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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』3-1:安達郡渋川戦之事

『政宗記』3-1:「安達郡渋川での戦のこと」

原文:

(小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967を主にし、『仙台叢書11巻』も参考にした)

天正十三年乙酉十月より同十四年丙戌七月二本松籠城に付て、八丁の目用心の為、成実其年十八歳のとき、渋川の要害に差置玉ふ。同十三年十一月十七日本宮合戦相過、仙道口万つ仕置共仕給ひ、政宗四本松へ帰陣たり。去程に成実も十二月に至て、右の渋川へ罷帰。然るに同月十一日の戌の刻計りに、成実不断居ける坐敷にて、郎等鉄砲の薬箱へ取はつし火を落かけ、其火総の箱へ移て焼立程に、城中残りなく成実も以の外焼、今に至るまで右の手指一にねばり合、一代の片輪になりける程に、其砌十死一生は云に及ばず。かかりける処に、明る十四年正月一日午の刻に、二本松より乗掛の用に働出、先へ鎧此者一騎、歩立十余人出来て、陣場の末にて水汲共を追廻けるを、成実は者共出合い競合ければ、二本松への海道に柴立の子山有て、道一筋の処を御方の者共追掛けるに、彼柴立の後に敵二百騎、歩立足軽共二千四五百隠し置、其勢起り立程に、御方の軍兵守返し、海道へは申に及ばず、脇々へも追散ざれば、敗北申も中々愚なり。扨此方よりの物頭に、成実郎等志賀大炊左衛門・遊佐佐藤右衛門といふ二人遣はしければ、敵の鹿子田右衛門、佐藤右衛門を日頃聞及びたりとて、合戦には構はず高き所へ乗上、見物しけるに、佐藤右衛門其近所の生れにて、案内をばよく知たりけり、味方追れける道より西の方へ、ひきのき敵追過たりけるを、田一枚の内にて二三人物付二人が首をとり、其より追返し亦一人にものつけをして、右衛門が控へたりける処迄追付けられ、鹿子田もこらへかね野路といふ処追込られけり。其迄志賀大炊左右衛門真先蒐乗入、敵四人に物付けるに、兄の羽田右馬介は余処へ行てをそく翔付、横馬に乗入五人に物付ければ、味方きをひかかって敵三十余人が首を取られ、後れける処へ私領八丁の目より、助け来りける味方の者ども、合戦に構はず今の海道を野路へ打越けるに、合戦場は二本柳より東にて敵押切らるるべくと思ひ、尚も崩れけるを追討にしければ、鹿子田飯土井の細道に、馬を立合足並にて逃げる者を押返し、物別れしけるは名誉比類なき鹿子田なり、崩れかかりて逃げる人数を取集、物別れさせけることは、何としても成がたかるべきものなり。さる程に、敵雑兵共に三百四十余が首をとり、味方も雑兵三十余人の討死にて、日も早漸暮かかりければ、物別れして勝凱歌を取行ふ。扨遊佐左藤右衛門其日の手際を、鹿子田見て馬も手手かけ引中々見事天晴巧者の達人かな、聞及たる程の者なりとて褒美の由後に聞けり。而して政宗小浜に御坐は、同正月二日の日右の首とも、差上げるに悦び給ふこと尋常ならず。此合戦政宗二十二歳のとき也。

現代語訳:

