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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』1-3:二本松気遣給事、附猪苗代武略事

『政宗記』1-3:「二本松へ気遣なさること、猪苗代への計略のこと」

原文:

(伊達史料集上より。語句は大体そのままですが、漢文の部分は古文体に)

抑会津へは手切なれども、会津一味の二本松とは、手切もなく未無事也。其謂を如何と申すに、其頃成実親実元、信夫の大森を成実に渡し、八丁目へ世外となりて移居。此故に二本松*1義継、実元所へ内通ありて懇し給ふ。其子細は、佐竹会津へ一味たりと雖ども、二本松・四本松*2は、本来佐竹・会津或は仙道何方へも、威勢のつのる処を見合、身をもたるる身代なれば、政宗若年なれども政道賢く文武の強敵なる故、今度許にて伊達軍つのりなば、義継も実元を頼み降参あるべきの底意なり。実元も又存る旨のありければ、彼境をば尚も首尾よく鎮めける。其品々は左に顕はし候ひぬ。角て成実、居城大森を五月八日*3に打立、九日檜原に参り、政宗の前へ出れば、「今度会津への手切に付て二本松との境は如何に」と尋給ふ。「先安穏にてまします、さればとよ、義継御許を大事とや思はれけん、二本の臣下遊佐下総と申せし者、日頃実元に知人なるを悦び、彼の下総を度々使に預り、内通に依て如何にも静に候、彼の境の手切は御差図次第なり」と申しければ、其場に在ける人をのけられ密かに、会津への手切無首尾に付て左馬介*4敗軍の品々語り給ひ、「行はありけれども、先々何方も切所なれば、当時仕掛けるべきやふもなき故、昨日も人数相返しけり、去程に、二本松との境をば先静め度子細にや、会津へも手切、扨二本松へも手切、一度に両口は如何」と宣ふ。其にて成実申しけるは、「会津の大身猪苗代弾正盛国臣下に石辺下総と申せし者、其郎等羽田右馬介首尾有ものにて候程に、彼手筋を以て弾正を拵へ見候はんか」と申しければ、右馬介呼べとて召給ひ、成実口上を承り、書状を以て汝武略を致せと宣ふ、扨片倉景綱・七宮伯耆・成実、三人にも添状せよと宣ひ、何れも其にて書認めけり。彼伯耆本は会津牢人なりしが、伊達に扶持せられ心だてよかりければ、心に入不断政宗相手の者なり。中に就き会津に知人多かりければ、今度の書状も越せたまへけり。扨又片倉小十郎景綱、元来を申に如何にも小身なりしを、政宗幼少より見立給ひ、目近く使ひ給ふに、武勇の誉は言ふに及ばず、第一案者のものにて、縦ば十ヶ条を思案せば、先へゆき兼ることは人々の習ひなるに、景綱右十ヶ条皆先へ行ける思案どもなり、加様の事をも政宗をば、若年より格別なりと、家の者とても思ひけるにや、誠に其砌りは、未だ人の目にも立ず、歩立の小十郎を取立て給ふに、名誉の者にて末には家に従ひ一二を争ふ程の大身にし給ひ、臣下と成て剰へ伊達の先陣程の大身にし給ふ。是に付ても、上下万民感じ奉る。か程の小身者を取立給へば、何国にも人間の生付にて、そしりねたみは有ものなれば、傍輩の立身は申すに及ばず、かりそめ也とも主君の前、今日は我より仕合能としるときは、妬心はあるものなるに、政宗少より我一代に景綱を始め、幾多の人を取立給ふと云ども、家の大身或は田夫野人に至る迄も、誹謗のことは扨置ぬ。一人に情深くましますときは、万民共我身の様に忝きとすすみけり。されば昔より名大将と呼ばれけるは、第一先我家の人を見知り給ふにより其将得と云へり、恐らくは政宗をも名将とも云わんや。政宗十九歳の、天正十三年の乙酉八月十二日より、仙道の四本松へはじめて馬を出されけるに、父輝宗不慮なる生害をなし給ふ。正に此時を見分、会津・仙道しかも老朽の佐竹義重始め七家の大将、伊達をかすめ取らんとて、仙道の本宮へ陣を備へ、若年の政宗を掌の中に握り、合戦をいどむと雖ども、御味方の軍兵日来思ける証にや、一騎一人二心なく、大勢と取向勝利をえ、歴々七家の大将、十九歳の政宗に却って後姿を見給ふ。其品々左に悉く見(あら)はすなり。尓して右の数条は、文其儘したためければ、政宗宣ひけるは、「彼の文ども当所*5より猪苗代へ越し、返事をば大森へ遣すべし、今日は日も暮れ人馬も草臥如何なれども、二本松の境気遣なれば、急ぎ帰るためと今夜中途の宿をば緤野民部仕れ」と、先へ宣ひ遣はされけり。「大義なれども夜を日に継で帰れ」と宣ふ。故に其日に檜原を罷り帰る。尓る処に六七日とて、大峯式部・七宮伯耆、大森へ下さる猪苗代よりの返事披見の処に、弾正納得悦び旨斜めならず、其元より猶も武略肝要なりと宣ふ。式部・伯耆をば、人の知らざるところに指置き、右の使元来猪苗代より出ける三蔵軒と云出家を申付、今度は信夫の土湯通を遣す。其状に「檜原より進みける御返答披見の処に、忠節有るべき旨、悦の至なり、此上御望の義これあるにおいて、聊底意無く承るべく、政宗判形相調進ずべき由申ければ、返状に、御忠節つのり会津御手入あるならば望の品々此の如し。
一、会津の内、北方半分下され置かるるべき事、
一、会津の者ども、某より以来御忠節ありとも、代々の会津に於いて、引付の如く座上にさしおかれくださるべき事、但御譜代衆にはかまわぬ事、
一、御軍募らずして、猪苗代を退きなば、御家に於いて、三百貫文処、堪忍分を下されおかるるべき事、」
右三ヶ条望に付ては、式部・伯耆は大森に逗留致し、弾正書付計差上げければ披見し玉ひ、政宗よりの書付に
「一、弾正三ヶ条の望み、違乱有間敷事、若亦居城を立除なば、領中柴田に於いて三百貫文の所、望みの如く、充行べき者なり」と
判形相調、この如くにて其書付をば成実に相渡し、式部・伯耆は檜原へ参る故に、三蔵軒に判形持せ猪苗代へ遣ければ、二三日とて盛国*6返事に、「御判形慥に請取戴奉、然りと雖も、家督の盛種是非会津へ奉公と申程に、如何にもして是をなだめ手切せん」と申す。一両日相過、又三蔵軒を遣はし、急ぎ手切あれと申しければ、盛種承引なく父子の間二つになり。家の子迄二つに分かれ、申合の手切れ相違して、会津への軍も叶はず、檜原に新地を取立給ひ、後藤孫兵衛*7を城代にして、御身は先帰陣し給ふ。斯て政宗十九歳の五月、在城米沢より出給ひ、軍行始め是也。成実も其時十八歳にて、何のわきまひもなく他国へ武略を、今存合けるに、扨もあやうきことども哉と、余所の聞も辱敷、身の毛もよだち候事。

