記事はあるが、一門第1席の石川家の記録『石川一千年史』に「石川民部宗敬は一度上京しようとしたが13日の上府禁止命令が出た後いったん帰った。18日に伊達安房が江戸に向かったと聞いたので自分も出発したが、23日古河で訃報を聞いた」とある。
この記述を信頼するならば、成実は上府には付き従わず、上記の白石〜江戸での御成の記事などは聞き書きである可能性がある。治家記録などの記述にも成実は登場しておらず、いなかった可能性が高い(片倉重綱などは白石で政宗と別れたあと20日までに上府している)。
成実は18日頃、石川民部より先に江戸に向かったはずだが、いつ到着したか、到着できたかどうかは『治家記録』『木村宇右衛門覚書』『政宗記』になどにも一切記載されていない。