天正13年10月より、同14年7月二本松籠城の際、成実が18歳の年、八丁目城の用心のため、渋川の要害*1に在城を命じられた。同13年11月17日本宮合戦が終わり、仙道周辺のすべての仕置をなさり、政宗は塩松へお帰りになった。なので成実も12月になって、その渋川城へ帰った。
さてその月11日の戌の刻頃(午後8時頃)に、成実が普段居た座敷にて、郎等が鉄砲の火薬箱に取り外して火を落としてしまい、その火がすべての箱に移り、燃え上がってしまったので、城は残り無く、成実も想像以上に火傷し、現在に至るまで、右の手指がひとつにねばりあい、一生の片輪になった。そのときは本当に死ぬかと思ったのはいうまでもないことです。
このようなところに、明くる14年正月1日午の刻(昼)頃に二本松から、鎧武者一騎・徒立ち10人余りが現れ、陣場の端で、水汲みの用をする者立ちを追い掛け廻していたので、成実の配下の者が出て、応戦した。二本松への街道に柴立てされた小山があって、道がひとすじになったところを味方勢が追い掛けていたところ、その柴立てのあとに、敵200騎・徒立ちの足軽たちが24,500人が隠れており、それらが立ち上がった。味方の兵は守りつつ返し、街道へはもちろん、脇の道へも追い散らすことができず、敗北したのは気が緩んでいた。
さてこちらからの足軽大将に、成実の配下の志賀大炊左衛門・遊佐佐藤右衛門という2人を使わしたところ、敵の鹿子田右衛門が佐藤右衛門の名声を日頃から聞き及び、合戦にかまわず高いところへ乗り上げ、見ていた。佐藤右衛門はこの近くの生まれであったのでその辺りの地形をよく知っていた。味方が終われた道から西の方へ退き、敵が追い掛けているのを、そこから追い返し、1人を捕まえ、佐藤右衛門が控えているところまでおいかけ、鹿子田もこらえかねて野路というところまで追い込まれた。そのとき志賀大炊左右衛門が真っ先に兵を集め、乗り入れ、敵4人に取りすがったところ、兄の羽田右馬介は余所へ行っていたのでおそく駆けつけ、横から乗り入れ、5人を討ち取った。味方はやる気をだし、敵は30人余りの首を取られ、遅れた所へ自領である八丁目城から援軍が今の街道を通り野路に出てきたところ、合戦場所は二本柳より東にあって、敵を押し切れるだろうと思い、崩れかかったところを追い討ちしたところ、鹿子田は飯土井の細道に馬を立たせ、逃げる者たちを押し返し、引き分けにしたのはさすが武勇に秀でた鹿子田であった。崩れかかって逃げる者たちを引き分けにさせたことは本当に難しいことである。
結局敵・雑兵含めて340余りの首をとり、味方も雑兵30人あまりが討ち死にした。すでに日も暮れかかっていたので、決着がつかないまま引き分けにして、勝凱歌を歌った。
さて遊佐佐藤右衛門のその日の手際を、鹿子田が見て見事あっぱれの巧者である、聞いていたとおりの者だと褒めていたということをあとで聞いた。
政宗は小浜にいらっしゃったので、この月の正月2日の日にこの時に討ち取った首を献上したところ、非常に喜びなさったということだ。この合戦は政宗が22歳のときである。

語句・地名など:

渋川(しぶかわ):安達郡安達村渋川
柴立(しばたち)=柴挿(しばさし):祭に先だつ物忌みのときにその印として柴を差し立てること。また祭場を標示するために柴をさすこと。
物頭(ものがしら):組頭・足軽大将など。

感想:

成実が火傷をした渋川の火事、そしてその後天正14年正月の渋川城襲撃の顛末です。
12月17日に火事で全焼して、手がくっつく程の火傷をして、1月1日にこんな襲撃を受けて撃退ってすごいです(成実は出陣はしてないですが)。スーパー高校生…。
それにしても渋川城、城代が普段いる座敷に火薬がおいてあるってのはどういう状況?(笑)と思います。地図で見てみると渋川の規模は小さめなので、もしかしたらものを置くところがなかったのかも…。雪も降るので、成実の部屋が一番奥で湿気を避けてた…とかそんなことでしょうか。これ以降成実は右手が不具になってしまいますが、自分であっさり「かたわもの」とかいてますし、他の記録にも特筆すべきこととして載っていないので、戦傷からの障害ってのは戦国大名としては別に大騒ぎすることではなかったのではないでしょうか(まあ成実の火傷は戦傷ではないけども)。親指がどうなってたかだけが気になりますが、(老年期になってから)薙刀振りまわした逸話ありますが、ってことは親指だけかろうじて分かれてたかな?
当時の怪我の手当というのは酒や焼酎をかける程度のことしかできなかったらしく、生き残れたのは若さ故の頑強さのおかげでしょうか。現在なら分離手術もできるでしょうけども(同様の怪我をした有名人である野口英世は大人になってから一応手術したらしいですが)。感染症とかならなくてよかったね…。
そして渋川合戦ですが、鹿子田と遊佐の戦場での認め合いがかっこいいですね。

*1:城より簡素な砦