現代語訳:

さて会津とは関係を絶つことになったけれども、会津に味方する二本松とは、手切もなく、まだ無事だった。その理由はどうしてかといいますと、その頃成実の親である実元は信夫の大森城を成実に渡し、八丁目城へ隠居となって移り住んでいた。この為、二本松の畠山義継は、実元のところへ内応し、親しくしていた。その詳細は、畠山氏は佐竹・会津へ臣従していたが、二本松・四本松は元々佐竹・会津へも、また仙道のどの方面へも、勢いのよいところを見て地位を守ってきたので、政宗が若年であるけれどもよく領地を治め、文武を備えた強敵であるため、この次に伊達が政宗の名で軍を募るときには義継も実元を頼りに投降したいという下心があったのだ。
実元もまた有る理由があったので、この境界線を以前と変わりなくよく鎮めていた。その理由は左に書いたとおりである。
こうして、成実は居城である大森を天正十三年五月八日に出発し、九日に檜原に参上し、政宗の前に出ると、「今回会津との手切に際して、二本松との境界の様子はどうであるか」とお尋ねになった。「実に平穏無事である。義継は 二本松の家臣に遊佐下総という者があり、よく実元の知り合いであるのをよく思い、この下総を度々遣いに送ってくる。内通ついても非常に静かである。かの境界線の手切れについては政宗の指図次第である」と要ったところ、その場にいた人を退けられ、密かに、会津への手切れが上手くいかなかったことについて、原田宗時敗軍の詳細を語られ、「道はあったけれども行くところ行くところどこも難所であるから、今仕掛けるべき理由も無いから、昨日も一隊を帰らせた。だから二本松との境界を先に鎮めたく思うのだ。会津へも手切れをし、また二本松へも手切れとなり、一度に両方面と対立するのはどうだろうか」とおっしゃった。それを聞いて成実が「会津の重臣猪苗代弾正盛国の臣下に、石辺下総と云う者がいる。自分の郎等である羽田右馬介と縁のある者なので、その伝手をたどって、弾正に内応を誘ってみるのはどうでしょうか」と言ったところ、政宗は右馬介を呼べと言って御前にお呼びになった。成実の言ったことを採用し、書状でこの計略を実行しろとおっしゃった。片倉景綱・七宮伯耆・成実ら三人にこの書状に添え状を書けとおっしゃり、三人ともその場で書を認めた。この七宮伯耆という者は、もとは会津の浪人だったのだが、伊達家に仕え扶持を貰うようになって、性格がよかったので、気に入られ、常に政宗の相手をしていた者である。とりわけ会津に知人が多かったので、今回の書状を送らせた。また片倉小十郎は、元はといえば非常に身分低かった者だが、政宗は幼少のころからその才を見定め、周辺でお使いになっていた者で、武勇に優れていることはいうまでもなく、非常に思慮深く頭がいい者である。例えば、10のことを考えた場合、普通なら総てが上手くいくことはないが、景綱の場合はこの10の考えすべてがみな上手くいく考えばかりである。このようなことを政宗は若い頃から格別であると、家来であるけれども思っていたのであろう。景綱はその頃は、本当に目立つような存在でもなく、徒立の身分だった。政宗が小十郎を取り立てなさると、評判を博し、後に伊達家に仕えるようになり、一二を争うほどの禄高をいただく者になり、家臣として伊達家の先陣を任せられる程の重臣となされた。このことについても、みな非常に感服申し上げる。小十郎のようにこれほど身分低い者を取り立てなさると、どの国でも人間の性質として、妬みや悪口をいうことがあるものだ。同僚の出世はもちろん、主の前で少しであっても、他の人間が今日は自分よりよい目にあっていると感じたときは嫉妬心が生まれるものだが、政宗は幼少時から一代で景綱を始め多くの人を取り立てたが、家の重臣達も、教養のない者までもみな、他人を悪くいうことはなかった。一人に情愛深く親しくなされるときは、みな自分のことのように有り難いと感動したものである。昔から名大将とよばれた人たちはまず第一にその家臣達を見て、その器を計られるという。このことからおそらく政宗も名将と呼ばれるだろう。
政宗が十九歳の、天正十三年八月十二日から、仙道の四本松へ始めて出陣をなさったところ、父輝宗が不慮の生涯事件に遭遇なされた。この機会を見て、会津・仙道を支配する老佐竹義重をはじめとする七つの家の大将が伊達家の領地をかすめ取ろうとして、仙道の本宮へ陣を立て、若い政宗を手中にしようと合戦をいどんできたのだが、味方の兵士達が日頃忠節を抱いていたためか、だれひとりとして裏切りも無く、大軍と対面して勝利を得て、これらの七つの家の大将は逆に、十九歳の政宗の後ろ姿を見る事になった。その詳細を左に細かく書きしるします。
政宗は「この書状はここ(檜原)から猪苗代へ送り、返事を大森へ寄越すよう。今日は日も暮れ、人馬も草臥れているだろうけれど、二本松境のことが気がかりなので、急ぎ帰るために、今夜途中の宿を緤野民部をつかえ」とおっしゃり、先方へ知らせなさった。「大変だが、昼夜を徹して帰れ」とおっしゃったので、其の日に檜原を退き帰った。
それから六、七日後、大峯式部・七宮伯耆が大森へ送った猪苗代からの返事を御覧になったところ、猪苗代盛国が内応を承諾したことを非常に悦び、成実からもなおも計略をすることが肝心である、とおっしゃった。式部・伯耆を人に知られないところに配置し、猪苗代出身の僧侶三蔵軒を次の使者にし、今度は信夫の土湯通に遣わした。その書状に、「檜原から送られてきた返事を御覧になり、内応の意志があることを聞き、非常にお喜びになった。このうえ望みのものがあると聞いて、下心無く聞くために、政宗の判形を作成し送る、と言ったところ、この返事には
「寝返りが成功し、会津との合戦となるならば、望みのものは以下の通りである。
1.会津の北半分を知行に賜うこと
2.自分より後に会津の者達が伊達家に奉公する事オになっても、猪苗代氏を上座に於くこと、ただし、譜代衆になれなくてもいいこと
3、この攻略が不成功になって猪苗代を退去するようなじたいになっても、伊達家内で三百貫文の所領を堪忍分に賜りたいこと」
この三ヶ条の要望について、式部と伯耆は大森に逗留し、弾正が書付を送ったところ政宗はこれを見、書き付けに
「弾正からの三ヶ条の要望は間違いなく了承すること、また猪苗代を追い出されたときには、伊達家領内の柴田郡に三百貫文を与え、家臣とする」と判形を調え、この書き付けを成実に渡した。式部・伯耆は檜原へ行く予定があったため、三蔵軒にこの判形を持たせて猪苗代へ遣わせたところ、二三日して盛国の返事が来た。
盛国の返事には「判形は慥かに受け取りました。しかし、嫡男の盛種(盛胤)はどうしても会津へ奉公するというので、どうにかしてこれをなだめて会津と手切れしたいと思う」と有った。数日過ぎて、また三蔵軒を遣わし、急いで手切れしろと言ったところ、盛種の承諾が無く、親子が対立する結果となった。家中の者達も二つに分かれ、かねてから申し合わせてあった手切れができなくなったため、会津への出陣もできないと通知してきたので、政宗は檜原に新しい砦を築き、後藤孫兵衛信康を城代として、政宗は米沢にお帰りになった。
このようなことが政宗の十九歳の五月、米沢城から出て軍事活動を始めた最初であった。私、成実もこのとき十八歳であったので、何の分別も無く他国へ計略をしたのですが、今から考えると、なんと危ないやり方だろうかと外聞にもはずかしく、ぞっとなるようなことである。

語句など:

抑(そもそも):さて/いったい/もともとは
手切(てぎれ):相互関係を絶つこと/交渉が破談となり敵対行為を取ること
さればとよ=さればとや:それはだね。だからこそ。そうだね。相手の言葉をうけて発する語。
切所(せっしょ):峠や山道などの要害の土地、交通の要所に設けた防御用のとりで、難所。
行(ぎょう):道路・道筋
当時(とうじ):今/その時
やう(様):様式/様子/理由・訳
人数(にんじゅ・にんず):人の数/大勢の人
中に就く(なかんづく):そのなかでも・とりわけ
案者(あんじゃ):思慮の深い者/知恵の優れた者
是非(ぜひ):正しいかどうかということ/どうあっても・きっと
承引(ひきうけ・しょういん):承知・承諾

感想:

天正13年5月9日〜6月にかけての二本松への状況伺いと、猪苗代盛国への調略の詳細です。
この記事でおもしろいのはつい筆がすべってしまったかのような小十郎への賛美でしょうか(笑)。七宮のことをかいたので小十郎のことも合わせて書いてたら二本松とか猪苗代とかの本筋を忘れたかのように、小十郎の才能・能力への賛辞を書きまくったあと、そういう小十郎の才を見抜き、取り立てた政宗への賛辞…をかいた後我に返ったのかなんとなくまとめたあとしれっと猪苗代攻略の話に戻っています(もちろん「本筋忘れた」とか「我に返った」とかいうのはすべて私の勝手な感想ですが、文章のバランスからいうとそうとしか思えない…(笑))。
そしてラストのあたり、成実自身が自分が担当していたこの調略について回顧している文章がとても印象的です。まあ政宗も成実も十九歳と十八歳ですし…数えだから今なら二人とも高校生ですもんね…。70を越えた成実が回顧したとき「まったく若気の至りだった」と思ったのでしょう。
成実の文章は、あんまり感情が表れた文章ではありませんが、こんな風にぽろっと書く一文が非常に印象的です。あと、この文だと真ん中あたりの「是に付ても、上下万民感じ奉る」の一文など非常におもしろいです。「自分はこう思った」というのではなく、「みんなこう思った」という書き方で自分理論を底上げする人なんですね、わりと(笑)。

*1:畠山

*2:塩松

*3:天正十三年

*4:原田宗時

*5:檜原

*6:弾正

*7:信康